真珠貝の唄
真珠貝の唄
海が呼んでいる。いつもそう思う。これは自分だけではない。他のダイバーも同じように、思っているようだ。だから、どんな危険な目にあうかわからないのに、毎朝、あんなに陽気に出かけて行く。毎朝、海が呼んでいるからである。亜熱帯の紺碧の海が呼んでいるからである。
こうして異国へはるばるとやってきたのも、海が呼んでいたからである。ダイバー達はいつもそう言って仕事に出かける。
青い海の底にいると、故郷の海にいるようだ。海は故郷の海と繋がっている。
故郷の紀州を出て木曜島へ来るには、一旦神戸へ行かなければならなかった。紀州から神戸へは直通航路が結ばれていたから、ここからは、便利だった。
神戸を出ると、マレーを廻って豪州へ向かう。何日船の上にいたのか忘れるほどの日を経て、豪州へ着いた。
海の中は、美しかった。白蝶貝、黒蝶貝、さらさ馬蹄貝が澄んだ海流の中にいる。そこは浄土さながらだった。死んだら、安らかな国で永遠の生を得られると子供心に思っていたが、まさにその世界が、今目の前にあるのではないかと思われた。極楽とは、こんな世界なのだ、といつも思った。
しかし、極楽は視覚の世界だけだった。潜水服に身を包んでいても、さすがに海水の中にいると全身が冷たくなる。だから、手っ取り早く貝を採って、船に戻らなければならない。
そして、極楽のように見えても、海の底はやはり海の底だった。大自然の端末で、底知れぬ世界の入り口に過ぎなかった。
だから・・・、海の中は危険が一杯だった。
今までも、多くの若者が死んだ。だが、自分だけは大丈夫だと思っている。
湯原保雄は和歌山県牟礼郡草津村に生まれた。尋常小学校を卒業して、祖父の操る船に乗った。村からあまり遠くない海で漁を始めて数年が経っていた。十五歳になっていた。家のすぐ裏に住む、ひとつ上の達夫が木曜島へ行って二年が経つ。祖母がときどき夕餉のとき、豪州はやはり景気がよいのかねえ、と言った。
・・・あれから、もう三年が過ぎている。海と山に挟まれた猫の額ほどとみんなが言う狭い地に、何倍もある立派な家が、近頃どんどん建っていく。豪州の海の真珠貝が家に変わったと、もっぱらの噂であった。
ある夜、おれも大きくなったら豪州へ行くよ、と祖母に言った。そして三年前に故郷を後にした。
綱が一つ。これだけが頼りだ。それに空気を送ってもらう送風管。これが詰まったり、切れたりしたら、終わりだ。crystalrabbit
たそがれのときに
たそがれのときに
相見時難別亦難
東風無力百花残
李商隠「無題」より
結婚して三ヶ月が経っていた。
以前の住所に電話してみた。お母様が出られた。その声には彼と同じ色彩があった。ほんとうの母息子だと思われた。彼と話しているような懐かしさを感じた。ただ、電話番号を聞き出せればいいと思ってかけた電話だったが、自分のこともすらすら名乗れた。そのせいか、何も訝ることもなく、現在の住所と電話番号を教えてくれた。もし、電話が通じなかったら、と思って住所も尋ねたらこれもあっさり教えてくれたので記録しておいた。
意外にも近いところにいた。何という運命の巡り合わせだろうか。あれから何年か経って、一時間以内にいける距離にいたということは。是非、もう一度会ってみたくなった。
そんな気持ちで、先ほど聞いたばかりのところへ電話した。会社の寮であったので、呼び出してもらった。これもまた意外にも、すぐに本人がでてきた。以前と同じ調子だ。懐かしさがこみ上げてきた。涙が出そうになった。
一年近くつきあって、春霞に煙る公園で、たった一度のキスをしただけで去っていった人。別れる理由も告げず、交際を止めようと言った人。別れる悲しさよりも、キツネにつままれたようで、何が何だかわからなかった。これから、二人の関係は深まっていくと思っていた矢先に・・・。
追って行って、理由を糺せばよかったのだろうか? そんな関係でもなかったし・・・。
嫌われていたという風でもなかったし。まして、別の女の人がいるという風にも思えなかったし。深入りするまえに、引き下がる・・・。そんな!
四年も経っていた。その間に就職し、結婚してこちらに来ていることを伝えた。そして彼も、就職してそこにいることを語った。以前と同じように屈託のない声で。嫌われていない。迷惑がっていない。それだけで嬉しかった。今更あのことを問いつめても仕方がない。聞きたいのはやまやまだが、黙っていることにした。代わりに、会ってもらえるかと聞いてみた。これは自分でも予定外の言動だった。ただ、声が聞きたかった。どうしているかと、そして結婚したと伝えたかった。何しろあれから四年も経っているのだから。
これまた、彼の返事は意外にあっさり承諾してくれた。こちらの時間も制約はあったが、彼の時間に合わせることにした。かなり融通が利くようで、すぐに約束の日取りは決まった。またもや、別れる理由などなかったのに等しいという感触だ。
あれから一週間経った。四年ぶりに彼に会って一週間が経った。勤めを終えて荷物を二階に持って上がると、窓から見る街が暮れかけている。結局、別れた理由を彼も言わなかったし、こちらも訊ねなかった。彼の態度は四年前と同じだった。もちろん年齢を加えて落ちつきがあったりして、お互いに四年の歳月が別々に流れたことはよくわかった。でも、私に対する接し方は以前とまったく同じだった。
あれでよかったのだろうか。
たそがれの空を見つめていると、最後まで見ていないといけなくなる。それと同じように、あれでよかったのだろうか、という思いは、いつまでも消えなかった。crystalrabbit
二十歳のレクイエム
二十歳のレクイエム
二人は島の高校の同級生だった。龍生は卒業後一浪してから岡山の大学に入学した。尾道の大学に通っていた楓は、尾道で二年目の春を迎えていた。
四月の半ばだった。龍生からの手紙が実家から転送されてきた。手紙が来ていると母から電話があったとき、週末には帰る予定にしているから送ってくれなくてもよいと答えた。しかし、結局バイトの都合で帰れなくて、改めて電話して転送してもらった。
「遅くなってごめんなさい。実家からお手紙が転送されて来るのが遅くなって。夜のバイトが忙しくて、週末に帰る予定が帰れなくなって、少したって転送してもらったの。
自宅から通う予定だったのだけれど、二月目からは、伯母の家に下宿させてもらっているのよ。ちなみに、叔母さんは母の妹で名前は桜さん。母は百合というの。私は楓で、妹が椿。並べて書くとまるで植物図鑑ね。
夜のバイト? 蝶にはなれないわ。ご安心を! 花も咲かないし、紅くなるだけよ。
万葉集の件、楽しそうね。一緒にさせていただくわ」
そんな内容の返事を出した気がする。教養科目の国文学で万葉集を選んだので、レポートに協力してくれないだろうか、というような手紙だった。高校のとき龍生が図書館によく通っていたことは楓も知っており、万葉集のレポート云々が単なる口実に過ぎないことは見え透いていたが、男友達のいない楓はうれしかった。
楓は、万葉集の授業はないが、国文学関係の講義の一部のようすを書いて送った。
次の龍生からの手紙には、教養課程でとらなければならない講義の内容とともに、文化人類学とか、論理学の講義のようすなどが書かれていた。また、今読んでいる本と、今後の読書の予定が書かれていて、いかにも楽しそうだった。
万葉集の本は図書館にいけばかなりあった。歌われた場所別の本から、近くでは鞆の浦、倉橋島、岡山県では牛窓などがあるということが、簡単にわかった。
暑くなる前に鞆の浦へご案内するのがよいと思った。
福山駅で出迎え。バスに乗った。バスは駅前の路地を抜けると間もなく芦田川に沿って南へ走った。楓が窓側に座ったので、龍生は楽しそうに楓と窓の外の景色を交互に見た。
鞆の港では、四国から大きな旅客船が滑るように入ってきた。
対潮楼で住職さんが、鞆の歴史とその先で紀伊水道鳴門と下関から入ってくる潮がぶつかるのだと説明してくださった。
この港で大伴の家持が太宰府への往復の途次寄って潮待ちをしたのは言うまでもない。そして往路に同伴してしていた妻は帰路には帰らぬ人となっていた。その帰路にこの地で詠んだという歌がある。
吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にはあれど見し人ぞ無き
対潮楼の下に石碑があった。龍生はぽつりと「レクイエムだね」と言った。
「どんな奥さんだったのでしょうね」と楓が言った。
「太宰府まで伴って行ったのだから、一緒に暮らしていたということはわかるが、それ以上のことはわからない・・」
岡山では西口で降りて、レンターカーで牛窓へ案内してもらった。楓にははじめての道で、どこをどう通ったのか、わかなかっ。西大寺の観音院を過ぎて、邑久(おく)郷というところの古い神社に寄った。
「大伯皇女(おおくのひめみこ)というのは。この辺りで生まれたのでそういう名前になったという説があるね。ここは邑久郷というが、これから行く牛窓が邑久郡になり、隣りが邑久町と言うんだ」
「おくというところで生まれたので大伯皇女というのね。おもしろいわ。知らなかったことよ」
牛窓では、オリーブ園に行った。
港に降りた。
本蓮寺は朝鮮通信使を歓迎した寺だ。広い畳の間と大きな一枚板の床の間には、古い歴史が込められているのだろう。
帰りは、竹久夢二の生家が記念館になっているから行こうと言って、そこへ寄った。そこが邑久郡邑久町だと教えてくれた。
尾道では、龍生が帰省するときには、必ず楓に連絡してきて、会った。帰省のついでに楓に会うのか、楓に会うために帰省するのか楓はわかりかねた。それに、故郷への思いは、故郷との距離が異なればおのずと違うのかもしれなかった。
楓は、通学してもよいような距離をわざわざ下宿しているのだから、帰ろうと思えばいつでも帰れた。そのせいか、二ヶ月も三ヶ月も帰省しないことが、度々だった。二人の故郷の島は尾道からは見えなかったが、巡航船で一時間もしなかったから、楓にとっては尾道も故郷と変わりはしなかった。やはり、故郷というのは遠く離れてこそ、故郷と言えるのではないかと楓は思った。だから楓は、龍生が頻繁に帰省する気持ちは、自分には理解できないものだと、はなから諦めていた。
龍生から、尾道駅での到着時刻の連絡があると、楓は可能だと返事をすればよかった。その返事が届くまでの余裕は十分あった。もちろん、多少の無理をして予定を合わせたこともあったが、そのように前もって連絡しておくことで、食い違いは生じなかった。
もちろん楓も遅れないように、最大限に努力した。それと同時に、予定の列車で降りてくることを、心から願った。もし降りてこなかったら、と考えただけで、息苦しくなった。
さいわい、そんなことはなかった。予定した列車が到着すると、必ず龍生は降りてきた。龍生の自分を見つけたときの表情に安堵のふうが見られたから、龍生も同じように思っていたに違いないと楓は思った。
列車が止まる。それから少しして、改札口に龍生が出てくる。たったそれだけのことに過ぎない。それが最大の意味をもっていた。もし、若さというものを何が具体的なもので表すとしたら、まさにその瞬間ではなかったか。
奈良原村
奈良原村
今日は奈良原村のお祭りである。村も小さければ、神社も小さい。石段の両側には花崗岩でできた狗が天を睨んでいる。十二段登ると少し幅が広くなり、再び石段が始まる。その石段が始まる両側の欄干には、別の狗の像がやはり天を睨んでいる。
祭りに浮かれていつまでも帰らない祖母が心配して迎えにきてくれる。
若い夫婦と出会う。祖母はじろりと見た。その夫婦は気がつかない。祖母は不快な気持ちを顔に表して、つぶやいている。ぶつぶつ何か言っている。辛うじて聞き取れたのはこのような言葉だった。災いが起こる。あの村から嫁を取るなんて、信じられないことだ。
その夜、祖母を離れに訪ねた。縁伝いに行くことも出来るが、雨戸が立てられているので、納戸の押入と仏壇の間にある通路を通って隠居所に入った。祖母は桜の木に細工された達磨像をぼろ布で磨きながら話した。その桜は根元に近い処らしく、異なる方向へ伸びた根の付け根が、複雑な模様をなして、茶色に光っていた。付け根は疣(いぼ)のように、突き出ているがよく磨かれて、美しい。
潤也よ、よく覚えておきな。奈良原村には、嫁をもらっては行けない村がいくつかある。萩谷村、荒神村、ずっと向こうだが、田野倉村。これらの村から嫁をもらうこともできないし、嫁に行かすこともできないのじゃ。そんなことをすれば、きっと悪いことが起こる。
桜の木に彫られた達磨の鋭い眼光が自分を睨みつけているようだった。そのせいか、潤也は、いつもにもなく怖じ気づいた。「なぜ?」と低い声で聞き返すのが精一杯だった。
「なぜっ言うって、お祖母さんからそのように教えてもろうとるが。ずっとずっと昔、私がまだ子どもの頃、そう教えられたんじゃ。何でも、お狗さまの相性があわんということじゃった」
「もう、いんで寝る」と言って潤也は立ち上がった。
「世の中にゃあ、行ってはいけん土地があるんよのう」
背中を丸めて達磨を磨いている祖母は半分眠っているようだった。
ざあざあと裏の竹藪が鳴っていた。お宮の秋祭りが終わると、奈良原村では、たいていの家が冬支度をはじめる。
若い嫁が石の下敷きになって死んだというような話を、祖母と隣のおばさんがしているのを聞いたが、それがその年の秋のことか翌年のことだったか、潤也の記憶は定かではない。
➡️ 家路 crystalrabbit
沼隈町
町村合併促進法が昭和二十七年十月一日に施行されたとき、広島県福山市の南西部にある沼隈郡については、二十一町村を六か町村にしようという合併構想が、広島県福山地方事務所より出された。
この案を、昭和三十一年三月三十一日までに、三期に分けて実現するというのが広島県が示した目標だった。
昭和二十九年十一月三日を目標に定められた第一期の合併構想では、千年村、山南村、熊野村、浦崎村が合併して、人口二万二千百七十九人、面積五十六.一一平方キロメートルの町が沼隈郡の南部に誕生する予定であった。しかし、浦崎村は尾道市への合併を希望し、また福山市に近い熊野村では福山市との合併を考え、広島県側が示した合併構想に同調しなかった。
残った千年村と山南村は、当初から県の構想を支持しており、結局、両村が合併して昭和三十年三月三十一日、広島県沼隈郡沼隈町が誕生した。人口一万千八十六人、面積三十.九三平方キロメートルである。
新しい町が誕生すると、まもなく町長選挙が行われ、初代沼隈町長に町でも屈指の資産家の息子、神原秀夫氏が町長になった。神原という名を聞けば、誰でもが「神原汽船」の名を思い出す。それほど、この名は町でも有名だった。その神原汽船の御曹司が新しい町の新しい町長として選ばれた。
めかり瀬戸
めかり瀬戸
午後の日を浴びた白亜の灯台はあの時のままだった。胸の高さほどの塀越しにウバメガシが生い茂っている。塀の下の崖の向こうに早春の青い海が広がっていた。眼を海面に転じると、幾重にも分かれた海水が縞模様を作って速い速度で流れている。
この海で龍生さんは死んだ。私一人を残して。・・・あれから四十年がたった。ちょうど今頃だ。大学の二年生が終わろうとしていた。
勤めている中学校の終業式が終わった。残りは休暇にしてこの日を最後に職場を去った。
楓は、その足で夫の墓にお参りして香華を手向けた。龍生の入水によって生きる望みを失っていた自分が、救いを求めるように結婚した夫だった。二人の子どもを産み、勤めながら夫とともに育てた。そして子どもたちは結婚し孫も生まれた。六歳年上の夫は三年前に亡くなった。一番に、その夫に今日定年退職を迎えたことを報告した。
さらに退職したら父母の墓に詣で、報告することに決めていた。大学を卒業し、教員になるまで面倒をみてもらった。本当はもっと長生きしてほしかったが、仕方がない。その両親が生きていて、定年まで勤めましたと報告して、直接ご苦労さんと言ってもらいたかった。でもそれはかなわぬ夢だった。だから、せめて墓所にまで行って伝えたい。きっと墓石の下の両親も喜んでくれるだろう。子どもの頃は、はるか彼方の大人の人生など見えはしなかった。働くことで人生というものを少しずつ感じながら、気がついたら人生の半ば以上を終えていた。お母さんお父さん、あなた方と同じように働けるだけ働き、人生の大部分を終えました。あなた方のところへ少し近づきました。私にも少しだけ人生というものがわかるようになりました。・・・こういうような会話をしようと決めていた。
墓参りを終えて妹夫婦の住む実家に帰った楓は、尾道の叔母に電話をかけた。
「叔母さん、楓です。今、妹のところ。さっき両親のところにお参りして定年退職したと報告してきましたわ。叔母さんにもお世話なりました。ありがとう」
「そう、長い間ご苦労さん。おめでとう。どう、帰りにこちらにも寄ってくれたら。いらっしゃいよ」
「ええ、ありがとうございます。でも、今日はもう一つ行くところがありますから。また今度おじゃましますわ」
「そうだったわね。じゃあ、お気をつけてね」
ちょっと間をおいて、叔母は答えた。叔母にはもう一つのところが、わかったのだろうか。おそらくそうに違いない。伯母があの時のことを覚えてくれていると思うと、複雑な気持ちになった。「はい、では」と言いながら、楓は叔母の家に下宿させてもらっていたときのことを思い出していた。
龍生からの手紙は叔母がいつも楓の机の上に置いてくれていた。そして龍生の死を新聞で見つけて楓に知らせてくれたのも叔母だった。
龍生とは島の高校の同級生だった。楓は尾道の大学に進学した。はじめの一月は自宅から船とバスを乗り継いで通ったが、結局叔母の家に下宿させてもらった。龍生は一浪して岡山の大学に入った。龍生が大学へ入ってから二人は手紙のやりとりを始めた。二人は倉敷や岡山でも逢ったが、龍生が帰省のついでだからと言って尾道でよく逢った。一年後、龍生はめかりの瀬戸に身を投げた。白い灯台の下だった。
「もうすぐ行きますよ。私の人生もほぼ終わりましたからね。あなたでない別の男性と結婚し、子どもでき、孫もできました。みんなバトンタッチしたから、心おきなくあなたのところに参りますよ。もうすぐですよ。
でも、そこにはあなたはいらっしゃるかしら。二十歳のあながたがいるのでしょうか。あなたはいなくて三年前に逝った夫がいるだけかもしれない。それでも、いいわ。その時はまた助けてもらいましょう。でも二人ともいるような気もするな。夫よりも、息子たちよりも若いあなたも」
早春の海はまばゆかった。楓は眼を細めた。眼の前の海が、あの時の海と重なってきた。
ここからでは、花束は海に届かない。四十年前と同じように砂浜に降りた。龍生が亡くなって二週間後、楓は花束をもってここへ来た。あれから一度も来ていない。あの時は龍生が亡くなったところへお参りに来たつもりだったのに、置いていかれたことへの怒の気持ちだけしかもてなかった。その思いが続いていたせいか、再びここへ来ることはなかった。だが長い歳月が、怒っていた気持ちすらも記憶の彼方に押しやってしまっている。
風はなくても、静かに波は押し寄せてきては引いていく。あの時と同じだと思った。
灯台の下のところで砂浜は切れ、岩肌が露わになっている。波に削られた岩で、平らになったところがあった。花束を砂浜におろしてから、楓はバックを開けた。包んでいる紙を開いて長方形の石板を出した。横書きに「TとKの墓」と彫り込まれている。一月ほど前にインターネットで作ってもらった小さな墓標だ。
「ここがいいかしら」と言って、小さな墓標を岩の上に置いた。
「龍生さん、あなたと私のお墓よ。あなたはあなたの家の墓の中。私は入れてもらえないわ。私が死んだら子どもたちは夫の隣りに入れてくれる。あなたは来られないでしょう。でも、私の魂は時々ここに来るわ。あなたに逢いに。あなたの魂がここにいるのですもの。だから、ここが龍生さんと楓のお墓。いいでしょう、龍生さん」
楓はもってきた花束を小さな墓標の前に置くと、両手をあわせて目を瞑った。
早春の風がやや白いものの混ざった前髪を揺らせた。押し寄せた波の中の泡が、音もなく割れて海水の中に散った。目を開けて砂浜に戻った。静かな海は午後の陽を受けて銀色に輝いていた。
あの潮の中へ龍生は行ったのだ。もう一度海に呼びかけたくなった。
「龍生さん、あれから四十年よ。あなたは、仕事に就く前に逝ってしまったけれど、私は、三十八年働いた。嫌なこともあったわ。苦しいこともあった。そんなとき、ふと先に逝ったあなたはずるいなと思ったわ。私一人を残して。・・・何を言っても、置いていかれた者の愚痴ね」
今朝家を出るときは、愚痴は言うまいと決心してきた。でも、押さえることができなかった。
「これを最後にするから、許して。・・言わせて。あなたの弱虫。人生を歩み始める前に一人だけで、抜け出して。私一人を残して。今から思えば、若さってあんなものよ。未来なんかなかった。将来のことを考えると不安だった。不安な未来を振り切って逃げ出せたら、これほど楽なことはないと私だって思ったわ。あなたが誘ってくれていたら、私だってそうしていたわ。でも、誘ってくれなかったじゃない。自分だけ一人で逝ってしまって。残されたものの気持ちを考えてよ。一人じゃ死ねなかったわ。一緒なら、ともかく。
黙って逝ってしまったんだもの。だから、だから、生きていくしかなかった。働くしかなかった。途中で投げ出したら、あなたに笑われてしまうように思った。途中で投げ出すくらいなら、どうして俺の後を追ってこなかったのだ、と。今だって遅くはないよ、と。
あなたが笑っている声が聞こえるようだった。・・バカ、手遅れよ。どんどん手遅れになっていくのよ。一緒につれていってもらえなかったのに、後から追いつけないわ。
必死に戦ったわ。そう、あなたに笑われまいとして。必死で働いたの。あなたに笑われるのが嫌で、必死で生きてきたのね。そうね、だから・・・あなたの分まで働いたみたい。あなたの分まで生きたみたい。
あなたは働かなかったけれど。あなたは生き続けなかったけれど。あなたの分まで働いたわ。あなたの分まで生きたわよ」
ここまで言って、楓は空を仰いでから、大きく息を吸った。目の前の海水が流れながら波に混ざった。
「許してあげる。もう恨まないわ。あなたの分まで生きたのだから。もう言わない。もう愚痴は言わないわ。許してあげる・・・」
足もとまで潮がひたひたと押し寄せてきていた。白い砂が海水を吸って灰色に変わった。
「あなたは死んだ、二十歳で。私は生きた、さらに四十年。あなたとは恋愛、もし恋愛と呼ばせていただけるならね。夫とは結婚。恋愛と結婚。別々だったけど、どちらもあった。ないよりはましね」
顔をあげて再び海を見た。近くの海も遠くの海も、同じようにかすんで見えた。
「もちろん夫には感謝しているわ。そして、あなたにも。さようなら。また来るわ。きっと来るわ。さようなら」
楓は踵を返した。足跡を波が少しずつ消していった。
待ってもらっていたタクシーでバス停まで戻った。バスの時刻表をみたら、高速バスもあることがわかった。これなら広島駅まで行く。尾道までバスで出て電車に乗ろうと思っていたが、高速バスが間もなく来る。こちらに乗ることにした。
バスは出発した。左手眼下に白い灯台が見える。青い海。あなたのお墓。さようなら。私も死んだら、時々ここに来るわ。それまでしばらくお別れね。さようなら。
バスはあっという間に橋を渡り、灯台も海も視界から消えた。
これですることはした。疲れたわ。年のせいね、と楓は思った。瞼が重くなった。
尾道駅だった。間もなくあなたが降りてくる。こうして四十年前の私は、あなたが改札口に出てくるのを胸をときめかせて待った。楽しかったわ、あの頃。
バスの中から尾道駅を見ていると思っていたら、いつのまにか改札口に立っていた。
あなたが出てくる。あの時のままだ。
「お待たせ」
「ちっとも」
彼と歩いているとだんだんと自分が若くなっていくように感じられた。もう、自分はそんなに若くない。やはり夢なんだ。その証拠に、まわりが霞んで見える。でも、夢でもいいわ。お墓参りも済ませたんだし。
「やっぱり、幽霊なのね。でも、怖くないわ」
「幽霊じゃないよ。僕だよ。君もまだ若いよ。二人とも二十歳だよ」
「ええ、あなたは二十歳、でも私は・・・」
「二人とも二十歳だよ。三日前に会ったばっかりじゃないか。今日はどこへ行こうか?」
「どこでもいいわ。あなたが望むところでいいわ」
「じゃ、海を見に行こうか」
「いいわ。うれしいわ」
「怖くないかな」
「全然。怖くないわ」
「灯台を見る約束だったね」
「白い灯台?」
「そうだよ。君のワンピースが灯台に映えるよ」
「そうかしら」
「とても素敵だよ」
「ありがとう」
「さあ、見てごらん。あの海を」
「美しいわ」
「君の瞳のようだよ」
「ねえ、ひとつ尋ねていい?」
「なあに」
「今までどうしていたの?」
「ずっと待っていたよ」
「何を?」
「君が来るのを」
「それではなぜすぐに、迎えにきてくれなかったの?」
「君が怒っていたからだよ」
「今日、迎えにきてくれたのはなぜ?」
「許してくれたからだよ」
「では、ずっと見ていたの? 私を」
「そうだよ」
「私が困ったときも?」
「そうだよ」
「なぜ助けてくれなかったの?」
「助けられなかった」
「なぜ?」
「・・・」
「今なら助けてくれる?」
「そうだよ」
「一緒にいてもいい?」
「いいよ」
「ずっと、一緒にいていい?」
「そうだよ」
「そうするわ」
「でも、もうすぐ帰らないといけない」
「どこへ?」
「海の中へ」
「一緒に行っていい?」
「いいよ。君が望むのなら」
「行くわ、連れてって。あなたと行くわ!」
「しっかり握って」
「離さないわ。いつまでも」
「ねえ、あなたは二十歳でしょ?」
「そうだよ」
「私はいくつに見える?」
「二十歳だよ」
「そんなことないわ」
「僕たち同級生だよ。僕が二十歳なら、君も二十歳だよ」
楓は夢をみていたようだ。顔を上げ、そして目を開くと、道路にイノシシの絵と動物注意と書かれた標識が見えた。その標識が後へ遠ざかっていくと、再び瞼が重くなった。
「わかったわ。あなたも二十歳。私も二十歳」
「そうだよ。ずっと二十歳。二人とも」
「二十歳のままね」
「そうだよ。二人とも二十歳のままだよ」
「二十歳のままで、いつまでもいっしょ?」
「そう、永遠に」
「ちょっと待ってて」
こう言うと、楓は手を離してさっき岩礁に置いた花束を右手で取り上げた。「TとKの墓」と書かれた墓標が現れた。
右手で花束をもって、龍生のところに戻った楓は再び左手を出した。その手を龍生の右手がしっかりと掴んだ。
二人はくるくると廻りながら、海水の中に沈んでいった。
海の中は白い光で満ちていた。白くて明るい光の道が遠くまで続いていた。
花束を包んでいたセロハン紙が水の中に消えると、金色の花びらが花吹雪のように舞った。
二人の衣服が溶けてしまうと、二人は抱擁した。
二人は魚になって近づいたり離れたりしながら、光の彼方へと遠ざかった。
小さな墓標の前の砂浜では、水着を着た幼い姉妹が遊んでいた。
上の子が足元のピンク色の小さな容器から、ヤドカリを一匹つまんで、左胸の下のほうにもっていくと、ヤドカリはしっかりと水着を掴んだ。手を離すと、下の子がうれしそうに、くくっと笑った。上の子も一緒になって笑った。
西に傾いた日は、海面に反射して揺れていた。crystalrabbit