トンド

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トンド   —せとうち抄—

 

 マニラで生まれた長浦峰子は、小学校へ上がる前に、両親の故郷である田島に帰ってきた。そこには、祖父母と峰子の兄が住んでいて、峰子ががマニラから戻ったので、四人で暮らすようになった。家族一人が増えるだけでも、家の中が賑やかで明るくなったと、祖母はたいそう喜んだ。

 田島は廣島懸の東部、沼隈半島の西側にある小さな島だった。すぐ隣に横島がある。

 田島までの帰路は、マニラから神戸までは船で、神戸から汽車に乗り、尾ノ道からは、島伝いの巡航船であった。しかし、幼い峰子には、どこをどう通ってきたかの記憶は無く、後年マニラについての話題を聞いているうちに、田島とマニラとの往来につての知識もついて、自分が辿ったのも、多分そのようだったのではないかと思った。

 田島に帰って三年もすると、峰子のマニラでの記憶はどんどんと薄らいでいった。何分幼い頃の記憶だから、全体に曖昧で、もともと多くを覚えていたとは言い難かった。それでも時折、何かをきっかけに鮮やかにマニラの光景が思い出された。

 その思い出は、いつも一つの光景へ収斂する。すなわち、トンドの港から出て行く、うたせ船である。多くの記憶が薄れていく中で、うたせ船の記憶だけは薄れていくことはなかった。

 父は、うたせ船の持ち主で、うたせ漁をするためにマニラに来ていた。マニラ湾のトンドである。峰子の家では、祖父がはじめにマニラに来て、うたせ漁をした。父は祖父の元で、うたせ漁を覚え、跡を継ぐと祖父は祖母とともに田島へ帰った。父と母がマニラに残った。そこで、峰子と兄と妹が生まれた。

 

 うたせ船は、何艘も何艘もあった。朝な夕なの光を受けて帆柱が輝いていた。幾重にも重なった帆柱が遠方からでも伺えた。そこでは天と海が混然と溶けあって、峰子の住む世界へと続いていた。

 うたせ船の特徴は何といっても、垂直に伸びた帆柱だ。最も簡単なもので三本、たいていはそれ以上の帆柱が、高く船体の長さよりも長く伸びていた。帆を張って移動するときは、この帆柱はさほど目立たないが、帆を降ろして港に停泊している姿は、印象的だった。天に向かって伸びる鉄塔のようだった。また何艘ものうたせ船が、舳先を接して繋留されている光景は何本も垂直に木が茂った林のようであった。

 

 田島の家でも、子供たちの会話でも、よくマニラのことが話題になった。峰子と同様、両親がマニラに行っている子供は多いから、それぞれの家にマニラのことが伝わると、そこでの話しが子供たちの会話を通して広まった。だから、自分の経験と田島で聞いた話が一緒になって、田島にいてもマニラについての知識は、峰子の中で膨らんだ。それは峰子が成長するのと同じように成長した。おかしなはなしだが、薄れた記憶に代わりに、後で聞いた知識が次第に峰子の心を領し、それに励まされるようにマニラへの愛着は増した。

 

 峰子は、小学校へ上がる前に田島へ帰ってきたとき、はじめは随分狭いところへ来たと思った。しかし、反対に住む家は大きくなった。そして気がつくと、父と母はいなくて、祖父と祖母に育てられていた。父と母は、峰子が田島に帰ったあとも、マニラへ留まっていたのだ。

 田島に帰るときは、確か母が連れて帰ってくれたのであるが、その母もいつの間にか、マニラに戻った。その時、母とどのように別れたかは、「おじいちゃん、おばあちゃんの言うことをよく聞いて・・・」と母に言われたことの他は、ほとんど覚えていない。急激な生活環境の変化に対応するのが精一杯で、その頃のことをよく覚えていないのだろう。

 村には同じように、父親がマニラに行っている家はいっぱいあったが、母親も行っている家も少しあったように思う。それでも、行ったり、帰ったりしていたから、正確なことはよくわからない。ある家の親がいないと思ったらいたり、いると思っていたらいつのまにかいなくなっていたりと、村の人はよくマニラへ行ったり、帰ったりしていた。どちらにしてもいえることは、峰子のまわりには、家族がマニラへ行っている人ばかりだったということである。

 兄と妹のことも、詳しいことはほとんど覚えてなく、ただ、マニラから田島へ帰る前は妹も一緒にいたが、帰ったのは峰子だけで、それから何年かして妹の葉子が、同じように田島に帰ってきたことをわずかに覚えているだけである。田島に帰ったら、兄の嘉吉がいたが、マニラでの嘉吉のことは、ほとんど覚えていない。たった四歳しか離れていないが、峰子の記憶に残る前に嘉吉が田島に帰ったようである。ただ、田島に帰った日に嘉吉が、「峰子、しばらく見んうちに、おおきゅうなって・・・」と、笑顔で抱き上げてくれたことを、いまでもよく覚えている。だから、マニラにいたとき、兄も一緒にいたのではないかと、峰子は想像するだけである。そして、これはもっと後になって思ったのだが、峰子の子守り役は嘉吉で、抱いたり背負ったりしていたのではなかろうか。峰子の記憶の中には、そのような光景はないが、そんな気持ちがするのである。

 妹の葉子のことも、はっきりと記憶にない。葉子の場合は小学校に上がるからというのでもなく、それより少し前に田島に帰ってきた。「嘉吉も峰子も大きくなったので、こちらのほうがいいと思って・・・、お世話になります」と、母が葉子を連れて帰ってきたとき、祖母に峰子の前で頼んでいた。祖母は、三人目の孫を押しつけられるのを、少しも迷惑そうに感じてはいないようだった。兄妹は一緒のほうがええ、と笑顔で祖母はうなずいていた。

 

 尋常小学校は、家の近くにあった。小さな、家と家に挟まれた路地を歩いて、通う。山と海に囲まれた、わずかばかりの平地に、家が密集していたので、小学校へ通うとき、多くの人に会った。たいていは老人で、日焼けした赤ら顔を見て、このおじいさんも若いときはトンドでうたせ船に乗っていたのだろうか、と峰子は勝手に思ったりしたものだ。 

 小学校の正門の前の、山側に中井萬蔵翁の頌徳碑は建っていた。この碑の前で挨拶することも峰子は自然に覚えた。子どもたちは正門から入る前に必ずこちらの石碑へ一礼してから正門をくぐった。多くの子どもたちは手を合わせたが、一礼しただけで慌てて通り過ぎる子どももいた。峰子は、お地蔵さんにでもするように手を合わせた。そのほうが一礼するよりも簡単だった。

 田島の人の多くがマニラ湾のトンドでうたせ漁をするようになったのは、萬蔵翁のおかげだと、よく村の人は話す。そのおかげで田島は小さな漁村なのに、金持ちが多いんじゃと子どもたちまで、大人の話しの受け売りをする。田島で漁師だけをしとっちゃ、あげえな大きな家はたたん、マニラへうたせ漁に行ってたっぷり稼ぐから、立派な家が建つんじゃという話しは、峰子も何度も聞いた。そして、その話しの帰結は、トンドのうたせ漁へ田島の漁師を送る道をつけた中井萬蔵さんのことに行き着くのだった。はじめの頃の渡航費用は大半を中井さんが出したということだ。だから、そのお礼に村の人たちがお金を出して、この石碑を建てたということだった。石碑には難しい字で何か書いてあったが、もちろん峰子にも、それは読めなかった。小学校の正門を入る前に、その石碑を囲む、低い玉垣に寄って、他の子どもたちがするように手を合わせるだけだった。

 

 峰子の家も他人からみたら似たようなものだったのだろう。母親が時々帰ってきていたが、あまり長くは田島にいなかった。父親が帰ってくるのは希だった。

 マニラというよりも、トンドという地名がよく聞かれた。最初、トンド、トンドと聞いても何のことかわからなかったが、マニラのことだった。トンドはマニラ湾の北のほうにある村で、海沿いに長屋のような家があって、田島の人たちはそこに住んでいた。マニラではトンドが田島であった。田島の生活がそこにあった。だから、峰子が田島に帰ったとき、外国から田島へ帰ったというよりも、ほんの少し住むところを移動したという印象のほうが強かった。

 トンドの生活、といっても幼い峰子の目を通して見たものだから、その全てではないが、それは子供心にも、妙に活気のあったものだった。狭い路地と同じ形をした掘っ建て小屋のような家。それでも、人々は逞しく、賑やかだった。同じ田島の人なのに、トンドへ言ったら大声になる。そんな印象だった。

 トンドでは学校へ行くことはなかった。だから、学校に上がる年齢になると、田島へ帰って、祖父母の家から学校へ通った。

 田島の学校といっても、小さなものだ。そこで、日本のことを学んだ。マニラのことを学んだことはひとつもない。マニラで生まれ、両親がマニラにいるのに、その子供である私は、田島にいて、日本の小学校へ行く。マニラにいる両親も、トンドという小さな村で、田島の人たちが寄り合って暮らす。そこがトンドの田島村のようなものだった。マニラにいてもマニラではない。そんな不思議な生活だった。

 いつのころのことだったろうか。峰子が田島に帰ってしばらくして、父が病気になって薬を送ってくれという手紙がきた。このようなことはよくあることで、祖父母はあまり驚かなかったが、峰子は心配だった。

 因ノ島のコレラクスリは、ずっと前にもらったものだが、といって祖母がどここかから出してきた。横島の向こうが因ノ島だ。島四国八十八か所の遍路に行った人が買ってきたのか、もらってきたのか。毎年春になると、祖父が島四国へ行ってくる、と言って二三日いなくなる。何のことかと思っていたら、因ノ島の島四国八十八か所のことだった。田島からは船で行く。四国の本家八十八か所を回るとなると大変だ。経済的にも時間的にも四国を回る代わりに、新四国はよく利用された。田島の近くでは神ノ島や因ノ島に島四国八十八カ所があったが、船ですぐ行けるので、因ノ島へ行く人が多かった。定期船があるのではないから、船を特別に出していた。定期船で行くのなら、一度尾ノ道まで行き、そこからまた因ノ島方面へ船で行くのだから、大回りになる。

コレラが流行っとんかねえ?」峰子がいうと、「こりゃあ、何でも効くんじゃ。お父さんが重宝しとった」こう祖母が言うのがおかしかった。父は効くといって愛用していたが、祖母はそんなことは鼻から信じてなかった。「うちぃ、あってもしょうがないけぇ、送ってあげりゃあええわ」祖母は心配している峰子とは反対に、どこか爽やかな気持ちで、父の催促どおり荷造りをしていった。

 

 帰って来ていた母を、船で尾ノ道まで送ったことがある。

 母を送って尾ノ道に行ったのは、晩秋の日曜日だった。朝一便の巡航船に乗って、祖母と、峰子、葉子が行った。嘉吉は学校があるので行かなかった。

 葉子は二三日前から風邪気味だった。早朝の海は凪いでいて、あるか無きかのさざ波が朝日に輝いていた。しかし、空気は冷たく、巡航船の甲板へ立つとそれはいっそう鋭く肌を打った。遠ざかる島影を名残惜しそうに観ていた母は、葉子のことを案じたのか足早に客室へ降りた。

 島回りの巡航船は、田島を出ると敷名、大越、常石、百島、そして浦崎の満越を経て尾ノ道へ着いた。

 尾ノ道で汽車に乗る母を見送った。母は悲しそうだった。でも、子どもたちのの前だからもしれないが、そんな気持ちをじっと我慢して、駅へ入るまで、子どもたちにあれこれと言った。

 帰りの巡航船の中は、寂しかった。葉子は母と別れたせいか、黙り込んで元気がなかった。巡航船は行ったときと逆に、それぞれの港に寄った。船から降りる人はいても、乗る人はほとんどいない。それぞれの桟橋には回漕店のおじさんが来て、船を降りる客から切符を受けとっていた。みんな顔なじみらしく、親しく挨拶していた。また、乗客が降りると、船員が荷物を降ろした。それを回漕店のおじさんが受けとる。

 家に着いてからも葉子は元気がなかった。そしてそのまま寝込んで、三日目に死んだ。

 祖母は自分の子供が死んだように悲しんだ。父も母もいないままに葬式をした。隣近所の人が大勢来て手伝ってくれた。

 しばらくして、母がマニラから戻った。マニラから戻るたびにたくさん土産を買ってくる。近所や親戚に、挨拶に行くのだ。

 祖母は、母親に、すまないね、すまないね、と何度も言った。

「私がもっと早く気がついていたら、こんなことにならなかったのに。葉ちゃんには悪いことをした。気だてのいい子だったのに。私に甲斐性があったら・・・」と祖母は母に何度も詫びた。母はじっとこらえていた。

「お姑さん、そんなに自分を責めないで下さい。預け放しにしていった私らも悪いんですから・・」

 母が着いたその日に、お墓に参った。

 路地を歩けば奥の坊に着く。普請中の家もある。新築の家もある。この家も、あの家も子供と年寄りが田島にいる。働けるものはトンドで、うたせ漁をしている。知っている人と出会う。

「富ちゃん、帰ってきたんけ。このたびはご愁傷さんじゃった」

「トンドはどうかのう」

「ええ、この頃はまたよう獲れるようになってきました。お宅の貞光さんらも元気でやりょうります」

「そりゃあ、おおきに。わしらも元気にやっとると伝えてくだされ」

「わかりました。それじゃあ、今日は急ぎますけぇ」

 母は妙ちゃんのおばあちゃんと会った。妙ちゃんとこも峰子の家と事情はたいして変わらない。田島にいるのは祖父母と孫で親はマニラにいる。こうして、どちらかでも田島に帰ると、互いの無事を伝え合うのが、一種の習慣になっていた。

 山門に向かって山側へ回ると左手に大きな松がある。由緒ある松だと聞いている。高倉上皇お手植えの松で見事なものだ。その幹の太さだけからでも、かなりの年月に渡ってここに植えてあったことが思われた。

 山門を抜けると墓所に向かう右手にも根元の大きな松がある。松の緑は、暮れかけたとはいえ、明るい瀬戸の日を浴びてまばゆいばかりに鮮やかだ。それがよけいに峰子の心をせつなくさせる。

 住職への挨拶もそこそこに母は葉子の墓に向かった。真新しい卒塔婆に書かれていた梵字が既に退色をはじめている。卒塔婆の生木も日に焼けて、時間の経過を示していた。峰子の心の中では、葉子は生き続けているのに、こうしてお墓に参ると、過ぎ去っていった時の流れを否が応でも感じないではいられなかった。

 墓の前で母は手を合わせた。

「葉ちゃん、ごめんね、ごめんね、傍にいなくて・・・ごめんね・・・」

 峰子は、葬儀のときに両親の不在が淋しくはあったが、それでもいつもいない両親だから、仕方がないという諦めに似た気持ちのなかで、祖父母と兄と親戚の者らで、葉子の葬儀をしたが、そこに一番居たかったのは、母と父ではないかということが、今になって痛いほどわかるような気がした。

 墓の前でうなだれている母の傍で峰子も手を合わせた。そこにどれくらい居たのであろうか。夕陽は既に西に傾いて横島の島影が逆光の中に黒く浮かんでいた。防地の瀬戸は、夕日に照らされて赤がね色の笹波が静に揺れてた。

 

 あの夕日の向こうにマニラがある。トンドがある。父が居る。うたせ船がある。

 トンドはこれから朝なのだろうか。いや、少し西だから、もうしばらくして、日暮れるに違いない。そうすると今頃は、今夜のうたせ漁に備えて漁具の準備をしているのだろうか。そして日暮れとともに出漁・・・。一度うたせ船に乗ると、滅多なことでは休めないという。田島のトンドに居る人たちは、年から年中働いて、年をとってから田島へ帰ってくる。その間に、田島に住む親と子に生活費を送る。家を建てるお金をもって帰る。田島ではいい漁場がないから、トンドまで行ってうたせ漁をする。父も、母と一緒に帰ってきたかったのではなかろうか。葉子の墓に泣き崩れた母を見て峰子はそう思った。

「父ちゃん、早く帰ってきて」

 峰子はつぶやいた。

 母だけに悲しみのすべてを背負わせるのが、峰子には耐え難かった。crystalrabbit