伊沼島

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伊沼島

 

 四〇分ほどで、巡航船は伊沼島についた。長い日が西に傾いて、海面を黄金の鱗のように輝かせている。桟橋は伊沼島の北側の入り江にあった。岬の突端を廻ると小さく旋回して桟橋へ横付けになる。そのとき一際エンジン音が高くなる。足下の船の下を,緑の海水が泡を含んで激しく渦を巻く。

 桟橋へ下りた。足が桟橋へ着いた瞬間、白石潤也は奇妙な感覚に襲われた。この感覚は何だろうか。大地に足をつけるのでもなく、船上で揺られているのでもない。しかし、静かに足元は上下している。この不思議な感触。・・・まるで深い眠りから覚めるときのようなものうさと、永遠に眠り続けていたいような気持ちが相半ばした半覚醒の状態。また、母親の羊水の中でたゆとうている胎児に感覚があればこのような状態ではなかろうかと思われた。足元から静かに上下する。乗船するまえに本州側に接する桟橋の上を歩いたときは気づかなかったが、今船からおりて、その船自らが引き起こした海水の攪拌によって上下する桟橋の感触にあらためて驚いた。海でも陸でもない世界。半分固定されていて、それでいて上下に浮き沈みしている。このような中間状態があること自体が潤也には驚きだった。桟橋の上下はまるで波の揺りかごだった。このまま揺られてたら、眠くなって、ひょっとすると永遠に起きられなくなるのではないかと思われた。

 この桟橋の先は伊沼島だ。瀬戸内海に浮かぶ小さな島だが、文字通り浮いているわけではない。浮いているのは、伊沼島に接続している桟橋である。この桟橋が島と外界を隔てているのだ。

 この不思議な感触を通過すると、その先は、もう別の世界に違いない。

「妹の恭子です」

 彩子の前に、彩子とほとんど同じ背丈の少女が立った。

「はじめまして」

 やや小さめの顔がノースリーブの薄黄色のプルオーバーの上に覗いていた。デニムのフレアスカートが風に揺れた。その色は海の色よりも、空の色よりも、青かった。

 一方、恭子の隣りに立った彩子は、紺地の縮緬素材に小花を淡く散らせたブラウススーツで、あるか無きかの共布ひもベルトがウエストを締めていた。またハイヒールサンダルは西日が当たって黒く輝いていた。潤也の印象ではあまり似てないな、という感じだった。もし、揃いのスーツでも着れば似て見えるのかも知れない。

 しかし、そのことよりも潤也を驚かせたのは、二人が顔を会わせたときの表情である。二人とも笑顔には違いない。しかし、その親密さは、これが姉妹という関係を遙かに超えた親密さが感じられた。いや、親密さというと正確ではない。親子といったほうが近い。どちらが親でどちらが子というものでもない。お互いに相手をシェルターで保護しているような親密さと言ったらいいのだろうか。しかし、それは決して他の人たちを拒んでいるのでもない。

 公園で遊んでいる幼い娘と、若い母親。母親の背丈ほどの小山を互いに反対方向に廻っている。母親はできるだけゆっくりと、よちよち歩きの幼子は精一杯に歩く。そして、幼子に不安と疲労がそろそろ現れたと思われる頃、二人は出会う。笑う。それぞれが再会できたという、それだけのことを、互いに喜び合う。そんな光景が潤也の脳裏に浮かんだ。 恭子は大学一年で、地元の大学に通っていると、彩子から聞いたことある。

「お疲れでしょう。それに荷物もあると思って」

 恭子は、潤也のバッグをもつと、桟橋のスロープを登り始めた。潮が引いているので、浮き桟橋は岸壁からかなり下がった位置にあった。登り切ったところで、揺れは止まった。

 桟橋を上がったところには、「交通安全」と書かれた幟旗の隣りで「瀬戸内ロマン 狐の嫁入りの島 伊沼島 にようこそ」と染め抜かれた観光キャンペーンの幟旗が静かに揺れていた。

 岩山を背にして、右手には、犬養回漕店と書かれた看板と島内観光地図を画いたトタン板がかかった待合所があった。南側と東側の二箇所につけられた入り口はどちらも開いていて中がよく見えるが、客は誰もいない。その前の缶ジュースの自動販売機が低く振動している。

 後ろの桟橋が接している護岸の方では小学生が、釣り糸を垂れている。運動靴の緑や黄色の蛍光色が、緑の海面の上に浮いているように見える。顔はわからないが、ボーイソプラノの笑い声が海面を渡ってくる。少年達が視界から消えた頃、声だけが追いかけきた。

 いきはよいよい 死ぬのはこわい それっ! 

と一人が言うと、後の者が笑う。その笑い声に混ざって、ピチャという何かが海面を打つ音。

 何かのおまじないだろうと、潤也は思った。しかし、深くは考えなかった。

 桟橋に接する護岸には、白の軽トラが一台と、乗用車が二台止まっていた。恭子は、向こう側の4WDのドアを開けて、達也のバッグを押し込んだ。

 彩子と潤也が後部座席に座ると、車は南に向かって走り始めた。島の道路は狭い。自分では運転できないな、と潤也は思った。恭子にとってはそれが当たり前であるかのように運転した。

 狭い路地を挟んで民家が軒を接している。ほとんどが木造の瓦屋根だ。高くて二階建て。ときどき平屋や、新建材の家が見える。破風を白い漆喰でかためた古い民家も混ざる。しかし、どの家も路地の大きさにあわせたかのように小振りである。それに家と家の境がはっきりしていない。家よりも境界を主張しているような都会の住宅を見慣れた潤也には、自分の育った四国の開放的な山里を思い出した。

 

「ここが六道の辻。左へ行くと、御崎(みさき)神社と海岸」恭子が観光ガイドよろしく道案内をはじめた。

「うしとらみさきはおそろしや、と小さい頃よく言ってたわ」

 彩子がほんとに怖ろしそうに言う。

「今じゃそんなこと言う人はいないわ」

 恭子が笑った。

 ざっと見回すと、桟橋から来た道がまっすぐ南に向かって続き、左右、それに左右前方と六本の道が交差している。

「そちらが島の西側へ行く道」左側に座っている彩子が潤也の右側を指して言った。

「そして、こちらを行くと西屋と言って猿橋家に続く道」潤也の前方を示した。次に彩子は体を左に回転させて、「こちらは、島の東側に行く道。石切場があるの」と示した。

 彩子が体を前に戻した。車が再び動き出した。

「私たちは、こちらの道を進むの」と恭子は言って、左から二番目の道を進んだ。

 彩子のほうを見ていた潤也は、はっと驚いた。彩子の後方、島の東側、石切場に行くと先ほど教えられた道を、彩子そっくりの女が自転車で横切った。前を見ている彩子も恭子も気づかない。しかし、潤也にははっきりわかった。まるで姉妹ではないか。・・・しかし、潤也の故郷でもそうだが、狭い地域では何代にも渡って婚姻が行われ、みんな似たような顔になるのだ。それが、その土地土地の顔つきというものであろうか。そう思って潤也はこのことを二人に言うのが憚られた。

 潤也の驚愕に、彩子も気づいていないようだった。

「島には一周道路というのはないから、一度ここまで戻ってそれぞれの方向に向かうの。だから、ここまでくれば迷子になることはないわ」

 恭子が、前を向いたまま説明した。

「信号が無いけど困らないのかなあ」

 潤也は素直に感想を述べた。

「そんなに、車は多くないから大丈夫ですって」

 彩子が笑った。

「それがねえ、彩ちゃん。一週間ほど前、若い子とお年寄りがぶつかったのよ。たいした事故ではなかったらしいけど」

「最近、車増えたのかしら」

「若い人が、自分の車をもつようになったからね。そのうち信号がついたりして」

 恭子が笑った。

「信号なんていやよ。こんな狭い島で」

 彩子も笑いながら言う。

 潤也は、信号と聞いて、とうりゃんせのメロディを歩行者用につけるのかな、と思って、思わず微笑んだ。

 行きはよいよい 帰りはこわい

 ―いつも母親に手を引かれて歩行者用信号を渡って、道路の向こうに行く幼児が、ある日ひとりでここまで来た。初めての体験だ。多分一人でも渡れるだろう。でも、帰りののことなんか、考えもしない。一人で帰れるかな? 緑になった。足が出る。

 行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも通りゃんせ

 信号機が、じっと見ているだけである。―

 ぴったりだ。笑ってしまう。それにしても、誰がこのメロディーを歩行者用信号に選んだのだろうか。

 自動車が六道の辻を過ぎて左前方に進むと、次第に民家は減って、やがて道は登り道にさしかかった。ゆるい坂道の両側は木斛(もっこく)と松をはじめとする樹木に取り囲まれている。山桃も隠見された。

 まもなく行く手に家が見えてきた。かなり並んでいるが、樹木に取り囲まれていて、全貌を見ることはできない。松の切れ目には、楢の葉が覆っている。崖の上から横に枝を伸ばしたウバメガシの緑が目に入った。特に道路の右側には幹の太いウバメガシが何本もあって、視界を遮っていた。

➡️ 生家 crystalrabbit

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