再会

crystalrabbit

再会

 

 河辺が大学に入ったとき由里子は大学三年だった。由里子は高校の時の文芸部の先輩だった。小さな県立高校に入学して一週間後にあったクラブ紹介のとき、ふと立ち止まった河辺に声をかけたのが由里子だった。

 河辺は中学校二年の頃から詩や小説を書いていたが、それはあくまでも個人的なもので、クラブに入って活動したり、あるいは書いたものを印刷したりするということは、考えたこともなかった。だから高校に入って、文芸部というものがあり、またガリ版刷りながらも文集を出しているということを知って、新鮮に思った。そのせいか文集が重ねられた机の前にきたとき、足がひとりでに止まった。

 誰もいないと思ったのに、女子生徒が近寄って声をかけた。

 文芸部よ。興味があったら一冊どうぞ。活動は火曜日と木曜日。部室わかる? 中校舎の北側のプレハブよ。ぜひ、いらっしゃいよ。

 美しいイントネーションが印象的だった。

 それから十日ほど経った。河辺は通学時間が自転車で四十分もかかっていたので、運動部には入らないことに決めていた。また、文化部の中にも河辺の興味をそそるものはなかった。

 放課後、担任面談があったので、職員室に行った。面談が終わって、帰りに中校舎の廊下をホームルーム教室へ向かって歩いていたとき、左手の小庭にあるプレハブの建物が目に入った。クラブ紹介のとき、是非いらっしゃいよ、と言っていた上級生の女生徒の声が耳に残っていた。深い考えもなく、ちょっと寄ってみようかと思って、通路から出た。

 プレハブの中には蛍光灯がついており、戸は開いていた。話し声がしないので、誰もいないのかと思いながら戸口のところまで来たとき、中にいた女生徒が顔を上げた。この前、文集をもらった女生徒だった。テーブルの上に広げたノートを閉じながら、「いらっしゃい。中へどうぞ」と微笑んだ。河辺は、はいと言うつもりだったが、ほとんど声にならなかった。首を少し曲げて、同意の意志を示しながら片足をプレハブの床に上げた。乾いた砂が、靴の下で擦れた。

「こちらへどうぞ」と、彼女は立ち上がって、正面の椅子を示した。

「おかけになって」と目で椅子を示した。河辺が座ると、彼女も座った。座ると同時に彼女はまた口を開いた。

「この前文集を貰ってくれた子よね。私、三年五組の須田由里子。去年まで部長をしていたの。あなたは?」

 河辺は文集の中に、詩と平安時代の貴人の恋を書いた物語の作者が須田由里子と書いてあったことを思い出した。

「一年二組の河辺です」と、その作者だろうと思いながら答えた。

「あら、竹内君も一年二組でしょう。知ってる?」

 由里子は、共通の話題ができたと思ったのか、一段と明るい声を出した。

「名前ぐらいは、いちおう・・」

 これだけしか、言うことはなかった。同じクラスの竹内という生徒の顔が浮かんだ。だか、話をしたことはない。不思議なことに、その後彼とはこの部室で一緒になったこともなかったし、教室で文芸部のことを話したこともなかった。彼は二学期になっても、学校には来なかった。噂では学校を辞めて、自衛隊に入ったということだった。自衛隊の存在は知っていたが、高校生でも入隊できるのだと知ったのは初めてだった。そして、考えてみれば、義務教育を終わっているのだし当然だとも思った。

「それじゃあ、一緒に協力してね」と言った由里子の表情は、屈託がなかった。

 しかし、河辺は何に協力するのかわからなかったので、黙っていた。また、そのことを問い返しもしなかった。しばらくしてこの時のことを思い出したとき、文集作りのことか、あるいはもっと一般的にクラブの発展について言ったのかも知れないと思ったりしたが、やはり、ほんとうのところはよくわからなかった。

 この後の由里子との会話がどのようなものだったのか、河辺の記憶にはない。覚えているのは、帰り際に「これ、読んだことある?」と傍の椅子の上に置いてあった鞄から文庫本を取り出して、由里子が河辺のほうを見たことくらいである。

「読んでみてね。急がないから、ゆっくりでいいわ」

 河辺が即座に否定しなかったからか、あるいははじめからそう思っていたのか、河辺が読んでいないことを確信しているように、由里子は文庫本を押しつけた。

 銀地に横書きのローマ字が輝くような朱色で縦に二行にわたって書かれていた。それだけで右半分を占めていた。紙全体が銀色で、光っていた。左側の中央付近に「異邦人」と黒い活字で書いてあった。右に行くほど小さくなっているように見えたのは字画のせいだった。その上に小さく「カミュ」と書いてあった。訳者の名前も書いてあったが、覚えていない。朱色のローマ字を改めて見ると、ALBERT CAMUSと書かれてあった。

 家に帰って開いたとき、その出だしの文章がずいぶん無責任な書き方だと思った。母親の死が、今日か昨日かわからないというのだ。母親の死だ。そのあとのほうで、短い電報による連絡だということがわかるが、自分だったらその時の第一印象を書かず、確認したことを書くと思った。だから、作者は母親の死までも冷たく放り出しているのではないかと思った。

 その本を読み終わって、プレハブの部室にもっていったのが、借りてどれくらいたってからかということや、どのような感想を語ったのかも、覚えていない。

 河辺がプレハブの部室に行くと、たいてい由里子はいた。二年生や三年生も時々いたが、由里子一人のことが圧倒的に多かった。その分、河辺は由里子と多くを語った。

 シェイクスピアの喜劇を読みなさいとか、万葉集を勉強しなさいとか言った。

シェイクスピア、読んだことある?」

「ええ、ロミオとジュリエットハムレット

 河辺は、ほっと安堵した。どれも読んだことはありませんでは、恰好がつかない。足も遠のくだろう。幸い、読んだことのある本のタイトルが言えたので、そうはならなかった。

「そうね、多くの子が、悲劇を上げるのね。悲劇を読むのもいいわ。でも、それで終わらないで。喜劇にもいいものがたくさんあるのよ。忘れないでね。いつか読んでおくといいわ」 

 万葉集については、どのような会話がなされたかは、覚えていない。

 一年後由里子は広島の公立大学に入った。クラブにはよく手紙が来ていた。河辺は一年間お世話になったことを、感謝の気持ちを込めて葉書で書いた。翌年の正月には河辺の自宅に年賀状が来たので、クラブの近況を書いて送った。

 さらに一年後、河辺は広島の大学に入った。大学の近くに下宿をして地図を見ていたら、由里子の住所が近いことに気づいた。葉書を出すと、折り返し封書が届いた。

 合格を祝してくれたあと、「いらっしゃいよ、近いところだから。ぜひ、来てよ」と弾むような文字に由里子の笑顔を思い出した。二年も逢っていないことを改めて思った。河辺も懐かしくなった。

 翌日、午後の講義が終わってから出掛けることにした。四時過ぎになっていた。自転車で行った。地図を見て確認しておいた。電車通りを進めば近くまで行けるようだ。

 途中、電車通りから別れて東へ進んだ。しばらくいくと二階建てのアパートと駐車場が見えた。番地も間違ってない。二階への階段を上がり部屋番号を確認すると、小さな紙に須田と書いてあった。呼び鈴を押すとすぐにインターホンから返事があったので河辺ですと言うと、すぐにドアが開いた。

 出てきたのは由里子だった。しかし、そこには高校三年生の由里子はいなかった。若い女性がいた。同じように由里子も河辺を見て驚いたのか、一瞬顔を曇らせた。しかし、すぐに笑顔に戻って、河辺の両手を引き寄せると強く握った。

「河辺くん・・・。やっぱり河辺君ね。すっかり大きくなって」

 河辺はうれしくもあり、照れくさくもあった。いつまでたっても、河辺君なのだ。そんなことを考える暇も与えぬように、由里子は河辺の手を引いた。

「さあ、お入りになって。うれしいわ」

 河辺は黙って従った。高校一年の時のことを思い出しておかしかった。あの中校舎の隣りにあった文芸部の部室に初めて行ったときと同じだと思った。由里子が話して、河辺が黙って従う。忽ちにして、二人の関係があの頃に戻ったようだった。あの目で「異邦人」を読めと言った。今日は何を貸してくれるのだろうか、と思ったりした。

 指示されるままに座卓の前に座った。由里子はコーヒーを淹れると言って、背をむけている。

「今もたくさん読んだり、書いたりしてるんでしょうね」

「あまり、書けてません」

「まあ、受験生だったのだから、仕方がないわ。これからね」

「ええ」

「工学部だっけ? 文学部にはしなかったの?」

「文学の研究が好きだというわけでもないし・・・」

「そんなもんか。学部は関係ないよね。好きなことをし続けることが大切なのだから」

「そう考えてます」

「今度書いたら見せてよ」

「そうですね」

 その後の文芸部のこと。同級生や一年上の先輩方の動向、先生方の転勤などを話しているうちに、瞬く間に時間は経っていった。

「飲みに行こう。近くにいいお店があるのよ。入学祝いをしようよ」

 由里子は楽しそうだった。河辺にも異存はなかった。

 アパートを出ると、二人は歩いた。河辺が先ほど来た道を少し戻って北側に向かう路地に入った。河辺には不思議な感じがした。河辺が電車通りから来た大きな道は新しい道で、道幅も広く、また十分過ぎるほど広い歩道がついていた。アパートは新道沿いに新道を向いて建っていたが、その反対側には古い町並みが複雑に続いていたのだ。だから、一歩その界隈に踏み込むと、食料品店や食堂が路地の向こうへと続いていた。

 換気扇から甘ったるい臭いと僅かの煙が路地に向かって吐き出されていた。しかし、それが籠もるというふうでもなかったのは、道が縦横に伸びていたせいかもしれなかった。

 焼き鳥屋の前で由里子は止まった。看板にも暖簾にも年季が入っていて、この地で何年も繁盛している様が伺われた。

 由里子が入り口の戸を開き、河辺が続くと、カウンターの中の若い男、さらに奧の主人らしき男の威勢のいい声が響いた。

 カウンターの真ん中に二人のサラリーマン風の男がネクタイをゆるめ日本酒を傾けていた。カウンターにはビール瓶とビールの残ったコップもあった。

 カウンターには座らず、一番奥の四人席に行った。自分が奧を向き、河辺を入り口のほうを向けて座らせた。由里子は店主に向かって、瓶の生と盛り合わせを頼んだ。ビールがくると、まず由里子が河辺の瓶に注いだ。河辺が由里子のコップに注ぎ終わると、由里子が「再会を祝して乾杯!」と言って、グラスを持ち上げた。河辺のコップとふれて柔らかい音がした。由里子の目が輝いていた。河辺も微笑んだ。一口飲んで、「あ、入学おめでとうだった」と言って、コップを突きだした。河辺もコップを上げて、カチンと合わせて、

「ありがとう」と笑った。

 

 店を出ると、由里子は河辺の腕に手を回した。

 腕を組んで並んで歩いていると、河辺は、由里子が自分より背が低いことに驚いた。

「うれしかったわ。あなたとこうしていられるなんて夢みたいね」由里子の声はややうわずっていた。頬も赤かった。吐く息が熱かった。

 河辺にとっても、確かに由里子の言うとおり、夢みたいだった。

「いつまでも河辺君じゃあ、おかしいわね。もう高校生と違うんだからね。大学生だからね。弘平君だったよね。でも、弘平君と呼んだら同じね、弘平と呼ぼう。それでいいでしょ」

「もう須田さんじゃなく、由里子と呼んで。ね、弘平」

 こう言って由里子は唇を重ねた。

「女って哀しいものよ。小説はいくらでも書けるわ。でも、成長しないのよ。弘平はいいよ。まだ未完成だけれど、一作一作に進歩があるのだから。だから、続けるべきよ」

 文芸部の部誌は由里子のところへも送っていた。時々、感想を書いてくれていた。

「進歩しない小説がどうなるかわかる? 少女の時の感性はだんだんと鈍くなり、文章も色あせてくるの。そんなものよ。女はみんな文学少女なのよ。でも、空想だけでは生きていけないのね。現実に合わせてしまうのね。とたんに普通の女が顔を出すの」

 由里子が自分よりかなり遠いところにいるように思われた。

「弘平、あなたがうらやましいわ。三年経ったら三年だけ成長して、さらにこの先、一年ごとに成長する。私は三年経っても、三年前と同じよ。むしろ、下がってしまっている」

「だから、文学少女は大人になると変身して、普通の女になるの。結婚して普通の主婦になるのよ」

 二人が親密に交際していて一年が経ったころ、由里子は別れ話を切り出した。それは河辺が一年間で学習意欲や文学に関する関心を失ったことへの由里子の反省だった。

「別れたいと思うの。貴方が嫌いになったわけではないの。いい、これだけは、信じて。嘘は言わないわ。好きよ。今でも大好きよ。でも、でも、このままでは貴方はだめになるわ。貴方には才能があるのに、その芽を私が摘んでしまった。でもまだ完全には摘んでいないわ。今ならやり直せる。お願い。別れましょう。貴方は私無しで生きてみて。そのほうがいいわ。このまま私といたらあなたはだめになる。そうしたら、嫌いになるわ」

 ・・・・

「貴方も、私を嫌いになる。私も貴方を嫌いになる。だから、だから・・・これ以上嫌いになる前に別れて。今ならまだ間に合うわ。好きよ。そして、いつまでも好きでいたいわ」

 河辺は驚いた。自分でも自覚していたことを、由里子から言われたことに驚いた。確かに自分は高校時代の自分ではなかった。未来を信じてがむしゃらに読書をしていた自分ではなかった。

 去年の四月、大学に入ったばかりの頃、河辺が由里子と会ったときは、二人とも過去の二人を互いに見ていた。あの文芸部での一年を。河辺が高校一年で、由里子が高校三年生だった。一年間で河辺は由里子に促されるように本を読み、成長した。由里子は由里子で必死で創作に励み、なおかつ受験勉強にも励んだ。

 その二人の夢のような一年間を反芻するかのように、二人は意気投合した。二人が半ば同棲するような形で生活を始めたとき、夢はいつしか遠ざかっていた。生活者の二人がいるだけだった。いや二人は生活者ですらなかった。ともに実家からの仕送りで、未来の夢を見ることなく、些末な日常生活に埋没していた。

 河辺にもこのまま自分が進んだら、あの高校生活は何だったのだろうかと、思うときがあった。由里子が高校を卒業してから、河辺は手探りで生きた。小説とは何か。文学とは何か。一人で読むしかなかった。由里子はいなかった。そして二年間が経った。自分が小説家になってそれで生活していくだけの自信はもてなかった。何らかの形で大学を出て会社員になって、そして小説を書いていけばよいかと思った。だから、文学部などにいって文学の研究者にはなるまいと思ったので、結局、工学部へ進むことにした。だから、河辺は工学部へ入ったからと言って小説家になる夢を捨てたわけではなかった。読書が第一の生活だった。

 だから由里子との再会は、河辺の夢を一層育むものになるはずだった。最初のころは、確かにそうだった。二人は三年前に時間を逆転させて熱っぽく文学について語りあった。最初のころは。crystalrabbit 

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