柿沼

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柿沼 

 

 この古代史学者-というのは、あまり正確ではないが、さしあたってこのように呼んでおくことにしよう-は、いかにも年代ものといった古風な、小さな家の大半を自分の書斎として使っていた。その書斎は、一段低くなった床が松の板の間になり、南側に観音開きの窓がある他は、他はすべて木の壁でできていた。その壁は見事な節のない桧でできていたが、大部分が書棚で、今では降り積もった根雪のように覆われた書物で、その木目を伺うことは難しかった。南側の窓からは庭の縁に植えてあるしのぶひばが、影を作って、午後の日が弱く室内に差し込んでいた。しのぶひばは、枝の先が枯れたように変色していたが、春の日に当たって黄金色に輝いていた。

 山は緑に萌えていた。丘のいたるところに芽吹いた春の草があった。熊笹の若い葉が、通過した風の真似をするように静かに揺れている。赤茶色の土壁をむきだしにした、倉庫が松林の切れた断崖の果てに、見捨てられたようにたっている。黒い道が曲がりくねって、轍の跡を留めている。時折鳴く山鳥の声が、古寺の甍を越えて、中国山地のかなたこなたにこだまするよう響くのが、長閑かさとともに不思議な妖しさを作る。アスファルトとコンクリートのビルでできた都会から来た青年には、こういう雰囲気に陶酔するとともに心のごく奥深いところで、拒否しようとする気持ちがあるのを感じないではいられない。しかし、今は後者の気持ちを押さえて、この環境にどっぷりつかりたいと氷室功は思った。氷室は窓から見えるしのぶひばや、さらにその向こうに広がる針葉樹の林にも、都会人特有のセンチメタリズムを感じた。そしてさらに、魅惑的な思いにとらえられるのは、この山の中の村に歴史というものが、過去の遺物でははなく今も連綿と生き続けているという憧れにも似た信念だった。

 教室で習う歴史というのは、埃だらけの古い紙片から消えかかった文字を介して想像する世界だった。それはひとたび目をあげて、ごついアルミに縁取られた窓から白いコンクリートの隣の棟を眺めれば、一瞬に消え去ってしまう、陽炎のようなものだった。ビルが、線路が、自動車が反射する光は明るすぎた。知識から感覚へという、たえまない訓練を瞬時にして無の闇へと破壊する、殺人光線だった。それにひきかえ、この土地の日の光の何と柔らかいことであろうか。これなら、歴史というものが、まっすぐに身体の中まで沁み込んで来る。満月の夜、雨が降ると墓が踊るという伝説さえも、その精神の最も深いところで、歴史と繋がっているような気持ちすらするのだった。そして、その歴史というのは近代のフィルターを通しての歴史ではあるが。

 だが、この中国山地の土地は思った以上に古いのだ。磐井の乱大化の改新の頃と同じだとは言わないまでも、古代さながらの谷川を古代さながらの石清水が流れ、朝夕に響く寺院の鐘の音も、はるか昔の鐘の音だった。夜の闇を魑魅魍魎が跋扈すると言っても、信じないほうが異常と思われるほどの霊気に満ちている。

 氷室功が、目をあげると、この部屋の主は静かに広がりながら上昇する煙の輪を眺めながら、楽しそうに口元を小刻みに動かした。日下部博士の左手に握られたパイプがかすかに入る弱い日を反射する。和ニスのような光沢を放つ桜の木の色艶が、それを嗜んだ歳月の長さを語るかのように、柔らかい手の中で揺れた。

 一昔前の小説なら、このような書斎も珍しくはあるまいが、今時の若い者は、だいいち書斎という言葉自体に抱くイメージに確たる自信を持ち得まいから、最近の小説には多分無縁だと思ったが、自分の祖父の代の青年の読む本には、よくある大道具ではなかっただろうか、と氷室は思いつつ、薄暗い書斎と博士の手の中のパイプを眺めた。煙の消えていく向こうには、もうすっかりこの部屋の一部と化した書物が大きさごとに整理されて、いかにも日下部博士の篤実な学風が偲ばれた。

 日下部博士は大きな体を揺すりながら、パイプにタバコをつめていた。互い違いにはめた天井の板の間が明かり取りになっていて、そこから入ってくる光が博士の頭部にソフトなスポットライトを当てていた。半分白髪に覆われた黒髪は、長くふさふさと首の後部まで達していた。顔はどちらかというと大きいほうで、日に焼けて艶々と輝いていた。仕事柄、書斎に閉じこもっているのだと、だれしも思うに違いないが、さにあらずで、けっこう戸外に出ているらしい。顎はがっしりととして、二重になっていた。眼鏡は大きな顔にあわせたのか、飴色の太い縁がくっきりと鋭い眼のまわりを取り囲んでいた。眼は、顔が大きいから小さく見えるが、事実小さかった。しかし、その光は強く、鋭かった。しかし、それは時おり見せる仕草から伺えることで、消えかけた煙の輪を追う眼は、蒼く澄んで、柔らかかった。そしてまた、あのおどけたような表情のときの眼。三人の別人のような表情を一日のうちにころころと変えていくさまは、氷室功にとっては驚きだった。

「日下部にはもう三年も会っていないが、今でもその仕事は一級品だよ。ぜひ、君も一度訪ねておくのがいい」と、指導教官の友岡教授が氷室に言った。「いや、そんなことはどうでもいい。とにかくいい男なんだ。僕とは大学に入った年からの親友でね。それぞれ、まったく別のところで育った人間が、同じ学科に同じ年に入学したということだけで、かくも親密な関係をその後送るとということは、やはり、人生の出会いというものの不思議さを思わないではいられないね。それ以来、僕らは勉強するときも一緒だし、もちろん遊ぶときもよく一緒だったな。それぞれが研究者の道を選んでからも、不思議と衝突することもなく、二人とも、学会から早くから認められるような仕事をしていた。それが、ここの大学の教授の席があいたとき、日下部は、それを俺に譲って、さっさと中国山地ぞいの田舎に帰ってしまった。恩を売るつもりなど、いっさいないさ、親父の土地があるものだから、ぜいたくな生活を選んだだけだ、と屈託なく言ったものだ。彼に二枚舌がないということは俺が一番よく知っている。自然の中で、ほんとうにしたいことだけをしている幸福な男さ。だからと言って、学問的に甘いところがあるわけではなし、こちらにいたとき以上に該博な知識をさらに該博にしてますます健啖と言ったところかな」

 友岡教授の言うことに、嘘はなかった。いやそれ以上に、日下部博士というのは不思議な人物で、初対面ながら五分とたたないうちに、相手の心をなごませる力を備えていた。しかし、それとて相手に妥協するとか、媚び諂うというのではなく、毅然とした態度で終始一貫しながら、それでいて相手に数十年来の知己であるかのような錯覚を抱かせるほどの親密感を抱かせた。氷室功はすぐに日下部博士が好きになり、知らず知らずのうちに自らの胸襟を一杯に開いていた。もちろんこれには、出発前に日下部博士からもらった手紙のせいもある。友岡教授は、氷室のことで博士に手紙を書いてくれたのだ。その返事は、まるで小学生のうちでもあまり上手でない子供が書いたような素朴な悪筆で、躍動しすぎた文字に多いに楽しまされた。これがかの碩学とも呼んでもいいような人物のしたためたものかと思うと、相手は怪物でも何でもなくて、そんじょそこらの市民と同じであるという印象を腹の底から持った。そして角っこにちまちました字で、博士の住んでいるところの周辺に材を取ったとおぼしき、素朴な詩が綴られていた。これも、毎日乾いたアスファルトとコンクリートでできた都市にもう何年も生活している氷室の気持ちを多いにくつろがせたものである。

 さらに氷室は柿沼に着かないうちに日下部博士に会っているのである。列車の中で偶然にも博士と会っていたのである。

 中国山地の端に位置する柿沼に行くには、岡山からローカル線に揺らて、小一時間は単調な景色に我慢する必要があった。しかし、幸い氷室は、日下部博士のおかげで、そのような思いを味あわずにすんだ。      

 薄曇りの上に夕刻が近付いたせいか、ローカル線に乗る氷室の気持ちは決してはずんだものではなかった。急ぎ足に、乗り換え列車へと向かう人らとは対照に、しだいに塞いでいく気持ちはどうしょうもなかった。他のホームが乗り換え客や、帰宅途中のサラリーマんでごった返しているのに、自分の立つホームだけが閑散としていた。

 柿沼は、岡山県の県庁所在地である岡山市からあまり遠くはなれていない小さな町である。岡山県は中国地方の中部に位置し気候温暖な地帯である。県北は中国山地を形成する山岳地帯だが、南部は瀬戸内海に面し、幾代にもわたって行なわれた干拓地が、広い平野を形成している。京都からは山陽新幹線を利用すれば二時間もかからないうちに岡山市に達する。あるいは、国道二号線に平行して走る高速自動車道を利用するのも便利だった。

 柿沼町の町はずれの高台には「柿沼監獄」があって、異様な姿をさらしている。その姿は町の中からはどこからでも見えるし、また隣町の渋沢からも見えた。

 この地はもともと沼地で、今監獄のある高台だけが小さな島のような浮いていた。当初はこの島に監獄が作られたのであったが、時代とともに埋め立てられて、今は平野となり、町になったのである。当局では、はじめ埋め立てることにより、囚人の脱走がより容易になる、との理由で反対するものが多かったのだが、科学技術の発達で、囚人監視も容易になったので、周囲の沼を埋め立てることによって、むしろ監獄の管理は容易になるという意見もあり、地元自治体の同意も得られたので埋め立てられた。しかし、ここは低地で、年中湿気を帯びており、あまつさえ天候の関係で不快な匂いが時折していた。

 この高台に「隠れ家」と呼ばれている古い建物がある。これは昔罪人を拷問した場所で、あまりにもその拷問の苛烈さに多くの囚人が命を失った。今はここは処刑場となっている。crystalrabbit