虹の章

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虹の章 

  一 

 東から西へ向かって流れる千町川は、その流れがあるかなきかに停滞している。

 淡い初秋の陽が川面でわずかに反射し、柔らかい日差しは川底の小魚を照らした。鮒に似た小魚が数尾群れをなして、藻を漁っている。このあたりでは「はえ」と呼んでいる。

 はえの群れはときおり餌を見つけると、その餌に飛びかかっていく。そのとき身体の線がキラッキラッキラッと銀色に光った。

 千町川からは何本もの水路がまっすぐ伸びている。水路の両端は緑の雑草が繁り、それが風に揺れながら水面に写っている。

 このあたりは、吉井川の下流に開拓された大平野で、水の流れはほとんどない。それでも、上流の井堰からは、四季を通じて近くの水路へ水が流されているので、いつも水は清く澄んでいる。

 疏水のところどころでは、田舟と呼ばれる小さな舟が捨てられたように浮いている。長方形の底の浅い舟で、木膚は乾いて白っぽくなっている。

 田舟の底に雨水がたまっている。棹が一本無造作に措かれ、先端がその濁った水の中に浸かっている。

 その舳先に赤トンボが一尾、羽を広げて休んでいる。さっきからずっとそうして、まるで死んだように動かない。

 

  明治十七年(一八八四年)

 その年はいつになく残暑が弱く、秋の訪れが早かった。

 九月の半ばだというのに、既に空の色は秋空の色だ。

 用水の水は澄み、田舟が等閑(なおざり)に置かれている。その用水路から、南のほうへと小高い丘が伸びて、上のほうが竹薮の濃い緑に覆われている。緑色の笹の一部は、珍しく、立ち枯れて薄茶の葉裏を見せている。その一端は太陽を写して、黄金色に揺れている。その緑の竹薮に抱えられるようにして、低い瓦屋根の家がある。一応南向きに建てられてはいるが、前面から東側にかけて欝蒼と茂った竹が折れ重なるように曲がっているから、夏でも幾分か日影を作って涼しいくらいであった。しかし、その分だけ冬は寒かった。

 七歳になる娘の松香が傍らで遊んでいる。さきほど、妻の実家から、男子が誕生したという知らせを受けた。菊蔵は男子が欲しいと思っていた。男でも、女でも、どちらでもいいものの、家を継がせる男子が一人は欲しいと思っていた。だから、男の子が生まれたという知らせを聞いたとき、喜びももちろんあったが、それと同時に、今度はうまく育てなければ、という気持ちが強かった。というのは、去年長男を失っていたからだった。

 しかし、考えてみれば、育つ育たぬは後の話で、まずは丈夫に生まれてきたことはめでたいことだった。

 生まれたばかりの男の子といっても、その顔形をどう想像してよいものかわからなった。松香をはじめて見たときのような、稚い顔ではないかと思ったりした。

 ふと畠の上を見ると、さっきから秋赤羽が夥しく群れをなして飛んでいる。おや、もうこんな時候になっていたのか、と思った。そういえば、朝夕の冷え込みが、いつもより少し早いような気がする。それに日中の陽も九月の半ばにしては弱い。例年だともっともっと残暑が強い。しかし、今年は、午後になると、急に陽も弱くなり、夕刻にでもなれば、稲穂を揺らす風が、どこからともなく冷気を運んでくる。いつまでも、薄着のままでいるわけにいかず、知らずしらずのうちに、上着を羽織っていた。

 しかし、気候のせいか、家の前の薮もいつもよりよく茂っているように思える。

 秋空も濃いが竹の緑も濃く、竹薮はずっとずっと前より緑めいているような感じを起こさせる。

 ・・・この子もこの薮のように丈夫に伸びてくれればいいが、と思う。そうだ「茂」がいい。と菊蔵は思った。そして、すぐに

「次男だから、茂次郎はどうだろう。」

 と口に出して言った。

「うん、いい。いい。茂次郎だ。こりゃあいい。」

と一人で悦にいった。

 茂次郎という名前にしたとき、菊蔵の胸の中は、何か希望とでも呼んだらいいような、明るさが満ちてきた。この子に限って、立派に成人するという、確信のようなものが、みるみるうちに、盛り上がってくるのだった。

 自分でも気がつかないうちに、顔がほころんでいた。

 少し坂を降りて、水路まできたとき、風が微かに過ぎた。青い空を写した水面を、小さな波が走った。陽にあたっている、何も乗せていない田舟が小さく揺れた。そしてへさきに止まっていた秋赤羽が、思い出したように軽く飛び立った。透明な羽が赤くすけて、空を舞った。

「もう、秋か。」

 菊蔵はさっきと同じことを言った。それから、首を少し上げて、空を見、振り返ってから、家の東の竹薮のほうに目を転じた。

 竹薮の上に七色の虹の帯が大きく円弧を描いているのが見えた。

 芸事には何でも興味をしたが、自然の移りかわりなどには、あまり見とれたことのない菊蔵にも、このときの虹はとりわけ長い間あきれたように見続けた。久しぶりにのんびりと家の前の竹薮を見たことになる。

 虹はこの地方では、よくかかった。午後になって雨が上がると、よく虹が出た。だから、虹などさして珍しくも何ともない。しかし、今日の虹はとりわけ美しいと思った。

 初秋の澄んだ空気が、いっそう美しくしたのかもしれない。また、竹薮の向こう、東のほうの秋のそよぎも、今日の虹にうまく対照した。いままさに黄金色に変わろうとしている田んぼの稲穂は黄緑色の穂先を少し傾けている。今年は台風が来なかったので、ほとんど折れた茎はなく、きれいにそろって、細波のように秋風になびいていた。

 そしてそのそよぎが、水路に写った。水路は空と、そよぐ稲穂は、水とたわむれているかのように、水面をたゆとうた。

 

  二

 

 千町川の両側には、人と荷車がかすかに通れるほどの土手があり、四季おりおりの野草が見るものの目を楽しませた。

 田んぼはまだ、稲の切り株が残されたままだが、ところどころに緑色の若草が芽吹き、まもなく訪れる田植えの季節を待っている。 千町川や千町川から田んぼの中に入る疏水には、鮒やハエがたくさんいる。めだかやどじょうもいる。少し注意すれば、雷魚や鯰もとれる。男の子ならば竹棹を利用したり、ざるを使って思い思いの小魚を獲るのがこの時期の楽しみである。たいていは土手の上から、うまい具合に、篭を水中に浮かして藁縄を巧みに操って、引きあげたときには、何尾かの小魚が入っている。

 

  三 

 

 姉の松香は、やさしい人であった。無口で男の子と遊びたがらない茂次郎をつれて、お宮や権現さまへ、遊びに連れていってくれた。だから、おのずと茂次郎の遊び相手も女の子が多くなった。

 「かーごめ、かごめ、かーごの中のとーりーは……

 春の淡い日が西に傾きはじめ、うっそうたる巨木におおわれ、昼でもうす暗い妙見さまの境内は、いっそう日の光が乏しくなった。遠くで、ねぐらに急ぐ烏が、鳴きながら飛んでいった。

 しかし、村の子供らは、まだ帰ろうとしない。自然、松香と茂次郎も帰らない。

 西の空を茜色に、夕日が染める。ひつじ雲が静かに流れる。その雲の向こうに、何があるのだろうか。茂次郎は、子供心に思った。屋根の丸いお城があるのかもしれない。あるいは長い長い煙突が何本もついたへんてこりんな家がたくさんたくさんあって、人々が忙しそうに働いているかもしれない。そして、こちらが次第に日暮て夜になると、そちらの街は、これから少しずつ明るくなって、人々は働きははじめるのかもしれない。・・・と思ったりする。そういう思いをめぐらしているうちに、日が沈んでいくのがわかる。あたりを夕闇がおおいはじめる。茂次郎はその暗さに気がつくと急に怖くなり、松香の傍に近寄りたくなった。

「姉やん、もう帰ろう。」

「そうしょうか。ほなら帰ろう。」

 松香も、そろそろ帰ろうと思っていたらしく、すぐに茂次郎に同調した。

「みんな、またね。」

 と松香は他の子供たちに言うと、茂次郎の手を引いて、急ぎ足で家路についた。

 妙見さまの森から出ると少しは明るくなったが、それでも秋の夕暮は早い。二人の長い影法師が、枯れて薄茶色になった草の茂った道を揺れながら移動した。 

 

  四

 小学校は家から近かった。田圃に囲まれた道というよりも、畔道を少し大きくしたような水路の縁を歩いた。蓬の深緑の葉を、藁草履でぐいぐいと踏みつけながら歩く。草の匂いが春の野に舞う。蓮華の花が春風に揺れて、香ばしい空気が鼻孔に達する。土手には蓼やすかんぽうがその瑞々しい色艶をして生えている。

 通学の子らは次第に集い、何人かが連れ立って歩く。みれば、川の向こうからも、学校の反対のほうからも、同じ年ごろの子等が、楽しそうに歩いている。足早に行く上級生もいれば、用水路を見つめて立ち止まる子もいる。蛙でも泥鰌でも鮒でも、いつでもとれるのに、わざわざ脛まで水に浸かっている子供もいる。すると何事かと、回り道をしてでも見に来る者もあった。

 冬の寒い朝は、用水も田圃もよく凍った。薄氷が稲を刈った切り株の残っている田圃にはると、子供たちにとっては、そこは別世界が開けたのと同じであった。普通の氷と違って、田圃にはった氷は空気をたっぷりと含んで白い氷になっていた。crystalrabbit

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