分家

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分家

 

 氷川洋二は、山南村、といっても、今は合併して沼隈町山南という山間の農家の次男として、昭和四年に生まれた。

 戦争が終わって兄が復員して、家庭の平和が戻ったとき、分家して一家をなすことになった。嫁は下山南の遠縁からもらい、兄夫婦の家族と同居していたが、ほどなく生家から百メートルほど離れた藪に面した畑地の一角に、小さな小屋のような家を建て、移り住んだ。そして、父や兄とともに耕作していた田畑の一部を譲り受けて独立した。畑地が二反と田圃が三反四畝であった。すなわち、これが氷川家の次男の分家分であった。山南川沿いにある田圃では米の他に、藺草を植えた。山南川の水量は豊かで、藺草はよく育った。備後表の原料として、高く売れる。一部は生活費として使用し、残額は貯蓄に廻す。ゆくゆくは田畑を購入して、耕作面積を増やしていくのが、洋二の夢だった。これは洋二だけの夢ではなく、どの家の次男三男も同じように考えていた。いわば、分家に与えられた宿命であった。

 洋二の兄の氷川保は、総領にしては珍しく気配りのきく男で、おまけに欲がなかった。洋二に与えられた分家分も、破格で、父はいい顔をしなかったが、保の一存で決めた。洋二としてみれば、新しく家を興すのであるから、元手となる田畑は多い方がよい。もし、後になって増えれば、当初与えられた田畑は、本家から借りていたようなものだから、一部は返してもいいと思って、兄の好意に甘えることにした。兄は奢侈に走るような人ではないから、少々田畑が減っても、本家が傾くことはあるまいと洋二には思われた。

 妻も自分も健康で体力にも自信があったから、無駄をせずにこのまま十年も辛抱すれば、本家ほどにはならないにしても、一応の農家としてやっていけるだけの田畑をもつことができるだろうと、洋二は思った。

 前途は洋々としていたが、かといって日々の暮らしは決して楽ではなかった。朝は、まだ星が出ている頃に起き、夜は日暮れて帰り、更に一年のうち幾日かは夜なべもした。まさに、朝は朝星、夜は夜星の古歌の通りの生活であった。季節季節の節句と親戚の冠婚葬祭には田畑の労働から解放された。しかし、農作業は待ってはくれない。後で、倍して働かなくてはならなかった。

 

 山南村が沼隈町となった昭和三十年に氷川洋二は二十六になった。四歳の長男の下に、まもなく二歳になる長女がいた。この十年で変化したことといえば、藺草の値段が少しよくなったことか。しかし、現金収入が増えると同じように土地を求めるものも増えて、土地の値段も同じように上がった。そんな中で、ほんのわずかだが田を購入して増やしたから、これまでのところは順調であったといってよかった。だが、ここ数年は藺草の値段がやや下降していた。九州産のものが安く入ってくるのだと聞いた。

 この年、妻の弟が新制高校の園芸科を卒業した。

 ある日義弟が来て、海外で働いていみるのはどうだろうか、どうも日本の狭い土地は将来性がないように思う、と言って帰った。

 その卓也という妻の弟は、洋二夫婦が行けば、自分も構成家族の一員として行けると思って、次に来たときは、兄さん一緒にどうだろうか、と言った。

 洋二には考えてもいなかったので、ただ曖昧に笑うだけだった。しかし、賛意だと受け取った卓也はますます調子づいて、他の仲間にも語った。はっきりと否定しなかった洋二がいけないのだが、洋二は、海のものとも山のものともわからない外国のことに関して、判断すること自体が、自分には無理な相談であった。

 それに、海外移住というのは、自分のような小心な人間の考えるものではなくて、一山当てようと野望を抱く人間か、食い詰めて尾花枯らした人間のすることだと思っていたから尚更だ。

 しかし、若い卓也には、洋二のような考え方はないらしい。外国で日本と同じような感覚で住んでみればいいじゃないか、というものだった。まったく屈託がないというか、新しい時代になったというか、洋二にはすぐには理解しがたい青年が育っているのは確かだった。戦後の新しい憲法を教えられた青年の発想だと、洋二は思った。

 

 黒の和牛を一頭飼育していた。田圃を鋤いたり、荷車を曳かせるのに何かと役にたった。しかし、毎日の牛の餌刈りは大変だった。毎朝妻が起きる前に起きて、法面(げし)や畦道に生えている草を刈った。茅でできたえんぼうに二杯必要である。稲藁も食べるが、稲藁だけを与えていると、一年ももたないので、雑草を刈ってきてやることになる。

 トタンのバケツに水を入れてやると、二杯も三杯も飲む。

 その黒い牛が成長して立派な親牛になったころ、牛屋の親父がやって来る。若い者を一人連れており、その男が牛を乗せたトラックを運転して、トラックが入らないところからは、歩いて牛を曳いてくる。牛屋の主人は、

「兄(あに)さん、いつもお世話なります」と言いながら、牛の横腹の黒々と輝いている毛を撫でて、ぽんぽんぽんと数回軽く叩いてから、笑みをもらした。

「よう太って、ええ肉づきです。おおきに、おおきに」

 こう言って、肌色の腹巻きの間から、薄渋の札入れを取り出すと、日頃見る機会の少ない札を数枚出して数えた。こうして牛屋は太った牛を買って行き、代わりの一回り小さい牛を置いて帰った。

 

 洋二は幼い頃のことが今眼の前にありありと甦ってくるのがわかった。いつまでも見て飽きることのなかった夕景である。西日が山の端に没してからも、いつまでも雲は輝いていた。いや、ほんのわずかのことであったのかも知れないが、洋二は随分と長い間だったように覚えている。時間とともに、朱から燃えるようなオレンジ色へ変わったかと思うと、南へ流れた雲を追いかけるように。その雲の下のほうには、まだ行ったことのない知らない町があって、見たこともないような服装(なり)をしていて、そしてここより少し遅れて、夕暮れを迎え、黄金色の夕日を浴びながら、その町もやがて暮れていくのではないかと思った。

 それは、まだ学校に上がる前のことで、世の中のことも、他の村のことも、広島県も知らなかった頃のことである。あの雲の下に、まだ見ぬ世界があって、そこでは、別の時間が流れているに違いないと思った。いつまでも、夕日の残照が千切れた雲に当たって、静に流れているように、静かな時間が流れている異国の世界があるように夢想した。

 

 町内の話題を聞くにつけ、洋二はこの幼時の記憶が、嵐のように襲ってきて、あのときの夢想が、この世にほんとうにあるのだと思われた。

「南米へ。南米のオアシス・パラグアイへ」というようなスローガンこそ誰の口からも聞くことは出来なかったが、まさに、そのような熱気が町内を幾重にも渡って駆けめぐっていた。

 その頃、町内をどよめきに似た話題が巻起こった。南米パラグアイへの移住を町が積極的に援助するというのだ。初代町長の神原さんがえらい熱心で、町長に就任するやいなやカナダ、ブラジル、パラグアイを見て回った結果、パラグアイが一番いいと決めたそうである。町を上げて援助してくれるというのだ、と噂が走り回った。

 やがて、その噂が、でたらめでも何でもないことが、町内に伝わると、今度はまじめにそのことを検討するものがあちこちであらわれ始めた。

 はじめは、まったく別の世界に住んでいる人たちのことかと思った。というのは、只同然の費用で南米に行けるというような話をしているのを、耳にはさんだからである。その時は、さして気にも留めなかったが、似たような話題が二度、三度と上がると、何か今までとは違った空気が、町を流れているように思われた。それは二つの異なった流れであった。ひとつは、浮き浮きとした祭りの宵のような熱気に包まれており、もう一つの空気は冷めた乾いた空気で、初秋の山を流れる冷気のような冷たさがあった。crystalrabbit

 

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