紅孔雀

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紅孔雀

 

   一 亜里沙 

 

 風がヒュウヒュウと鳴っている。木の葉を舞わせ、砂塵を飛ばした。春風だ。新緑を抱いた山が霞んで見える。

 茶色の猫が蕾みを膨らませた木の下で欠伸をしている。野犬があてどもなく、走っては辻で止まり、しばし鼻を動かしてからまた、どこというあてもなく走りさる。

 小山は桜の花が満開で、子供たちも、大人も浮かれた気持ちであることにかわりはない。「さあ、次郎丸、行くよ」

 麻縄で結わえた腰に、小さな木刀を佩していた。その木刀を左手でちょいと支えるようにして、次郎丸に飛び乗った姿は、遠くから見ると、十才を少しこえたばかりの少年のように見えた。

 着物の裾から、土に汚れた膨ら脛が覗いている。太股でしかっりと背を押さえているので、両手は軽く首に回すだけでよかった。

 左腰にさげた小さな木刀は、次郎丸が上下すると、それにあわせて静かにゆれた。しかし、麻縄でしっかりと押さえられているので落ちることはなかった。

 次郎丸は坂道を駈け昇って、丘の中腹に出た。

「よしっ、とまれー」

 次郎丸から、ひらりと飛び降りたとき、短く刈り込んだ髪が扇のようになびいた。あどけない顔は、いたずらざかりの象徴のように煤けているが、その下にはピンク色の頬が耀いていた。まぎれもなく可憐な少女だった。

 少女はちらっと、もと来たほうをふりかえったが、すぐに草のうえに仰向けになった。次郎丸が、大きな舌をだしてはぁはぁ息をしながら、少女のとなりで腹ばいになった。

 白い雲が濃尾平野をゆっくり東へ流れていく。蒼い空が、どこまでも続いている。いかにものどかな、春の日の午後である。

 次郎丸が顔を近づけてきたので、少女は右手を伸ばしてやった。次郎丸はクゥーン、クゥーンと喉をならしながら、顔を少女の手に押しつけてきた。

 少女は目を細めて、空を見つめていた。午後の日が、肌にやさしい。このまま、午睡に浸ってしまいそうだった。

 ……ざわめきは、次第に近づいた。地面を伝わる鼓動が、精気に溢れて若々しい。

「やっと追いついた」

 顔が半分土埃で隠れたイガグリ頭の少年が言った。

「ずるいや、亜里沙。犬に乗ってひとりだけ早くくるなんて」

 肩で息をしながら、一番背の高い少年が言った。

「でも、仕方がないや。次郎丸を操れるのは亜里沙だけなんだから」

 今度は、一番小さい子供が言った。一番最後からかけてきて、やっと着いたばかりであるのに、息切れしていないところを見ると、体力的には恵まれているらしい。

「あんたたちも、次郎丸に乗ってみたら!」 亜里沙と呼ばれる少女が、丸い目をいたづらっぽく、くるくる回しながら言った。

「男は、犬なんかに乗るものか。大きくなったら、馬に乗って戦に行くんだ」

 イガグリが埃の中の目を大きく開けて言った。

「千代介、次郎丸に乗れれば、馬くらいすぐに操れるよ」

 亜里沙は立ち上がって、少年に向かって言った。唇の下から笑みが洩れて、春の日に白い歯が光った。

 まわりの子供たちが、声を上げて笑った。次郎丸に乗れるのは、亜里沙だけであるということをみんなが知っていたのである。

「馬に乗るころになったら、ここらで遊ばないよ。諦めるんだな千代介」

 一番小さい男、ヨネ吉が言った。

「同じように生意気言うな」

 また、みんなが笑った。

「さあ、そろそろ行こうか」

 亜里沙の目が輝いた。同時にみんな歩き始めた。ここからは坂道が急になるので、亜里沙は次郎丸に乗らない。亜里沙が歩けば次郎丸がついてくる。少し行って、それでも亜里沙が何も言わないので、次郎丸は前のほうへ出る。少し先を歩く。途中で右や左へ逸れることもあるが、すぐに戻ってきた。

「虎杖(いたどり)が大きくなっている」 

 ヨネ吉が身を乗り出すようにして、見つけてきた。みんなも、寄ってきた。

「まだ青いことないか?」

 丸顔の宗太が、虎杖の群れに近寄りながら言った。

「もう、たけとるのもある」

 大きくなり過ぎて、茎が竹のように堅くなったのは、折れにくいし、酸っぱくないので普通は食べない。そう言いながら、ヨネ吉は近いところにあるのを、ポキッ、ポキッと青空に抜けるようないい音をさせて、折った。

 宗太はヨネ吉から受け取ると、それをすぐに後ろに控えている亜里沙にわたした。

 亜里沙はピンク色の頬に小さな笑窪を作ってニッと笑った。根元が太く、先になるにつれて細くなっていて、いかにも旨そうだった。亜里沙が女であるせいか、宗太に限らず、みんなこういうときは、親切だった。

 みんなにいきわたると、少し昇って、大きな岩の上で休んだ。

 思い思いに虎杖の皮をむいで、口に入れた。根元に近いほうは、黄緑の皮に紫色の斑点が小さくついている。これが上に上がるにつれて、紫色が次第に赤みを帯びてくる。そして、先端と、そのまわりの葉はほとんど赤紫に近かった。

 根元に近い切り口の皮をむいだところから、口に入れた。噛むだけかんで、滓をペッと吐き出して、足元からできるだけ遠くへ飛ばした。口の中では、酸味にまざって、弱い苦みが広がっていった。最後まで食べてしまう者もいるし、汁だけ吸うと吐き出す者もいる。虎杖の食べ方もいろいろである。

 亜里沙は、他の少年たちにあわせて、二口かんだだけでやめた。亜里沙は自分が女だから、この虎枝の渋みのような感じが、口に合わないのだろうか、と思った。

 亜里沙が口笛を吹くと、近くの松の木の中を動き廻っていた次郎丸が、駈けてきた。

 寄ってきた次郎丸はじっとして、亜里沙の側に立っていた。

 ふたたび子供たちは移動を開始した。上にあがっていくにつれて、村のようすがよく見えた。

 みどりの草が燃えるように芽吹いている。田圃には蓮華の花が、まるで色つきの敷物でも敷いてちいるかのように、鮮やかな色の帯を連ねていた。

 家も見える。屋根を葺いた麦藁が茶色になって、みどりの草の中に浮いている。

 麓の村を見ながら、あるいは山に生い茂った木々の新緑を見ながら、子供たちは山を一歩一歩昇っていった。

「着いたぞ。隠れ家に着いたぞ」

 先頭を歩いていた宗太が、元気よく言ったので、あとに続くものたちが急に急ぎ足になった。

 松の林と竹薮が接するあたりに、大きな岩があった。その岩の中央あたりが窪んでおり、木で屋根をつけると、けっこう雨風を凌げる格好の小屋ができた。そこが、子供たちが隠れ家と呼んでいる、秘密のアジトだった。

 隠れ家の横からは石清水が湧き出ており、子供たちの喉を潤すことができる。

 宗太はまず、石清水のほうに走り寄って、飲み口に落ちている、枯葉を払って、掃除をした。そして、まずごくりと一飲みした。

「ウメー」

 坂道を昇ってきたあとの、山水は旨い。春の午後の日が背中を照らしているので、額からは汗が吹き出ていた。日陰に腰をおろすと汗の上を風が通り過ぎて、ここちよかった。

 石清水から流れ出た山水は、細流れを作って、再び枯葉の下に消えていく。その細流れのところで、次郎丸がピチャピチャと音を立てながら山水を飲んでいる。すぐ上では亜里沙が、石清水を両手で掬って飲んだ。

「ああ、うまい。さあ水を飲んだから、一仕事しよう」

 こう言うと亜里沙は松林のほうへ入って行った。亜里沙に続いて三人の子供が中へ入っていった。

 松林といっても、このあたりは、ずいぶん疎らで、松以外の潅木も多数あった。それらのうちから、手ごろな枝を折ってくるのである。四、五本集まると、さきほどの隠れ家のところへもって帰って、岩に当てて、皮を削いだ。

「小さいのに、亜里沙は器用だぜ」

 一番大きい宗太が言った。

「器用なことなんかあるものか。丁寧にやってるだけだ」

 亜里沙が悪戯ぽっく言った。

 まわりの子供たちが笑った。

亜里沙が器用なんじゃない。宗太がぶきっちょうなんだ」

 剽軽ものの千代介が、おどけて言ったので,またみんなが笑った。

「自分の刀は自分で作るんだ」

 亜里沙が言った。みんな亜里沙に負けまいとして、真剣に木を岩にこすりつけて、木刀の形を整えた。

 木刀である。刀ではない。でも、子供たちの世界では刀と言ったら木刀のことである。本当の刀をもって遊べることなど、まずありえないことだった。木刀を刀と言って遊ぶところに、大人への憧れがあった。その憧れの中で、技能を磨くのだ。亜里沙は、小さいころから男の子にまざって、技能を磨いた。

 

    二 次郎丸

「さあ、日が暮れないうちにいつものように勝負だ!」

 亜里沙は、腰に差していた木刀を抜くと、先程作ったものの中から一番短い木刀をもって立った。

「よし、行くぞ!」

 一番小さいヨネ吉が、作ったばかりの木刀を一本持って、亜里沙の後を追った。

 松の生えていない広いところに出て、亜里沙は振り返ると同時に、木刀を振りかぶった。カチという木刀と木刀の触れ合う音が何度かした。

 亜里沙がパッと飛び上がり、降りてきながらヨネ吉の頭上から、大きく木刀を伸ばすと、ヨネ吉は、木刀を持った右手を上げて、守ろうとした。上からおろした亜里沙の力強い一撃が、ヨネ吉の木刀を打った。

「アッ!」

 ヨネ吉が気づいたときには、すでにヨネ吉の木刀は、まんなかから折れて、地面の上に横たわっていた。

「見事!」

 宗太が言った。

「すげえー」

 宗太が隣を見ると、千代介が木刀を持って準備していた。

「次は千代介だ」

 宗太の合図で千代介が少しずつ亜里沙のほうへ近寄った。

 千代介が突いてくる。亜里沙は後ろへじわりじわりと下がって行く。すぐにあとがないと亜里沙は気づいた。

 一瞬、千代介は何が起こったのかわからなかった。亜里沙が飛んだのだ。左へ飛んだかと思うとすぐに前に飛んで、千代介の右側へ来ていたのだ。千代介が亜里沙の存在に気づいたときには、亜里沙の木刀は千代介の木刀の先端を折って飛ばしていた。スパッという音に、まるで眠っている男が起きたばかりのときのように、目を白黒させながら亜里沙を見つめていた。

「今度は宗太の番よ」

 亜里沙が、じっとしている宗太に言った。宗太はすぐに木刀を二本持ってきて、一本は地面に立てた。

 正面から二人は打ちあった。宗太の一本目が折れた。宗太はすぐに、立ててあった二本目にかえて、辛くも防戦した。しかし、それもつかの間のことだった。強い亜里沙の一撃によって二本目の木刀は宙を舞って地面に落ちた。

「ますます強くなっているようだ」

 宗太が言った。

「みんなと同じよ」

 亜里沙が笑った。

 西に傾いた日を避けて木陰にみんなが佇んだ。

 亜里沙はみんなの前で宙返りを何度も何度も試みた。前に廻ったり、あるいは逆転をしてみせた。一番小さいヨネ吉が、真似をして亜里沙に続いた。……

 こうして、四人は春の山で遊び、倦むことがなかった。しかし、日が西に傾いて木立の影が長くなるとともに気温が下がるのか、風が冷たく感じられた。

「よし、今日は帰ろう」

 宗太が言った。

「そうしょう」

 他の者も従った。

 亜里沙が口笛をヒュルーリ、ヒュルーリと二回吹いた。

 次郎丸がどこからともなく駆けつけた。

「それじゃ、下りるよ」

 亜里沙が三人に言ったのと、次郎丸の背に乗ったのが同時だった。

「さあ、次郎丸に続いて下りよう」

 千代介が言って、みんな走りだした。

 次郎丸は岩場の間にできた細道を、大きな身体を左右にゆすりながら、軽く走って行った。亜里沙は、腰にさした木刀があるだけで左右の手はまったく自由に扱えたから、勾配が急になっても、心配はなかった。しかし、それでも山道は、次郎丸も足場を探しながら身体をくねらせることが多く、そのぶん亜里沙も左右の足に力を入れてバランスをとる必要が生じた。さらに亜里沙は、両手で次郎丸の首にしっかりとつかまっていた。

 春の日は、日中は暖かいが、西に傾きはじめると、急に気温がさがる。特にここの丘は西風がまともにあたるので、肌がひんやりとしてきた。

「次郎丸はさすがだなあ。どんどんと下りて行く。負けるな、負けるな」

 ヨネ吉が元気な声でだれに言うともなく、言った。

「これくらいならついていけるが、次郎丸が走りだすと、速いからな」

 千代介が言った。

 岩場を過ぎ、松林の横を過ぎると、見晴らしのよい丘の上に出る。そこからの小道は、人の足跡で踏み固められ、ずっと歩きやすくなる。小道の端には、茅や山蓬が生い茂っている。冬の間に茶色になった葉の間から、この春芽吹いたばかりの若葉が、黄緑色に耀いている。その草に囲まれた細い道は、山の尾根伝いに続いている。その道を、次郎丸を先頭に、子供たちがおりて行く。

 下の村の家の形や、人の動きがはっきりわかるほど下りてくると、丘に生える草も柔らかくなって、色も緑の濃いものに変わった。かすまぐさやしろつめくさが一面に生い茂っている。細道は尾根伝いに続いていたのが、丘の斜面に出ると、まっすぐに下へ向かわず、ジグザグにゆるい勾配を作って下へと伸びていた。

 草は柔らかい。その草におおわれている斜面を通ることに抵抗はなかった。

「先に下りるよ」

 亜里沙が後ろから従う少年たちに言ったときには、次郎丸は大きくジャンプし、まっすぐに斜面を駈け下りた。

 次郎丸の首に頭をすりつけて、両手で首をしっかり持った亜里沙は、次郎丸に乗っているというよりも、同じ一つの身体がゆれているだけのように見えた。 

亜里沙は、いつからあんなことができるようになったんだ?」

 ヨネ吉が言った。

 他の二人も驚いて、斜面を駈け下りていく次郎丸と亜里沙を見ていた。

「うまいもんだ。まるで、馬でも扱っているように軽やかに下りていく」

 宗太もこんな光景ははじめてである。ただ驚ろくばかりだった。

「さあ、いつまでも感心してないで、帰ろうよ」

 千代介に促されて、三人は斜面にある細道を下りはじめた。

 西に傾いた春の日が、濃尾平野の彼方にうすい靄を作りながら耀いている。雲も大気も緋色に燃えている。残照が村の家にあたる。家の影が長く田畑の中に伸びていた。

 気温はさがり、昼間の暑さが、このころになると嘘のように思われた。

 亜里沙は平地になったところで、止まり、三人が来るのを待った。

 三人は亜里沙と次郎丸のことを話しながら、斜面の細道をおりてきた。

「いやぁー、たまげた、たまげた」

 千代介が亜里沙のほうを見て言った。

 亜里沙はは、何も言わなかったが、口もとがゆるんで、白い歯をみせた。みんなを驚かせて、おもしろかったとでも言いたげであった。

「うまいもんだな。いつからあんなことができるようになったんだ?」

 ヨネ吉が言った。

「いつから?」

 亜里沙は、また白い歯をみせて笑った。

「いつからって、さっきはじめてよ。あれくらいの坂道、次郎丸にとってはなんでもないわよ」

 亜里沙は平然と言ってのけた。

「そうかなぁ? いくら次郎丸でも……

 ヨネ吉としては不思議でならなかった。

「だれでもできるというもんじゃないぜ。もちろん次郎丸はすばらしい犬さ。でも、亜里沙だからできるってことよ。でも、あの坂を走り下りたのには驚いたなぁ」

 宗太が言った。みんなにとっては、やはり、次郎丸と亜里沙の組合せというのは、人間業をこえているような気持ちだったといって間違いはなかった。

「ヨネ吉も次郎丸に乗ってみる?」

 亜里沙が笑いながら言った。

「めっ、めっそうもない。振り落とされるに決まっている」

 ヨネ吉はには、次郎丸を操れる自信はなかった。

「そんなことはないわ。次郎丸は、みんなが思っている以上に優しいわ。ヨネ吉を振り落としたりするもんですか」

 亜里沙の言うことに偽りはなかった。

「うん、次郎丸がおとなしくても、俺が次郎丸の背中にじっとしていられるかが、問題かもしれん」

 ヨネ吉が言った。

「そんなの簡単よ。次郎丸の首にしっかりつかまっておけばいいのだから」

亜里沙はずっと次郎丸に乗ってきたから、そう言うけど、犬に乗るのがそんなに簡単だったら、馬なんていなくなるよ。犬に乗れないから馬に乗ってるんだぜ」

 ヨネ吉は次郎丸に乗れないということがわかっていたので、それが自分だけのことではないということを、ここでは強く言っておきたかった。

「そうだよ。亜里沙、次郎丸でなくても、犬に乗るということは大変なんだ」

 千代介が言った。

 あたりは、次第に暮れていった。

「次郎丸、行くよ」

 亜里沙が言うと、腹ばいになっていた次郎丸は前脚で大地を押さえるようにして、肩に思い切り力をかけると体を前に押し出しながら立ち上がった。

 亜里沙について行くのが、億劫なのではない。今まであまりに長く待たされていることに倦んでいたのだ。そのことは、亜里沙が一番よく知っているから、次郎丸のそのような姿を見ても、亜里沙はしかりはしない。逆に、亜里沙は自分を責めるように、ちぃっと言って下唇を噛んだ。

 

   三 犬隠れ

 翌日、亜里沙が次郎丸を連れて、家を出たのは昼すぎのことだった。いつものように、子供たちと遊ぶためである。

 家を出るときは、次郎丸に乗らずに傍を歩いた。しかし、だれも見ていないとなると、さっと次郎丸に乗った。

 亜里沙父親の蓼川龍之進に小言を言われるのが嫌いだから、なるべく家人の見ているところでは、次郎丸に乗らないことにしていた。

 次郎丸に乗ると亜里沙はいつもの場所へと向かった。

 ふと前を見ると、父の配下の山口竹佐が来るではないか。二人の若い者を従えている。しまった、悪いところで出会ったな、と亜里沙は思った。仕方がない。父に告げ口されぬことを祈るばかりだ。

 そう思いながら、近づいたとき、亜里沙はとっさに、次郎丸の左側に身を隠した。右側を山口ら三人が通りすぎていく。

 気が付かれずに済んだ。亜里沙も初めて試みたことが、かくもうまくいって自分でも驚いた。自分がうまくやれたためか、あるいは山口らが、他のことに夢中になっていて気が付かなかったのかはわからない。あるいは、気がついていながら、わざと知らぬふりをしたのかとも思われた。そうであるなら、身を次郎丸に隠した意味がない。

「山口のおじさん」

 亜里沙は後ろから、声をかけた。三人はすぐに振り返った。

「あ、これはこれは亜里沙さま。わたしどもに追いつくとは足の速いことで」

 山口竹佐は驚いたように言った。

「まあ、おじさん。追いつくなんて。さっきすれ違ったのよ」

「はて、すれ違ったとおっしゃられても、わたしどもは、さっきその大きな犬と出会っただけでお嬢様とは……あ、さてはその犬の背後を歩いていたわけですな。あははは……お嬢さんも人が悪い」

「ほんとに気がつかなかったの? わたしの悪戯をみつけてわざと、気がつかなかった振りをしたのじゃないのね?」

「そんなことはありません。まったく気がつかなかったから、うまくわれわれを瞞着したものでございます」

「そう、それなら安心したわ」

 亜里沙が楽しそうに笑うと、山口らも同じように笑った。

「それでは、また……

 山口と竹佐はこう言うと、踵を返して再び歩き始めた。

 亜里沙はくすっと笑って次郎丸にまたがった。次郎丸が走りだしてから、亜里沙はさきほどと同じように左側に身を寄せたり、右側に寄せたり何度もしてみた。次郎丸の長い毛が首にまいた手を隠すので、反対からは見えなくなるのだと亜里沙はわかった。

 いつもの原っぱに来ていた。亜利沙は次郎丸の背で、身体を右に寄せたり左に寄せたりして、自分の身体を反対側に隠す練習をしていたので、いつもの原っぱに着いたことに気づかなかった。ほんとうなら、ずっと前からこのあたりで遊ぶ子供たちの声がしてもいいのだが、今日はやけに静かだ。

「どうしたらのかしら」

 訝しげに思った。何かよからぬことが……と思ったが、すぐにまさかそんな、と自分の思いを否定した。いつも遊んでいる仲間がいつもの時間にいないだけで、不吉なことを考える自分がおかしいと思った。

 そのうち、来るさ。そう思うと、さっと次郎丸から飛び降りて、草の上に寝転んだ。白い雲が静かに流れている。その向こうに、大海原のように広がる空が、透き通るような蒼さで覆っている。丸くはないが、ちょうど自分たちの住んでいる世界を上から俯瞰するように、覆い尽くしている。この上に上がれば何でも見えるのだな、と亜利沙は思った。

 

   四 瓢箪

 いつまでも、子供たちと遊んでいてはいけない・・・。ふと、心の中に空洞ができたように、昨日までの自分を消してみたいような衝動にかられる。まだまだ自分では子供だと思っているのに、体の中のどこかが、子供であることを拒否しているのではないかと、思ったりする。

 

 

 

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