ダバオへ

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ダバオへ    

 

 一九〇五(明治三十八年) マニラ

 マニラの街は雨季特有の大粒の雨に煙っていた。肌に染みつくような湿気には、十分慣れているとはいえ、決して気持ちのよいものではなかった。いや、湿気以上に、くしゃくしゃした気分が余計に気持ちを滅入らせる。それに追い打ちをかけるように、雨が降り、雨音が耳を打つ。泣きっ面に蜂というのは、まさにこのことである。そしてそれは自分一人だけのことではなかった。

 もともと気性の激しい者らの集まりであったから、些細なことでも、大声が上がる。それが、今日はいつもより頻繁に起こっているようだ。昨日までの、沈滞した雰囲気が変わっただけはましだが、しかし、その威勢が、どこか空々しいのは仕方がなかった。その理由を、みんな知っていたが誰も口に出して言わない。口に出しても埒があかないから、誰もそのことを指摘しようとしはしない。言えば、地獄である。言えば惨めになる。なぜならば、彼らにとって、明日という日はないのだから。

 

 マニラの煤けた宿屋で、無為に時間を過ごす男達にも、否が応でも自分の立場というものを理解せざるを得ない日が迫っていた。

 道路工事は終わった。その後の職はない。職がないということは食がないということである。このままマニラの宿屋で無為に時を送っても、問題は何一つとして解決しないことは明白だった。

 日本人が、麻畑で働かないか、と言って人を集めているらしい。

 結城佐久五郎がこの話を聞いたのは、今回で二度目である。では、噂はやはり本当か?

「麻畑か」と、小さく吐息のような声が洩れた。

 道路工事が終わって、全員が解雇されたとき、男達の反応は大きく二つに分かれた。とはいえ、双方とも、身体を張ってした仕事の報酬がたったこれっぽっちかという落胆は共通だった。それでも、命があってよかった。今日まで生き残れて、わずかばかりだが、給金までもらって一息ついた、と思ったものもいた。

 コン畜生。バカめ。二度と同じ手は喰わされねえぞ。うまい話があると言っても、今度はそれに安易に乗っかかったりしないぞ。こう、周囲の者に言い触れている者がいる。まったく同感だ。

 確か、今回の道路工事も、最初の一言は、いい仕事があるから、というものだった。それに日当だって、はるかにいいというものだった。確かに、日当に関しては嘘はなかった。しかし、それは死と隣あわせのものだった。

 だから、途中から去って、マニラまで帰ったという話をよく聞いた。帰ればまた別の一団がやってくるのだとも言う。

 

 麻畑で働かないかと、言っている男の名前が、オオタだということが、噂に上がった。オオタという人はいい人だ、という者もいるが、大部分の者は信じない。山師だ、口入れやだ、と罵る。儂らのように何もわからんものを甘言で寄せ集め、安い賃金で働かせて、自分はちゃっかりピンハネを稼ぐ。この手の連中は皆似たり寄ったりだ、と思っている者は多い。

 ここは南方だ。南方には、いい人なんかいない。どうせひと癖もふた癖もある男ばかりだ、とみんな思っている。そう信じてきた。そう信じることが、命を少しでも長びかせることだった。

 

 雨期にしては珍しくすがすがしい青空がのぞいていた。その噂のオオタが来たのだ。

 オオタは言った。

「残ってどうなる。アメリカは、もう仕事をくれない。軍の仕事はない。ここにいても、のたれ死にするだけだ。乞食もできん」

 オオタの言っていることはもっともだ。言っていることに、反論できるものは誰もいない。でも、もっともなことを言うからと言って、信じちゃいけねぇ。甘い言葉には罠がある。きっと罠がある。

 幾日にも続く熱帯の雨に、みんなうんざりしていた。安宿の戸なんて、戸の役目などありはしない。外と同じように黴臭い湿った空気は、容赦なく労働者の身体にまとわりつく。

 そんな毎日から、逃れられるという夢だけでも見たい、という気持ちがあった。

 それに、オオタのおかげで随分と助かったこともある。この男のことが最初に話題になったのは、食い物がいくらかマシになった頃のことだ。アメリカが日本人を雇った。日本人の出入りの業者が、味噌や醤油を内地から取り寄せたのだ、そういう噂でもちきりだった。それが、オオタという男だということも、どこからともなく伝わってきた。それでオオタがいくら儲けたのか、自分は知らない。しかし、そのころから食い物が少しはマシになったのは確かだ。

「ダバオへ行こう。ダバオなら何とかなるかもしれん」

「仕事があるわけじゃないんだ?」

「少しはある。後は自分で見つける。俺はここにいるよりは、ダバオのほうがいいと思う」

「確かか?」

「確かだ」

「どれくらい、確かか?」

「それは、みんな次第だ」

 この若造が何をぬかしやがる、と思っているものも多い。自分も確かにそう思っていた面があった。しかし、この男は悪いヤツじゃない、と思った。そのときの青空が、オオタという男の心と重なった見えた。

 

 指定された日に船に乗ることになった。湊に向かって歩きだした。荷物とてあるわけではない。その時になって決めたものも何人もいた。

 相変わらず、オオタは山師だと言っているものがいた。

「山師なら、付いてこなけりゃいいじゃないか」

「いや、そういう訳にはいかねえ。ここにいるわけにはいかねえからな。オオタのことはちっとも信じちゃいねえが、付いていくしかないのさ」

 思いはみんなそれぞれに異なっていたに違いない。それなのに、行動は同じというのは、どこか滑稽でもあった。しかし、祖国を離れた身には、滑稽もへったくれも無かった、というのが正直な感想だった。crystalrabbit