水軍遊び

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水軍遊び

 

 海。

 しかし、一面の霧である。

 朝日が霧の向こうに大きな円形の輪郭を見せている。影絵のようにその形だけが、くっきりと浮かんでいる。

 春はまだ浅く、早朝の瀬戸内はやや肌寒い。しかし、海水の温度は暖かく、夜間に水蒸気となって海上に舞い上がる。その水蒸気が、夜明けの冷気で、凝まって霧となる。

 春霞と混じって、日があがっても、海上では靄が立ち篭めて、いつまでも視界を遮っている。

 風に霧が流れる。霧は海原を滑るようにすすみ、霧の切れ間から海面が揺れるのが見える。

 エイホー、エイホー。エイホー、エイホー……

 低く垂れ篭めた朝靄のなかから、勇壮なそして若々しさの残った掛け声が海面を滑るように聞こえてくる。

 しかし、押しては引き戻す波の音や潮騒のどよめきに消されて、まだ充分には聞き取れない。潮騒は遠くで生じて、うねるように聞こえてくるものもあれば、近くの淵に波が逆巻いて生じたものもあった。かてて加えて、砂浜に打ち寄せた波の砕ける音も混ざっていた。

 次第に大きくなる掛け声に混じって櫓を漕ぐ音が規則正しく聞こえる。その櫓の軋む音の中を老練なる者が聞けばすぐに、この櫓を漕ぐものが、年端もいかぬ若者であということがわかるほど、拙劣なものだった。しかし、その音には力強さが顕れており、将来を期待させるのに充分であった。

 

 海面の一部は風で朝霧が払われ、朝日に反射して銀色の光を投げる。その光は、波の律動にあわせて小刻みに震えていた。それはあたかも波がゆらゆらと踊っているように見えた。

 潮風にのって霧が流れる。

 依然として、濃い霧である。

 この時期は、毎日のように、朝になると靄が海上を蔽う。彼方の島影の山上にもうっすらと棚引いて、朝の日を弱めている。

 エイホー、エイホー……という掛け声は次第に大きくなる。櫓を漕ぐ音も同様に大きくなる。

 霧が静かに流れた。やがて霧の切れ間から海面が見える。

 エイホー、エイホー……

「それっー、突撃!」

 ひときわ勇ましい声が海上に響いた。

「ワァー、ワァー……

 数人の歓声が呼応した。

 しかし、戦にしては、これらの声は張りがあり、艶があった。それになによりも、泰平の世の雰囲気が横溢していた。そして若々しかった。すなわち、子供の声に違いない。

 風は無く、海はおだやかである。それでも押し寄せる小波(さざなみ)が幾重にも重なり速度を増した波動が岸辺にぶつかると、しぶきとなって白く散った。

 二艚の小舟が勢いよく岸辺に着いた。岸辺には大小の岩場の間にひらけたところがあって、卵のような大きさの石が潮に濡れて黒く光っていた。乾いた小石は灰色で鈍く太陽を反射していた。

 一艚には小さな竹竿に布切れが幟さながらに結わえられ、潮風に旗めいている。布切れは黄色に変色して、ところどころ薄くなっていまにも破れそうである。切り口は糸がほつれている。よく見ると稚拙な字で「八幡大菩薩」と書かれている。

 

 その時、「八幡大菩薩」の文字がおりからの晴れ間を洩れた朝日に当たって、くっきりと浮かび上がった。

 

 着物の帯か代わりに藁縄を巻き、そこに木切れで作った大小を佩いている。菊丸という。髪は黒い。太くて直立している。幼さの残った顔は、日に焼けて黒く光っている。その中でやや窪んだ双の眼が爛々と輝いている。口は斜めに開き、赤い舌が唾液で光った。背は高く、大人に近い。船遊びが大好きで、今日も同じ年格好の悪童たちを集めて舟乗りの稽古をしている。

 ・・・突然の驟雨である。馬の背を分けるように、そこだけが濡れていた。そして、その後、突風が左右から舞った。

「みなのもの、雨にひるむな! 行け、進め。行け、進め」

 菊丸は声を限りに叫んだ。

「おおぅー、続け! 殿に続け!」

 三吉が雨に濡れた目をしばたたきながら叫んだ。

「おおぅ、おおぅ」

 他のものたちが和して、続いた。海岸を走り、小雨にぬれた坂道を境内のほうへあがって行った。

 子どももいつしか大人になる。海は大人を待っていた。彼らが活躍する時代はすぐそこまできていた。crystalrabbit

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