マリア昇天

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マリア昇天

 

 夕凪亭主人の北田才太郎は、55才の時勤めていた会社を辞め、瀬戸内海の山荘で半農半漁の悠々自適の生活を送っている。その山荘を夕凪亭という。山荘といっても、特別のものではなかった。海の見える山懐にある、いわば隠れ家だった。本宅は麓にあるのだが、今では、寝泊まりまでこちらでしているから、どちらが本宅かわからない。

 夕凪亭は、北田家の山畑に建っている。雨の少ないところだから、除虫菊と薩摩芋くらいしか作りようのない猫の額ほどの痩せ地である上に、農道からも遠く、父が年をとってからは耕作が放棄されていたところだ。

 ところが何年か前に、観光道路が山肌を削って造られた。ちょうどその痩せ畑に隣接する山林がこの道路の用地にかかり、買い上げられた。山林はこの観光道路によって分断されたが、この痩せ畑へのアプローチは格段によくなった。

 こういう事情であるから、ここに小屋を建てて農具を置き、野菜作りを始めた。幸い、水道も敷設されており、昔のように除虫菊と薩摩芋に限定する必用はなくなった。好きなときに灌水することができた。農薬も化学肥料も簡単に運べた。

 こうして、新たに農業を初めてみると、昔のことが改めて思い出された。あの頃は同級生のほとんどが農家であった。あるいは、父親が造船関係の工場に勤めていても、畑や田圃があって祖父母か母が農業をしていた。・・あれから半世紀、すべてが変わった。仕事も変わったし、生活も変わった。目の前にプラスチック製品が溢れている。それにアルミニウムも。燃料もガスや電気に変わった。そうして膨大な耕作放棄地。今更、昔の生活に戻るわけにはいかない。それでも、毎日わずかの時間でも土に触れていると人類の歴史の大部分はこうして、食糧を獲得するのに費やされたのだということが、改めて思われるのであった。

 はじめは農具置き場の倉庫のようなものだったが、次第に増築していって、今では倉庫と言うよりも住居に近い。住居といっても内装がそうなっただけで、外観は山小屋風で海の見える自然とうまくマッチしていた。住んでいるとおのずから身の回りの品々は揃うもので、はじめのうちは不自由していたが、今ではまったく問題はなかった。

 ここからの瀬戸内海の眺望は抜群で、青い海に浮かぶ小島と麓の家々がまるで箱庭のように俯瞰できた。野鳥の鳴き声に混ざって教会から、鐘の音が聞こえることもあった。風向きによっては聞こえる遠くの工場の音も、生活の息吹のように感じられる。港に寄る巡航船の汽笛やエンジンを吹かす音は定期的に聞こえるが、潮の干満によって間が異なる。

 この頃では、小学校時代の同級生らの知人が訪ねたり、元の職場の同僚やら、あるいは大学時代の学友が泊まりに来たりする。

 その日も、夕食を支度をしようと思いながら、黄昏ていく島影を眺めていると、常連の作次郎がやってきた。作次郎は小学校時代の同級生で、今もこの町に住んでいる。家業の酒屋と弁当屋のほうは、ほとんど細君と息子に任せて、自分は週に二日ほどタクシーの運転手をしている。根っからの車好きで、アルバイトというよりも趣味のようなものだ。

メバルが上がったので・・・」こう言いながら、作次郎が入ってきた。

「それは、ありがたい。今の季節はやはり煮付けかな」

「そうしようと思う」

 こういうと早速料理にかかった。

 こうして、作次郎は夕凪亭をあたかも自分の家でもあるかのごとくに、自由に使って三十分後には、料理されたメバル白磁の皿に盛りつけられて食卓にでてきた。

 日没後からかなり時間が経って、眼下に見える瀬戸内もすっかり日暮れて島影が黒く浮かび上がっていた。

 ワインは10年ほど前のイタリア産で、これも作次郎が以前に持ってきてそのままにしてあったのものだ。甘さがメバルのほうに負けているのが、かえって舌にここちよかった。

 皿の隅で鮮やかな彩りを添えている絹莢は、冷蔵庫にはなかったはずだから、これも作次郎が持ってきたのであろう。

 その夜の会話は深夜まで続いた。その時の話題の一つは以下のようなものだった。

 

「あの時の気持ちはちょっと言葉では言い表せないね」

 こう作次郎は切り出した。

「あれは、夏前の頃だろうか。ちょうど家の隣に広がる田圃の緑が規則正しく揺れて、静かに風にそよいでいたからね。緑の稲はそろって元気よく成長して、これから稲穂が膨らむという頃だった。

 今でも記憶に焼き付いているよ。

 昔の火葬場に行ったことがあるかい。今はどこも近代的で火葬場というイメージから遠いが、昔のは釜も煙も見えて、まさに生者と死者を引き裂くような、はかなさが漂っていたよね。今でも不思議に思うのは、人を焼くときに緑の炎が出るものかしら。あれは、同じ町に住む従姉が亡くなったときのことだよ。あの頃はまだ市の葬祭場ができていなかったから地域の火葬場を使っていた。旧式のものだったのだろうが耐火煉瓦でできていて、周囲に薪をくべる口があってね。最後のお別れに一人一人が薪を一本ずつ入れるんだ。僕は子どもだから最後のほうだった。僕が入れ終わった頃にはかなり炎が大きくなって、焚き口のほうまで溢れていた。だんだんと独特の臭いが出だしたのだろうね、みんな足早に遠ざかった。僕もその流れに従った。戸口のところで最後に振り返ったとき、確か緑色の炎が見えたんだ。あの時のことは永く記憶に残ったね」

「そりゃあ珍しい」

「三つ年上の従姉でね。なぜか分からない突然の死でね。

 もともと身体は強いほうではなかったから、急性心臓発作ということで、問題にはならなかったが、今日日なら司法解剖ということになるのだろうね」

「君、それは自殺だよ」 才太郎がひょいと言った。

「何で自殺だってわかるんだ?」 作次郎はびっくりするほど大きな声をだした。

「ははあ、君にもやはり心当たりがあったのだね。図星だね」

「知ってたのかい」

「いや、知らないよ。君の従姉といっても誰のことかわからないよ。ところで君はどう思うのかね」

「一瞬自殺かなとは思ったことはあったが、誰からもそう聞いたことはないし、その後思ったこともないぜ。それをいきなり言うんだから、驚くよ。何を知ってるんだい?」

「何も知らないよ。そう思っただけだよ」

「何も知らなくて、そういう直観が働くということは・・・。今、それを聞いて長い間心にひっかかっていたものが、納得したような気持ちになった。そうさ、自殺に違いない。自殺だったに違いない。明日、おばさんに聞いてみよう。もう何年も経っているから、本当のことを話してくれるだろう」

「それではね、形見の品か愛用してたものをお棺の中に入れたかも尋ねてみてよ」

「?」

「・・・」

「自殺と何の関係があるの?」

「おばさんの返答次第だろうね」

「何のことかわからないけど、聞いてくるよ」

 

 翌日も夕方作次郎はやってきた。

「お前の言うとおりだった。おばさんが話してくれたよ。それにしても、どういう推理か話してくれよ」

「ああ、それじゃ話そう。でも晩飯を食ってからにしようよ」

「そりゃ、そうだな。でも今夜は仕事だ。遅くならないうちに退散するよ。酒代わりに名探偵になってもらおう」

「探偵でも何でもないがね。まあ、食事のときに・・さて、今夜は何がいいかね」

「ハムとキャベツでどうだね」

「いいよ。飯は残りがある」

「それじゃあ、すぐできる」

 こう言って、作次郎は冷蔵庫を開けた。

 

「俺は飲まないけど、ビールか何か飲むかい?」

「いや、今日はアルコール無しだ。今はね」

「寝酒もいいね」

「深夜独酌さ。必ず眠くなる」

「そりゃ極楽だ」

「そのうち、そのまま目覚めなくなるかもな」

「それはそれで結構なことだよ」

「この世の宿題をすべて済ませておけばね」

「ああ」

 とりとめのない話をしながら、晩飯がテーブルの上に装われた。

「いただくよ。こうして作ってもらうと助かるよ」

「それじゃ、下界へ降りればいいだろう」

「晩飯はここに限るよ。人生至上悦楽だね」

 と、いって窓の外に目をやった。太陽が没したばかりだから、島影がまだ見える。白い明かりが、あちこちいに浮かんでいる。漁船だろうか。

「ぜいたくだよな」

「うん」

「そろそろ本題に入ろうよ。叔母さんも自殺だと認めたよ。一月ほどして遺書らしきものが出てきたそうだ。俺が知らないのによくわかったな」

「うん、まあ。それで、例のお棺に入れたものは?」

「ブロンズのロザリオ・・・」

「え? クリスチャンだったの」

「そんなことはない。我が家もあそこも曹洞宗だよ」

「そうだろうね」

「クリスチャンじゃないけど気にいってずっとつけてたそうだよ。保育園知ってるだろう」

「勿論。一年だけ行った。二年目は公立の幼稚園だ」

 その保育園はどの宗派かは知らないが、教会が経営していた。

「日曜学校とかでもらったらしい」

「懐かしい言葉だ。日曜学校があるとは聞いていたが、行くのは大抵が女の子で、男はいなかった」

「そうだ。クリスチャンの家の子はともかく仏教徒の子で行くのは女子に決まっていた」

「それをずっと愛用していたというわけか。ブロンズのね・・。見たことはないがそんなのもらったりしたのだろうか」

「そういう話は知らないね」

「保育園だものね。大昔さ」

「それが、何か関係あるのかね」

「これで完結さ。ループが閉じた」

「何のことやら。では、何故自殺だとわかった」

「緑色の炎さ」

「説明してくれよ」

「塩素系農薬だと思う」

「それがわかるのか?」

「塩素系農薬と銅があれば、燃やしたとき緑色になる。だから、銅でできた飾りか何かをもたせたのかと思ったよ。ブロンズのロザリオなら、ぴったりだ」

「信じられないな」

 夕凪亭主人は、黙って立ち上がると農機具庫から銅の針金をもってきた。

サランラップだ」こう言いながら戸棚から取り出した。

 少し切って銅線の先に巻いた。換気扇のスイッチを入れて、ガスレンジの前に行った。「よく見ててよ」

 こう言ってサランラップを炎の上にかざした。

「おお」

サランラップの代わりに塩素系農薬でも同じことだよ」

「銅じゃなくブロンズだぜ」

「ブロンズはメッキじゃない。表面に銅もむき出しだよ。同じことが起こる」

「わかった。塩素系農薬なら、どこの家にもあった。ではなぜ殺人事件でなく自殺なんだ」「ははは、こちらはもっと簡単だよ」

「というと」

「塩素系は弱いから殺人事件などには使わないよ」

「でも、死んだ」

「それとこれとは話が違う」

「というと?」

「死んだのは確かだ。それは量が極端に多いか、もともと身体が弱かったかのどちらかだろう。しかし、それは結果だ」

「それで」

「今度は毒を盛る側のことを考えてみればいい」

「そうか、確実性のないものは使わないということか」

「そうだ。弱い薬品を多量に使えばすぐにばれる。それでは毒殺の意味がない」

「彼女が身体の弱いことを知っていたとしたら?」

「だからと言って薬品の量がわかるというものではない。知っていても毒を盛る方は強いのを少量盛る。あの頃は強いのがいくらでもあったからね」

「ホリドールなんか凄かったね」

赤紙で旗を作って立てていた。中に入るな。川にも行くなと小学校で何度も注意があった。それでも、下流で事故があったというからね。怖い話だ」

「その怖い薬がそこらじゅうにあったというのだから、逆に言えば平和な世の中だったんだよ」

「鍵をかけない家が多かった」

「泥棒はどこからでも入れたが、でも、泥棒はいなかった」crystalrabbit

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