黄葉亭萬控帖

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黄葉亭萬控帖        

 

「何か事件かね」

 茶山先生が尋ねると、にっと笑って、芳さんは前かがみに出ていった。

 近ごろでは先生公認だから、遠慮はいらないはずだったが、それでも午前中から出ていくのは、気がひけるらしい。

 先程、小僧が使い走りの書き付けをもってきたときから、芳さんの表情が変わったのを茶山先生は見逃さなかった。事件が早く解決するのは、誰にとっても迷惑なことではない。それに、下働きの芳さんの力がからんでいるのだから、雇い主の茶山先生としては、悪い気はしない。

「いつでも、芳さんを必要とするときは、行って力になっておあげ。遠慮はいらないから」

 この前の桝水屋の偽金騒ぎが解決したときにも、茶山先生が芳さんの働きを誉めて言ったばかりである。しかし、今日はまだ、午前中の仕事が片付いていなかった。でも、小僧のもってきた書き付けを見てしばらくして、芳さんは身体の芯のほうからむずがゆくなるような熱気に耐えかねて、お願いしたのである。

「ちょっと、出かけて……

 と言いながら、まともに、茶山先生の目を見ることはできなかった。

 謎と聞くと、芳さんの血が騒ぐらしいということは茶山先生にもよくわかっていると見えて、敢えて反対はされない。

                                

「昼前から、呼び出して、申し訳ない。あとで先生にはおれのほうから、ことわりを言っておくから……

「へえ」

 庄屋の若旦那が、恐縮している。そんなことよりも、はやく事件のことが聞きたいのに、と思いながら芳さんは俯いている。

「大きなことにならなきゃあ、いいが」 若旦那の口は重い。「芳さん、この件は慎重に扱ってもらいたい。実は、昨夜、石上の旦那が殺された」

「へえ、棟梁が」

「殺された、と言っても、ちょっと見にやぁ、そんなかけらもないんだが」

「というと」

「いや、少し前から不穏な噂を耳にしていたから、裏に何かあると睨んでいるだけのことよ」

 若旦那は少し、間をおいて続けた。

「だから、内密にやろうと思うんだ。うちのものでは、素性が割れているから。芳さんに頼もうという腹さ」

 若旦那の言う不穏な噂というのは、次のようなものだった。

 川端の柳の陰で昼寝をしていた男が、それに気付かずひそひそ話をしながら通りすぎた男たちの会話を耳にしたという。

 何でも、秘密を保つためにはしかたがない、とか、知っているのは棟梁だけ……と言うのが聞こえたらしい。

 残念なことに、話の裏に何かよからぬことがありそうだと、内々に報せにきたものの、風に声がさえぎられたためと、何分うつらうつらとしていたときだということで、話の中身はそれだけしか聞かなかったということらしい。しかし、その話しぶりから、悪事を企む者らの会話であるということは、ひしひしと感じたそうで、そのことには相当の自信があると言うことだ。

 

 とは言え、夢うつつに聞いたよなものだから、この話を聞いても、結びつくような話はなかったので、そのまま忘れてしまっていたという。ところが、先日、石上の棟梁が亡くなったと聞いて、ぱっとそのときのことを思い出したという。棟梁は何人もいるから、ひとりひとり当たるほどのことはないと思ったていたが、いつもは壮健な石上さんが急死したというから、はっとした次第だよ。

 裏の木立が小波のように風にゆれている。この前まで暑かったと思ったのに、いよいよ秋になった。時折どこからともなく風が吹く。かすかに庭の葵の葉が揺れた。

 石上さんの仕事を聞いてみると,春先に川北の百姓屋の普請を一件請け負った他は,昨秋から、東西屋の改装をやっていたらしい。

 えっ、東西屋ですか。またか……、と芳さんは思った。

 芳さんの反応に若旦那のほうも満足したらしい。やはりこの男は頼りになる、と思った。

 庄屋の若旦那が話さなくても、この利発な若者はすでに東西屋のよからぬ噂のことは承知のことらしい。噂といっても庶民の間に流布されるというものではなく、一部の情報通の間を静に流れている地下水のような、見えない話なのである。

「しかし、これといった証拠があるわけではなし……

「だから、こんな時間に来てもらったんだよ。茶山先生は快く出してくれただろうか。心配だね」

「それは、まあ、一大事とあらば先生もお認め下さいましょう。それにその後の働きのほうが重要です」

「ははは、よくわかっておるわ」

 芳さんも、この若旦那の前では安心して何もかも話したくなると思った。

 

 芳さんがこの件に本格的にかかわるようになってから四日が過ぎた。芳さんが若旦那のところを訪ねた。

「たいしたことではありませんが、どうも妙です。もっと調べてみたいと思います。しかし、なかなか尻尾らしきものも見えぬ状況で・・・」

 歯切れの悪い報告である。それだけ今回の仕事が難しいとも言えた。若旦那の心にも、芳さんがしてくれるからいいようなもので、他のものではまったく埒があくまいと思っている。crystalrabbit