雪猫

crystalrabbit

雪猫

 

 山にはまだ雪が残っていた。弱いかげろうのような力のないお日さまが、窓ガラスから射し込んでいた。

 その日、一匹の白い猫が、灰色のペンキの剥げかかったブロック塀にピョンと飛びあがった。そして塀の内側の庭を充分に観察もしないで、無遠慮に飛び降りた。そのしぐさが、以前いたピョンという猫にあまりにもよく似ていたので、この猫がどこの家の猫かわからなかったが、初対面なのに愛着をもった。

 その猫は二日たっても、いっこうに立ち去ろうとしないので、これはピョンのときと同じように我が家に住みつくのだろうかと思った。翌日もその猫はどこにも行く気配がなかった。その確信はますます強くなった。そこで、この猫にも名前をつけてやらなければと思った。

 ブロック塀に飛び上がったしぐさから、ピョンという名前にしようと思った。

 しかし、ピョンというのは以前にいた、黒い猫の名前だった。その猫は黒猫ピョンということで、家族からも随分大切にされ、ピョンも家族の親愛の情を裏切ることなく、よく家族のものになついた。

 今度の猫は、そのピョンを思い出させた。しかし、毛の色はピョンとは真反対で、からだ一面がまっ白だった。だからピョンという名前は不似合いだと思った。

 しかし、これといっていい名前を思いつかないので、ヒョンということにした。

 ヒョンはすぐに家族の一員として溶けこみピョンと同じくらい、よくなついた。これは家族のものにも、ピョンの記憶が鮮明で、猫との接し方を心得ていたということが多いにあったのではないかと思うが、ヒョンの性格にもよるのではなかろうか、と思った。

 ヒョンはすぐに家族みんなから愛されるようになった。その中でも、やはり一番愛していたのは、私ではないかと思う。だから私が、こうしてその思い出を記しているのだ。

 ヒョンは白い、まるで雪と見紛うように白く美しい猫だった。からだ全体をおおう毛は真っ白で、夏でもそこだけは雪が積もっているように見えた。そのほかといえば、顔のまんなかに小さくついた目が緑色に光っているだけだった。それに、ときおり見せる足の裏は古い碁石のように黒くすり減っていた。

 ヒョンが我が家に現われたのは、春先の、ちょうど裏山の雪が消えかけた頃のことだった。

 庭の芝は寒い冬の間、地表の部分は枯れて地下のたくましい根っこだけで静かに春の到来を待っていた。よく見ると、紅茶色の茎と茎の隙間に、小さな芽が伸びてきていた。

 そこに静かに腹ばいになっているヒョン。春の訪れが、地上からと地下からと重なりあったかのように、純白の毛は春風にゆれて銀色に光っていた。

 淡い春の光の中で輝いていたヒョンは、仲春を過ぎたころから動作が緩慢になった。気候のせいだと思った私は、そのことに深く拘泥はしなかった。しかし、いつしかパンジーの花弁も褪せて、かなかなの鳴く声を耳にする頃になると、さらにヒョンの姿は頼りなげになった。ただ唯一の救いは、いかに懶そうに見えても、白い毛は始めてヒョンに会ったときのままで、いつも日の光を浴びると白銀に輝いていた。日影に入れば入ったで、その光は微妙な陰影をたたえ、いわばいぶし銀のような深みのある色に変った。

 何の予感だろうか。その頃、私は自分でも気づかぬような、不思議な気持ちをヒョンに抱いていた。そのことに私が気づいたのは秋口になってからのことであるが、今ふりかってみると、この頃から心の奥底で、私は不思議な予感を抱いていた。

 夏の暑い日の午後、私は納屋の土間に静かに座っているヒョンを見た。四本の足をきれいにそろえて、まるで雪で作った人形のように、姿勢よく座っていた。

 どことなく元気がない。何分かのち、もう一度そこへ戻ってきたときにはヒョンはいなかった。セメントのひんやりした土間のちょうどヒョンがいたあたりに、小さな水たまりができていた。一見、尿の痕のように見える。しかし、私はヒョンがけっして人に見られるようなところで、小用をしないことを知っていたので、不思議な気がした。あるいは、体調を崩したのではなかろうか、と思ったりした。  

 脛をつき、両手をついて鼻を近づけた。セメントの湿ったにおいがするだけである。指の先につけて舐めてみた。塩気さえもなかった。

 ……やがて、季節はめぐって、家のまわりに雪が覆った。昼の日が白い雪に反射してまばゆい中をヒョンは、静かに山に向って歩いていた。その夜、ヒョンは帰ってこなかった。翌日も同じだった。  

 雪がたわわに積もって、枝が弓なりになった常緑樹の葉が小さく見える。白銀の中の淡い緑が目にやさしい。その緑の中にヒョンの目があるように、いつも思う。      

 そして、春になったらブロック塀を越えて戻ってくることを、私は今でも信じている。crystalrabbit