送春賦

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送春賦

 

 その年の秋、僕らはある小さな町の大学へ合同セミナーを行いにやってきた。その町は川と山に挟まれた小さな平野の中にあった。川の中州には、雑草が生い茂り、所々にたまった丸い石は、乾いて土砂がこびりついていた。水はゆっくり流れ、小さな魚がすばやく泳いでいた。そして、その魚が方向を変えるとき、魚の腹が太陽の光を反射して緑色に光った。

 デモ隊は町の中を始終動き回っていた。彼らのあげるシュプレッヒコールが小高い丘に反射して、祭りの夜の喚声のようにどよめいた。大学の中でも、それに呼応するかのように一瞬どよめきが流れた。

 その年は、秋が訪れるのが早かった。僕らは、デモ隊が大学の前を通過するのを、学生会館のガラス窓越しに眺めた。ガラス窓は白い水滴で曇り、外と中の気温の差を示していた。

 赤い旗や黄色い旗が乾いた風に舞った。その風に、街路樹のプラタナスの葉がゆれ、そのうちの何枚かが落ちた。デモ隊の中のだれひとりとして、その葉には目もくれず、彼らは行進を続けた。デモ隊が通過した後、黒いアスファルトの上は、プラタナスの黄色い葉が押し潰されたり、曲げられたりして、斑点のように散らかっていた。

 田圃には刈り入れを前にした稲穂が、山に背を向けて傾(カシ)いで、しずかに風にゆれていた。遠くから見ると黄金色の絨毯が果てしなく続いているようだった。その先は日本海へ注ぐ湖の青へと連なっていた。反対側には、果樹園が麓からなだらかに山頂へと延び、わずかに色づいた秋色の潅木と境を接していた。遠くのもっと標高のある山では頂上の方から次第に秋を深めていた。二週間もすれば、その変化は、はるか麓の平野部にも達することが予想された。それは、夜と朝の冷込みから誰もが予感していることだった。

 夕方になると、さすがにデモ隊の声は小さくなったが、時には日が落ちてから、夜の帳を越えて集会の鬨の声が、一面の冷気を引き裂くように伝わった。日が暮れると、大学周辺は急激に人影も疎らになり、昼間の喧騒が幻を見ていたのではないかと錯覚されるほど静かになった。その空虚さを破るかのように、僕たちが宿泊している建物の別の階から、華やかな男女の笑い声が流れた。しかし、それも束の間で、まもなくもとの静寂にあたりは覆われた。

 夜の闇の中で、西の方をみると、小高い丘の影が淡く浮いてみえた。その影の先端は右側にいくにつれて低くなり、湖に接していた。その付近の人家の灯が波に反射して紫色に揺れていた。

 毎日のように小雨が降った。海には風が舞い、山は雲で覆われた。アスファルトの歩道は黒々と光り、道行くデモ隊の速度も心なしか迅くなった。灰色にくすんだヘルメットは濡れると、白い部分を中心にして鮮やかな輝きを取り戻した。目の部分だけを出して、ヘルメットとタオルで顔が見えないようにしたグループは、揃いもそろって薄水色のジーンズの上下に軍手という出で立ちだった。薄汚れた軍手が闘争の長期戦を物語っているのとは対照に、顔半分を隠しているタオルは真新しく、小雨も中までしみ込まず、雨滴が表面に浮かんで銀色に輝いた。ただ、靴だけが色とりどりで、白いズック靴もあれば茶の革もあった。鈍い黒色のカジュアルも散見された。

 その中に彼女はいた。

 どこと言って目立った服装をしていたわけではない。なのになぜ僕の気を引いたのだろうか。同じような服装で同じように行進しているのに彼女だけが印象に残っている。

 大学二年の僕は、きわめて非行動的なグループに属していた。山陰の大学の原子力発電所建設反対闘争を支援するために、その大学へきていた。

 いろいろなグループが来ていた。ぼく達はデモには参加していなかった。

 支援といってもようすをさぐりに来たようなものだ。毎日集会が開かれていた。その集会に参加するのが目的ではなかったが、それでも当座の学生の無聊(ぶりょう)をいやした。

 昼間、集会の移動のとき、廊下を横切る姿を見て好ましく思われたものだが、いまデモ隊のなかで懸命に叫んでいる姿を見て、何か胸を締めつけられるような気持ちになった。

 冬になる前に僕らはその町を去った。その町を去った日、プラットホームの屋根はその年最初の霜で銀色に朝日に耀いていた。僕らを乗せた列車が動きだしたとき、僕はその町に何か大切なものを忘れてきたような気がした。

 列車の後方へ延びて細くなっていく線路は、そのまま僕らが過ごした時のように、急速に遠ざかっていった。それは僕が別の大学で過ごした二週間を、無意味なものに感じたからではない。確かに闘争は長引き、疲労の堆積を僕たちは引き摺って帰路に着いていた。しかし、その突破口の見いだせなかった二週間でも、それはそれで僕の生活に他ならなかった。

 

 ・・・あれから半年以上が経っていた。

 初夏のその町は、空気が透明に覆い、ずっとむこうの山並みが蒼い空にまで伸びていた。

 打水されたプラットホームは、足早に過ぎ去るビジネスマンのような人にも、あるいは静かに観光案内に目をやる旅人にも、同じような緊張とくつろぎを同時に与えていた。

 僕は澄んだ空気を確かめるように、ゆっくりとプラットホームを歩いた。

「何だか寂しくなちゃうな。この前のときとはたしかに学生の数は増えたけど、このままずるずると膠着状態が続くということは、すなわち向こうの思う壷というわけ。解決しないことが悪いのではない。何もしないことが悪いのだ」

 昨日から行動をともにしている学生が言った。どこといって特徴のない男である。しいてあげれば、過激でもない。そうかといって非活動的でもないという、ごく普通の、どちらかといえばこんな場所にいること自体が不似合いな感じの男である。すなわち、男はあまりにも、平凡すぎた。

「いや、そうではない」隣の背の低い、顔の少し赤い男が、表情に似合わぬおだやかな声を出した。赤ら顔のせいか、表情は随分険しく見えるが、声は優しかった。僕の気持ちは和んだ。

「そんなことはない。我々はずっと学習を重ねるとともに、毎日それなりの反対の意志を主張してきた。それはマスコミも取り上げ、全国からも支援の便りも届いている」

 澄んだ目、澄んだ声、そして何よりも自己の正当性を信じる人間の傲慢さの表出を少しも躊躇しない自惚れも、この場ではきわめて自然だった。

 人が時の流れを変えていくのか、時が人の考えを変えていくのか。季節の移ろいが、人の心の移ろいと重なっていた。変わった。確かに変わった。プラットホームを流れる空気も変わった。

 

 ほどなくして、衝突は起った。

 警察は催涙弾を我々に向けて射ってきた。他のグループのどこかから、火炎ビンが投げられた。僕たちも火炎ビンを投げた。特別に狙ったわけではなかったが、期せずして同じところを狙った形になった。他のグループも一斉に投げ始めた。夥しい量の火炎ビンだった。はじめのうちはパッと燃えて消えていた炎が、だんだんと数が増すにつれて大きな炎となり、火災現場のような状況になった。機動隊員の中には、衣服に火が移って、背中から不動明王のように炎を背負って逃げまとっているものもいた。警察のサイレンが鳴り響いた。遠くのほうからは消防自動車のサイレンも聞こえた。

 投石が繰り返された。デモ隊だけでなく、周囲をとり囲んでいた市民や学生の中にも一緒になって支援してくれるものも出た。

 白煙が至る所で上がり、騒動はますます大きくなっていった。ひときわ大きな煙のあがっているところを見ると、乗用車が燃えていた。後からも、前からも機動隊の渦だ。僕たちは前へ走り、後ろへ逃げた。しかし、どうしょうもなかった。周囲をアルミの盾と白いヘルメットで囲まれ、その円陣がじわじわと狭められたとき、僕は覚悟を決めた。いよいよ今度こそは、一戦交えずには済むまいと思われた。じわじわと、機動隊は僕たちを囲繞するサークルを狭めてきた。

 と、そのときである。ただなすすべもなく、包囲が狭められていくだけかと思っていたとき、デモ隊の一部に力ずくで包囲網を突破しようとしたグループがあった。はじめからそのような作戦が立てられていたのか、あるいは機をみるに敏感なリーダーに率いられた一団が、咄嗟に行動を起こしたのかは、確認のしようがなかった。けれども、そのような状況に至るということ自体が予想されていたことではなかったから、多分、後者だろうと僕は思った。そして、その行動の見事なさまは、まるで白昼夢でもみているのではないかと錯覚されんばかりだった。気がついたときには、僕たちは包囲網を突破していた。

 僕たちは怪我は無かったが、数回にわたる衝突だった。怪我人は相当あっただろう。あるいは死者も出たかも知れなかった。

 総崩れになったデモ隊は蜘蛛の子を散らしたように四方に乱れた。隣りにいた彼女の手を掴んで、人のいないほうへ走った。

 

 岡山から来たというこの女性は中学校で数学を教えていたと言った。ちょうど教員になって一年目に、休職して、ここに来たのだということだった。最初、見たときは大学生と見分けがつかなかった。

「ちょうど一年が終わろうとしていた頃のことよ」女は夢見るような調子で話し始めた。「一年が終わってみると、このような一年一年が何十年か何事もなく過ぎ、そして人は大過なく教員生活が送れたことは幸せでした、などと言って辞めて行くのかと思うとぞっとして、しばらく体の震えがとまらなかったわ。さっそく、翌日辞表を書いて教頭のところへもっていくと、しかとした理由がないのなら休職にしてしばらく考えたらといってくれたの。母もそうしなさいというものだから、休職にしちゃったの。数学の教師であることがいけないというんじゃないけれども、でも働けないのよね。子供の頃からよく大きくなったら何になるって、聞かれるでしょう? 私だけじゃないわ。誰でもよ、きっと。こういう問いって罪がないのね。聞くほうにもたいした意味もなければ、答えるほうも大きな責任なんかないわ。軽く、スチューワデスだの、看護婦さんだのと答えておけば済むの。それだけのことよ。でもね、そういうことが何度も何度も繰り返されるたびに、子供は夢を膨らませることができるの。一度広がりはじめた夢というのは途方もなく広がるものなのよね。だれも知らないことだけど、少女の胸の中の夢は無限なのね。未来が無限に広大で、そしてその可能性のいずれもを選択することができるのね。それが、大きくなったら何になる?という問いの意味よ。

 ・・・そしていつのまにか気がついてみると、自分の掴んでいるのが、その広い広い未来の、いや未来だったものの、ほんのちっぽけな現実なのね。こんなはずではなかった、私の未来はこんなものじゃなかったと、みんな心の中では叫んでいるのよ。叫ばないではいられないはずよ。・・・気がついたら、ここに来ていたの」

 彼女と僕は山を越えて岡山のほうに逃げることにした。そうはいっても、要所要所には警察が立っているので、うかつに逃避行を実施するわけにはいかなかった。

 最初の夜は杉木立の下の凹地で過ごした。初夏といっても夜は相当冷え込んだ。寝袋のひとつでももっておればと思ったが、ないものはしかたがない。僕たちは互いに体をくっつけあって暖めながらその夜を過ごした。危険をさけて道路から相当奥まったところに場所をとった。それでも、あたりが十分に静かだったから近くの道路を通過するトラックの音が、遠くの山にこだまして羽虫のうなりのように断続的に僕たちの耳に達した。それらのトラックは夜の闇の中を、ヘッドライトで照らしだされたところだけを目掛けて、突進していったはずだ。空気中のかすかな塵に光はあたり、チンダル現象によって光束がゆっくりと移動する。その光束は遠くの山や、空に流れた。その一部を僕たちは木立の間から眺めた。

「このような山の中で、二人だけで暮らせたらいいわ」

 彼女は静かに囁いた。

「世間とは一切交渉がなくて、自給自足というか、そういう生活というのは現在ではもう不可能なのかしら?」

 そのような生活というものが考える先から非現実的なものとして、僕の頭のなかで消えていくのとは反対に、彼女の言葉は僕に向かって投げ出されていた。

 しかし、せっかく彼女が夢を語っているのに、それを消すのも気の毒なように思った。それに何より、二人の措かれている闇が、さらにその夢を長らえさせた。僕は黙って聞いていた。

「仮に、仮によ。このまま二人が山の中に棲んで、世間と一切の関係を断つことはできないかしら? やがて、二人は戸籍から消え、法律上はこの世に存在しないことになるわ。存在しないのだから、決してその証拠を残したり見せてはいけないことになるの。二人だけで、山間(やまあい)の誰もたづねてこないようなところで、ひっそりと暮らすの。そこにはお金というものもないわ。商品というものもないわ。すべて自分たちで作り、そして自分たちで使うの。そうね、ロビンソン・クルーソーね。陸のロビンソン・クルーソーだわ」

 そんな生活なんてありえない、たった二人の孤独が、彼女にメルヘンを語らせたのである。二人だけのあどけない会話として僕は、うなづいた。

 木の幹を背凭れにして座っている僕に、彼女がさらに凭れていた。僕の指が彼女の髪を梳うように撫でた。

 彼女の胸のあたりに置いた僕の左手を、彼女は両手でやさしく握っていた。彼女は見かけほど細くはなかった。

 雲が動いて、月明かりに頬の輪郭がくっきりと浮かんだ。産毛が月光を反射して銀色に光った。思わず僕は、右手を細い顎のほうへまわした。やわらかい肌はあたたかかった。 ・・・いつの間にか彼女は目を閉じていた。

 一休みした僕たちは再び歩き始めた。国道沿いの潅木の中を進んだ。

 道路添いに山中を歩いた。かなり歩いているはずなのに、彼女は疲れたようには見えなかった。僕も疲れていなかった。遠くへ行く、ただそれだけが目的だった。町から離れるのだ。僕たちが来て、そして出会った町から、今は遠ざかることが必要だった。そこには何の感傷もなかったが、二人でいるということだけで、ずいぶん感傷的だった。国道から少し離れたところを歩いていたから、時々通過する自動車のライトが遠ざかって行くのが見えるだけで、他に何もなかった。だから僕たちが誰かに見られるという心配もなかった。

 しかし、今歩いている道もやがて国道と合流すると、歩いている僕たちは必ず通過する自動車に見られるのではないか。そうすると、僕たちが逃げた方向がわかってしまう。それは避けたかった。

 でも、僕たちにはそちらの方向に行くしか選択肢は残されていなかった。crystalrabbit