レストランうたせ船

crystalrabbit

レストランうたせ船

 

「そこのレストランに入って」

「うたせ船だね」

 小山から続いて下降してきた緑の尾根は、道路に面した断崖で切れ、その道路の海側にレストランがある。朝、田島屋ホテルを出てまもなく目に入ったので、よく覚えている。敷地が広い。少し高くなっていて、入り口へ両側から階段がついている。その背後に漁網とマストがあっていかにも観光客が好みそうな飾りである。ちょうど集落の端に当たるのか、周囲には家はなく、西の道路の先に家並みが隠見されるだけである。

「脇見注意! あぶない、あぶない!」

 千恵が首を回してみると、ホースとブラシを持った若者がオートバイを洗っていた。ポリバケツの青い色が空の青さに少し勝っている。しかし、見事な初夏の青空だ。水に濡れたステンの泥よけが空を写している。水滴が光を散乱させる。前輪のカバーにマスコットのシールが密かに貼られているのが奥ゆかしい。若者のスポーツ刈りの額に汗が光っている。

「どこでもいいですよ」

 レストランうたせ船と描いた大きな看板の下から若者が近寄ってきた。小野寺がどこにとめようかと逡巡していたので、ホースを投げ出して近寄ってきたのである。ゴム手袋をしたまま、階段の下に近いところを指した。

 四時過ぎだ。田島屋ホテルに帰るには、時間がありすぎる。

 窓側の席に着いた。窓の下は海である。潮は引いていて、窓の下には護岸ブロックが乱雑に置かれている。その先には、海藻の付着した岩がまばらにあって、波に洗われて鮮やかな緑の藻が優雅に揺れた。流れはほとんどない。

「コーヒーでいいか。夕食までもちそうにないけど」

「うん。今食べると、中途半端」

「夕刊、どうぞ」

 ウエイターをやっているおばさんがコップを真鍮の盆に載せて立っていた。家族以外の者を雇うほど繁盛していそうにないから、多分主人の奥さんだろう。夕刊を差し出した。誰もまだ見ていないのか、真新しいのが清潔そうで気持ちよかった。調度は古ぼけている。周囲の雰囲気が相応の経年変化を示しているのと対照的に、夕刊が新しいのが、おかしかった。

 おばさんは、水の入ったコップと夕刊を置いて、奥のほうへ下がった。

「僕たちのことも書かれてる。第一発見者の東京の大学院生、括弧年齢括弧らから、事情を聞いている。大学院生らは、福山市内海町(うつみちょう)の郷土史の研究をしており、休日を利用して・・・」

「ちょっと」

と、言って千恵がのぞき込んだ。少し読んで、千恵が口を曲げた。

「こんないい加減な記事書くなんて、なかなか勇敢ね」

「雉も鳴かずば、撃たれまい、さ」

郷土史じゃないよ、それを言うなら地方史よね。郷土史と地方史はその地の人から見れば同じかも。でも研究してる人から見ればまったく反対。そのへんのところが地方紙の記者にはわかってない」

「そうだね」

「ここは広島県内海町。私の故郷じゃないわ」

「うん」

「敢えて言えば、単なる旅人というべきか・・・。とかく、故郷とか郷土とかいうのは曖昧なところがあるから難しいのよ。例えば故郷というのは他所に移住した人が使う言葉で、旅行中の人が自分の住んでいるところに対して使う言葉ではないと言ったのは宣長さんでしょう。まして、私などこちらの人間でもないのだから、郷土史なんかじゃないわ」

「ポニーテールの根元の・・・?」

「そう。いや、あれはモトドリ。私が言ってるのはモトオリ」

「元折りを切って、出家するとか・・・」

「違うよ。もとどりを切って出家する、と言うのよ」

「それに、私の調べてるのはマニラへの漁業移民よ。何で郷土史に変わるの?」

「さあ?」

「新聞記者にとっては同じことなのかも知れないよ。それとも警察がそう発表したのかもしれない。」

「そんなものかな」

「ところで、これじゃあ、まるで僕たちが容疑者扱いじゃないか。」

「だいじょうぶよ。刑事さんも死体の位置が変わって最初の状態がわからないので、何度も尋ねるかもしれないが、私たちを疑っているわけじゃあないと言ってたでしょ」

「ミッドナイトイクスプレスになったらどうするんだ?」

オールナイトニッポン。徹夜するしかないじゃない。真夜中は別の顔よ」

「たった少しの阿片で、何十年もトルコから出してもらえないんだぞ」

「飛んでイスタンブールよ。だったら何故、彼女が心配だからもうしばらくこちらにいます、なんて言ったの。警察が怖かったら、授業がありますとか言ってさっさと帰ればよかったのよ」

「千恵があまりに、沈んでいたから・・・」

「まあね。あの時は。あー、いやっ。思い出したくないわ。記憶喪失になりそう」

「なれば。記憶が戻ってみれば、たちまち白髪の浦島花子」

「だめよ。ここは丹後半島じゃあないんだから」

「花よりタンゴ」

「南米にも行ってみたいね」

「あっ、紫外線強いからね。よく焼けるよ」

 千恵は腕を見ながら、驚いたように言った。

UVカット、ナノ粒子含んでるんだろう。皮膚から入っていたずらしないのかな」

ミクロの決死圏、やってみたいね」

「抗体に襲われるの嫌だな」

 ・・・・crystalrabbit