パラグアイの太陽   せとうち抄

パラグアイの太陽   

 

 良太が自転車で通りかかった。

「どこへ行くん? この暑いのに」

「暑いから、海へ行くんじゃが」

「うちも行く。待ってー」

「先に行っとくよ。あとで来いよ」

 良太は自転車のペダルを思い切って踏んで、遠ざかった。

「意地悪!」

 佐和は良太の背に向かって叫ぶと、走って家の中に消えた。ブルーに白の水玉模様のワンピースを脱ぐと、水着を着て、その上からワンピースを再び着た。黄色いバスタオルを持って走り出た。

 自転車の前についた買い物かごに、バスタオルを入れると、納屋の柱にかかっていた女物の麦藁帽子を被った。自転車に跨り腿のあたりを見ると、濃紺の水着がワンピースの下に透けて見えた。頬が赤くなったが、すぐに気を取りなおした。気にする必要はない。誰も見る者はいない。そう思って笑った。

 急いで良太を追いかけた。風が肌にあたってここちよかった。

 佐和は角を曲がって、急ブレーキをかけた。崖から斜めに伸びた楠の下に良太がいた。良太はスタンドを立てて、停止した自転車のサドルに跨っていた。両足を軽くペダルにかけており、後のタイヤだけが静かに回っていた。良太のいるところだけが日陰になって、真夏の日に慣れた目には見えにくい。一瞬そこにいるのが良太だと気づかなかった。

「おどかさんといて。こんなところで何してん?」

「待ってやっとったんじゃが」

「待ってくれるんなら、ここで待たんでも、うちの家の前で待ってくれれば、急がんでも済んだのに」

「日が当たって暑いよ」

「そんなら、うちん中へ入ったら、納屋の下が日陰じゃが」

「バカ言え。家の前にわしがおったら、水着に着替えられんじゃろう」

「外から見えんとこで着替えるぐらいの常識は、うちにだってあるわよ」

 と笑ったが、良太の言うのももっともだった。簾を吊ってあるとはいうものの、表も裏も戸という戸はすべて開けてあった。台所の横の外から見えないところで、すばやく水着に着替えたが、良太が家の外にいたら落ち着かなかっただろう。そう思うとおかしかった。

「そうね。わかったわ。お待たせお待たせ。さあ、行きましょう」

 こう言って佐和がペダルをこいだ。良太はペダルにつけた足とハンドルをもつ両手に力を入れ、身体全体を前に押し出した。後輪が地面につくと同時にスタンドは上がり、自転車は動き出した。すぐに追いついて、佐和の隣りに並んだ。

 

 能登原の海は夏の日を受けて輝いていた。対岸の田島の山の緑が目の前に見える。その間の汐の流れはおだやかだったが、銀色に反射して目にまぶしい。

 ひと泳ぎすると二人は、砂浜近くの岩に腰をおろした。佐和は濡れた髪を指で梳いて風を送った。良太は両手で顔の海水をぬぐうと、太陽のほうを向いて、目を細めて笑った。

 佐和と良太は中学二年生だ。同じ小学校、同じ中学校だ。近所でもある。

 いつまでも子どもじゃないんだ。さきほどのことを思いだして佐和は頬を染めた。

 しばらくして良太が佐和のほうを見た。佐和は胸を上下させて大きく息をしていた。良太には、濃紺の水着の胸のふくらみがまぶしかった。

パラグアイの話聞いたか?」

「うん、町はパラグアイの話でもちきりよ」

「町のことはとにかく、佐和のうちはどうなん?」

「うちでは、そんな話はしとらんよ」

「そうか・・・」

「どうしたん? 急に」

「いや・・」

「そんなん、水くさい。良太さんと佐和の間だよ。今まで隠し事なんかなかった。何でも話してきたよ」

「・・・ん、そんなら言うが・・・、親父がパラグアイへ行こうと言い出した」

「えっ? パラグアイへ?」

 今度は佐和のほうが沈んでしまった。パラグアイのことは少し前から話題になっていた。ブラジルだの北米だのというのは、若者が単身で、いわば出稼ぎのような形で行くのが最近の海外移住政策だった。ところがパラグアイというのは家族単位で行くもので、それを沼隈町が推進しているということだった。

 沼隈町といっても、佐和にとっては千年村が名前が変わったようなものだ。この前合併して沼隈町になったものの、一緒になった山南村が近くなったわけではない。

「だ、だから・・・、佐和の家ではそういう話は出んのかと思って・・・」

 佐和はうつむいたまま、頭を振った。

「ううん。母ちゃんは百姓はしとるが、うちは本業は船大工じゃけえ、パラグアイにはいけん」

 佐和の言ったとおりだった。今回の沼隈町が推進している町ぐるみ移住は、パラグアイの未開地を開発し、大規模な農業を展開するという、いわば農業移民だった。

 二人のあいだを重い沈黙が流れた。

 父は近辺では腕の立つ船大工として名が通っていた。戦後の造船界は鉄製の大型化が進んで、次第に木造船の需要が減ってきていた。個人の船大工は、廃業したり、造船会社の社員になったりしていくものも多かった。佐和の父も造船所から請け負った仕事が年ごとに多くなっていた。

 一瞬言葉がでなかった。佐和と良太は離ればなれになるのは目に見えている。

 

 佐和にとっては、暗い沈痛な日々が続いた。天気のよい日が、かえって呪わしかった。良太がパラグアイへ・・・と思うだけで、胸が張り裂けそうだった。地球の裏側なんて、想像もできない。そんなところへ行ってしまうと、もう二度と会うことはできない。

 佐和は、このときほど自分の若さを悔やんだことはなかった。もし、十六歳になっていれば、一緒に行くことができるのではないか。家族が行かなくても、自分一人が良太についていけばいい。しかし、まだ若すぎる。

 

 父が浮かぬ顔をして帰ってきた。三日たっていた。母が気づいて言った。

「どうしたの、そんな顔をして」

「今日、町長からパラグアイへ行ってくれと頼まれた」

「え、パラグアイ?」

 母は、頓狂な声を上げた。母が驚くのも無理もなかった。

 母は自分たちのことではないと、一瞬思った。移民というのは、戦前も戦後も自分たちとは全く縁のない世界の話だと思っていた。

「開拓には、家も建てる必要がある。それをやってくれと頼まれた。もちろん、百姓もする。船大工の仕事は減った。会社の仕事は安い。パラグアイで広い土地で百姓をするのはどうかと。ここでは、専業農家になるほどの土地はないし。ええ話とは思う」

「ええ話、いうても、まだ見たこともない国のことでしょう。いやじゃわ。友達と離ればなれになるよりも、こっちがええ」

 姉の芳美だった。

「私は行ってもいい」

 佐和の反応には、三人が一様に驚いたようだった。

「佐和は行ってもいいというのか?」

 父親が信じられないという顔をして尋ねた。

「うん。沼隈町が新しい町を作るんなら、やりがいがあると思う」

 佐和は、良太のことを考えながら言った。きっと良太もそう思っているに違いないと思った。

「確かに、やりがいのある仕事ではあると思うが、それ以上に苦労もあると思う。それをみんなに強いるのは心苦しい」

 父親はあくまでも家族のことを考えているようだった。

パラグアイに行ったら、友達がいないし、それに学校だってどうなるかわからん」

 芳美は今にも泣き出しそうだった。

「おまえはどう思う?」

 父は母に尋ねた。   

「私は貴方がしたいようにすればいいと思います。どこへでも、ついていく覚悟は結婚したときからできています」

 ほんとうだろうか。母だって、本当は行きたくないと思っているに違いない。

「そんなことはわかっているわ。でも、お母さん自身がどう思っているのかそれが聞きたいのよ。佐和と私が自分の気持ちを言ったように、お母さん自身の気持ちが知りたいのよ。戦争が終わって世の中変わったんじゃけえ。女も男と同じように権利があるんよ」

「そんなことぐらいは私でも知っているわ。でも、私は古い女でいいの。新しい女の人の生き方だの、新しい価値観だのと言われても、私は古い女ですと言えばいいじゃないの」

 

 佐和の表情は昨日までとうって変わって明るくなった。

「良ちゃん、ちょっと」

「何?」

 良太のほうが訝った。

「行こう、阿伏兎のほうへ行こう」

「どしたん? 急に」

「大切な、は・な・し」

 と佐和は一語ずつ切って言った。

「良ちゃん、聞いて! 聞いて! 私の言うこと聞いてくれる?」

 良太にとっては佐和のはしゃぎぶりは異常だった。

「まあ、何があったか知らんが、落ち着け、落ち着け!」

「うん、落ちつくから、聞いてくれる?」

「聞くよ。さあ、話せ」

「驚かない?」

「驚かないから、さあ話せ!」

「嘘でしょう。驚くに決まってる。自信ないでしょう?」

「自信あるよ。驚かないから、話せよ」

「それじゃ言うよ。うちもパラグアイに行くことになった」

 佐和は、良太が一緒になって喜んでくれるものと思って明るく言った。 

 良太の表情から笑顔が消えた。良太は喜ばなかった。良太は何も言わなかった。

「どうしたの、良太さん? 気分でも悪いの? 喜んでくれると思ったのに・・・」

 良太は佐和を見返した。申し訳なさそうに首を左右に振った。

「何があったの!」

「行けなくなった。ばあちゃんの調子が悪くなって・・・」

「いけない? そんな! そんなの、嫌よ!」

「第一陣には間に合わないと・・」

「良太さんも、行けないの? そうよね、当然だわね」

「いや、・・・やめたわけではない。第二陣か第三陣で行くと親父も言っている・・・」

 佐和は落ち着きを取り戻した。しかし、笑顔は戻らなかった。

 

 二ヶ月がたった。秋になっていた。

 出発の日が来た。

 朝から落ち着かなかった。家を出るとき、近所の人たちと別れの挨拶をしながら、丁寧な見送りを受けた。金明会館と呼ばれている山南の光照寺へ行った。備後光照寺である。

 石段から見上げた空は青く澄んでいた。境内の松は色艶もよく、夏の間に存分に枝葉を伸ばしていた。

 光照寺は建保四年(一二一六)明光上人の開基になる古刹で、真宗をこの地方へ布教するのに大きな役目を果たしたお寺だ。合併後、庫裡や参道を町の費用で改修し、金明会館として町民の利用に供されていた。

 今回のパラグアイ移住は町ぐるみ移住として広く報道され、特に週刊誌などにも取り上げられたことから、この日も多くの放送局、新聞社などが取材にきていた。

 町役場の職員らしき人の司会で壮行会は始まった。

 佐和にとっては、学校のいろいろな式以外に、こんな式に参加したことはこれまでなかったから緊張した。司会の人の言葉に従って礼をすると、自分が当事者だということが、だんだんと実感された。隣りにいる姉も、周囲の人たちに合わせていた。

 いろんな方のお話を伺っていると、自分たちがたいそう持ち上げられているように思った。みんなで六家族三七人の皆様と言っていたから、これが第一陣の陣容だということが佐和にも理解できた。 

 まだ何もしていないのに、南米パラグアイへ行くということだけで、何か偉いことをしたかのように言われるのが、不思議だった。

 一人目の方の挨拶では、気にはならなかったが、二人目、三人目と、似たようなことを言われると、だんだんと腹が立ってきた。

 何かまわりからの大きな力で、押されているような感じだ。もう引き返せないんだぞ、という威圧感。そんな気持ちになった。 

 壮行会は、本殿の前で揃って写真を撮って終わった。

 石段にも新しくできた参道のほうにも人が溢れていた。

 二つの村が合併してできた新しい町としては最大の行事だったのだろう。あらかじめ町の広報で知らせてあったので、多くの人たちが集まっていた。

 白地の布に墨で「祝壮途 ○○○○君」と書いた幟旗を掲げて横を歩いているのは、移住者の同級生か親戚だろう。

 普段着で声援を送り、手を振っているのは近くの人だ。

 光照寺の下には貸し切りバスが待っていた。岩船桟橋から船で神戸まで向かう。この貸し切りバスで桟橋まで行く。

 バスはもうもうと砂煙を上げて走った。沿道ではいたるところに人々が集まって見送ってくれた。

 町中がお祭りのような喧噪だった。

 揺れるバスの車窓から、砂塵の向こうに静かな秋の野山がみえる。これが沼隈町なんだ、とあらためて思った。その沼隈町から、南米へ新しい町作りをしに行く。地球の裏側だという。船で何日もかかって、そこへ行き、新しい土地を開いて、新しい町をつくるというが、未だに向こうでどうなるかは想像もできない。ただ学校のみんなと別れ、見知らぬ土地へ行く。そのことだけは厳然たる事実として、認めることができた。

 良太の家族も次かその次の便で来るというが、果たしてそうなるのだろうか。もし、良太の祖母の容態がよくならなければ、いつまでたっても来れないではないか。そう思うと、なぜか佐和は良太とは永遠に別れてしまうのではないかという思いに襲われた。妄想だと思う。でも、なぜかそんな気持ちになる。

 そんなの嫌よ。

 佐和は良太からさいしょにパラグアイのことを聞いたあの日から、今日までのことを思いだしていた。季節のうつろいに目をやる余裕もなく、あわただしく日々は去った。まるで夢のようだった。

 きっと来てよ。第二陣で、あるいは第三陣で、必ず来てよ。

 佐和は声を限りに叫びたかった。

 バスから降りると溢れかえる見送りの人たちをかきわけて、父に続いて桟橋へ向かった。桟橋には既に白い船が繋がれていた。操舵室の前にある二つの浮き輪に「あき丸」と書いてある。

 ブラスバンド蛍の光を演奏していた。演奏しているのは佐和と同じ年頃の中学生だったが、彼女らのことを考えるゆとりはなかった。

 佐和は良太が来ていると思った。必死で探した。すごい人だ。自分が進むだけでも大変だった。佐和は背伸びをして、左右を何度も振り返った。

「佐和! 佐和!」

 良太が叫んでいた。佐和にも聞こえた。

「こちらよ! こっちー」

 佐和は手を挙げながら叫んだ。

「佐和! 元気でいろよ。第二陣で行くからな。それまで病気するなよ。気をつけよ」 

「良太さん。きっと・・。きっと、来てね。必ず来てね。待ってるからね」

 佐和は目に涙をいっぱい浮かべて哀願するように言った。

 みんな乗船した。

「佐和!」「早く!」

 父と姉だった。

「佐和、頑張れよ!」

「良太さーん」

ブラスバンド蛍の光、集まった人たちの歓声、それにエンジン音。それらの音をかきわけるように良太の声を必死で聞いた。

 色とりどりの紙テープがどんどん増えていく。

 あき丸の前後から掛けられていたロープが外された。やがて出航だ。

 蛍の光がさらに大きくなった。

 ひときわ高いエンジン音と歓声。夥しい数の紙テープが伸びた。切れると海面に垂れた。

 佐和の顔が見えなくなると、良太は人混みをかきわけて桟橋から陸へ上がった。自転車のところに着くまでにも何人もの人を押しのける必要があった。やっと自転車のところへ辿り着いた。

「すみませーん。通りまーす」

 と叫びながら、人波の切れたところへ出た。

 自転車のペダルを思い切って踏んだ。力一杯こいだ。自転車のスピードは上がった。

 海が見えるところに出た。あき丸は桟橋の沖を旋回していた。

 良太は必死でペダルをこいだ。阿伏兎だ。阿伏兎岬だ。あそこなら海は深くなっているから、船は近くを通過する。

 佐和の家の前を過ぎた。今は佐和のいなくなった佐和の家を見る余裕はない。とにかく阿伏兎までに船に近づかなければ! 良太は必死で自転車をこいだ。

 能登原の海岸に出た。真夏の太陽を受けた水着を着た佐和が思い出された。ほんの二ヶ月ほど前のことだ。海から上がって激しく呼吸している佐和の胸の隆起が思い出された。それを思い出すと頬が熱くなった。

 その佐和が今自分の前から消えようとしている。一緒にパラグアイに行くはずだった。それが、自分のほうが残った。はじめ、パラグアイへ行けないと残念がっていた佐和のほうがパラグアイへ行くことになり、自分のほうが残った。

「すまん。すまん」

 申し訳ない気持ちで一杯だった。

 あき丸が沖を行く。次第に近づいてくる。直線道路になり、スピードが出た。阿伏兎岬に着いたのとあき丸が来たのがほぼ同時だった。あき丸は阿伏兎岬に接近した。

 甲板に出て手を振っているのがわかる。良太も思いきって両手を振った。

 立っている一人に佐和をみつけた。

「待っているのだぞ! 必ず行くからなー。佐和!佐和!」

 磐台寺の塀のところから身を乗り出して、声を限りに叫んだ。

 あき丸はあっという間に通り過ぎた。船影が小さくなり、白い航跡は緑の海に混ざってやがて消えた。

 良太は肩で息をしながら、目の前の海を放心したように見つめた。海水が静かに流れ、朱塗りの観音堂の下の岩肌が午後の陽を反射していた。

 

   *    *   *  *

 良太は能登原柑橘組合の理事会へ行ったとき、佐和が二人の息子と帰国したことを聞いた。良太の胸は高鳴った。

 

 午後になって佐和が良太の家を訪ねた。良太がいた。佐和は立ち止まった。

「佐和・・」

「良太さん・・」

「ごめんよ。申し訳ないよ。パラグアイへいけなくて」

「ううん。もういいの。あなたのせいじゃないわ」

「いや、・・・ほんとに申し訳ない。あれだけ行くと言ったのに」

「仕方がないじゃない。子どもだったんだから。あなた一人で来るわけにいかなかったのよ」

 佐和は思わず、涙が出そうになった。一人でも来てほしかった。どんな思いで、あの開拓の初期を過ごしたか。どんなに良太が来るのを待っていたか。

 でも口から出るのは心とは反対の言葉ばかりだった。

「お元気そうね」

「佐和も・・」

「ええ、なんとか」

 あとは何を言ったか自分でも覚えていない。

 はかない邂逅を良太としたが、心の中にあいた空洞がさらに大きく開いただけだった。自分の思っていることの十分の一も言えずに帰ったことが、悔やまれた。また、良太の前に出たとき、心とは反対に良太を責めず許してしまった自分が疎ましかった。

 なぜ、あんなに強く約束したのに、パラグアイに来なかったのかとなじってもよかった。一人でもいいから、すぐパラグアイへ来てほしかったと、なぜ言えなかったのだろうか。なぜ、言わなかったのだろうか。

 でも、良太と会えたことはうれしかった。元気な姿を見ただけでもよかった。良太がさらに逞しくなっているのを見て嬉しかった。

 そして、パラグアイへ来なかったことを言い訳もせずに謝ってくれたのだから、これでいいではないかと佐和は思った。もう許してあげよう、と佐和は思った。

 やはり、私が結婚せずに良太と会える日を待つべきだったのだろうか?

 しかし、そんなことが可能だっただろうか? 佐和の家族は、パラグアイへ移住してから、誰も里帰りをしていない。そのような余裕はなかった、というのが正直な話だ。手紙を出そうにも、郵便局もなかった・・・。

 最後の日に同級生たちが集い、歓迎会をした。会が引けて、良太は佐和を宿所まで送った。

「わたしたち、お互い別々の人生になっちゃった。でも、あなたの人生も素晴らしい人生だったのでしょう。わたしのもよ。もう後戻りできない。戻せないわ。それぞれ、残された人生をせい一杯生きましょうよ」

 こう言って佐和は両手を出して良太の手を握った。良太も握りかえした。佐和の目から涙が溢れた。佐和はさらに力を入れて強く握りかえした。良太は佐和を抱き寄せた。佐和の肩が小刻みに震えた。

 

 翌日、良太は福山駅まで見送った。良太は佐和の二人の子どもたちと挨拶をした。新幹線が入ってきた。佐和と良太は互いにしばらく見つめ合っていた。

「お元気で」

「おからだ、大切にね」

 手を握り二人は別れた。良太はこれが佐和との最期になると思った。佐和も同じように、二度と良太と会うことはないように思った。

 

 佐和が日本を出てから四十年以上がたっていた。それは佐和にとっては沼隈にいたよりもはるかに長い時間に違いなかった。佐和の人生の大部分がそちらにあったのだ。その間に佐和は結婚し、子どもを産み、夫とともに子どもを育てた。

 そう思うと自分の知っている沼隈の佐和の十五年も、あの十五才の夏も、遠い幻のように思われた。

 

 

 二週間後、佐和から手紙きた。それには、パラグアイの太陽を見るたびに、能登原の海で見た太陽を思い出します、と書かれてあった。

パトーリ

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パトーリ


 リカを乗せた飛行機は霧の中をドゴール空港へ着いた。
 ドゴール空港で国内線に乗り換えた。
「リカ、さあ、ここがパリだよ。ここでおりて、もう一度別の飛行機に乗るんだ」
 パトーリは自分の言っていることが、相手に通じているとは思っていない。でも、一人で黙々と事務的に旅をするのはいかにも味気ない。そこで、できるだけこの少女に語りかけながら、旅をしようとしたのである。
 はじめのうちこそ、見知らぬパトーリを黙って見つめるだけだったが、少しずつ笑顔が現われはじめた。それに気をよくしたパトーリは、自分としても最大の明るい表情を作ってやさしく話しかけてきた。
「わかってくれるかい。リカ。リカでいいんだろうね。いい名前だから、違っていてもいいや。本当の名前がわかれば、ニックネームにしてもいいしね」
 国内線の中型機の窓側に二人そろって腰をおろしたときには、リカはどちらかというとはしゃいでいるように見えた。
「リカ」「リカ」
 パトーリはリカの顔を右手の人差し指で指しながら、言うとすぐ同じように自分の顔を指して、
「パトーリ」「パトーリ」
と言って笑った。
 何度こういうやり方を繰り返したことだろう。
「パトーリ」
 リカが突然言った。そして、パトーリの腹を手で突いた。パトーリが振り向くと、リカと目があった。リカは笑いながら右手で窓の外の景色を指してた。
 眼下に、その上を通過している村々の灯が星座のようにチラチラとまたたいている。「きれいだね。どのあたりを飛んでいるのろう」

 パトーリは楽しかった。リカの目が赤々と輝いていた。その澄んだ笑みをふくんだ目は敏捷に右へ左へと動き、パトーリはかしこそうな少女だと思った。

「もうすぐ、マルセイユだよ。マルセイユが気にいってもらえるかな」
 パトーリが言うと、リカは微笑んだ。パトーリは、リカがしゃべらないだけで、自分の言っていることが理解できているのではないかと思った。
「リカ、おじさんの言うことがわかってる? リカは口を開かないから、おじさんはリカがわかっているのか、わかっていないのかが、わからなくなっちゃった。……そうだ、リカ、右手を出してごらん」

 パトーリは言葉だけでリカに通じているのだろうかと思い、表情や手振りに意味をこめないで言った。しかし、急にリカをこわがらせてもいけないので、笑顔だけはたやさなかった。
 リカはパトーリのほうを見ているだけだった。
「リカ、それじゃあ左手を上げてごらん」
 同じようにパトーリは言った。しかし、リカの態度にも変化はなかった。こんなばかなことをしても仕方がないじゃないかと、パトーリは自己嫌悪に陥る寸前だったが、もう一つだけ試みてみることにした。
「リカ、立ってごらん」
 結果は同じことだった。やはり、リカにはパトーリのいうことは聞こえても、言葉はわからないのだ。さっきまでと、同じようにできるだけジェスチャーもまじえて話せば、感のいい子だから、こちらが驚くような理解ができるのだろうとパトーリは思った。そのほかにも、この子がどんな能力をもっているかは、想像もできない。しかし、今はとりあえずここま理解できたことにしておこう、とパトーリは納得した。

 急いではいけない。相手は子供なのだ。

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救助

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救助

 

 海岸には嵐が運んだ漂流物が乱雑に堆積していた。

「ひどい嵐だったんだ。こんなにたくさん流れてくることはめずらしい」

 男が言った。これから漁に出るところである。

「ずっと遠くで嵐があったのだわ。それにしても……。ねえ、あれ」

 男は妻の指差すほうをみた。

「おい、子供だ」

 男は走りだすと同時にそれが人間であるのがわかった。

「女の子だ」

 男は顔を覆っているの髪の毛を、日に焼けた手で払ってから、右の耳を心臓に近づけた。そのとき、麦藁帽子がじゃまになるのでとって砂浜に置いた。男の顔は茶色に日焼けしていた。

「生きてる。生きてる」

 茶色い顔に笑みが浮かび、男は手をあわせて天お仰ぎ、砂浜にぬかづいた。

「ああ、生きている。生きている」

 男は膝をついたまま、まるで小躍りするように叫んだ。

 その時には、妻も隣にきていた。

 男は、子供の足をもってうつぶせにした。子供の口から海水が出た。男が上向きに寝かすと、子供は大きく息をした。

「よし、もうだいじょうぶだ。服を着替えて寝かせてやろう」

 男は子供を抱いて、もときたほうへ引き返した。妻は男の麦藁帽子をもって、男のあとからしたがった。

 すぐに家に着いた。男は家に入ると、木でできた膝ほどの台の上に子供を寝かせた。そして濡れた服を脱がせた。

 妻は隣に布団をしいて、乾いたタオルをもってきた。乾いたタオルで躰を拭いてから、隣へ寝かせた。タオルを躰にかけた。

 屋根のすき間から、日が入ってタオルの一部にあたった。

 子供はときどき咳をした。しかし、起きなかった。

 男と妻はじっとそばで見ていた。

 太陽が動いて、日のあたっている部分が移動して、顔のほうまでくると、子供は首を回転させて、横を向いた。

 男は妻の顔を見た。妻は男と同じように茶色い顔を男のほうに向けて微笑んだ。

「もう少しだ。おなかがすいているだろう。何か食べるものを作っておけ」

 男は言った。妻は黙ってうなずくと外へ出た。

 別の穴から差し込んだ日がまた子供の顔のところまできた。子供は今度は寝返りをうった。少し目が開いたように見えた。

「おい、おい、だいじょうぶか」

 男が言った。肩をゆさぶった。

 妻は食物の入った容器をもって立っていた。

 

「さあ、これをお飲み」

 妻は少女にスープの入った容器を示した。 少女は何も言わずその容器を両手でつかみ口の近くまでもってくると、手を止めて、妻のほうを見た。目と目が合った。少女は、見たこともない人だと思った。ママじゃない。ここはどこだろう、と思った。

 少女は妻の目をじっと見つめた。

「さあ、お飲み」

 妻は笑顔で言った。目は愛らしく輝いていた。その表情から妻の気持ちが通じたのか、少女は容器を少し持ちあげ、中のスープを一口というよりも、ごくわずか口に含んだ。そしてごくんと飲みこんだ。妻は口に合うだろうかと心配そうに見つめた。次を飲んでくれなかったら、どうしよう・・・。

「だいじょうぶよ。さあ、お飲み」

 妻は言った。じっと目を見つめるだけで何も言わない少女の表情から、妻は言葉が通じないのだろうか、と思った。しかし、言葉ではなく仕草で理解してもらえるかもしれないと思って、手で促すようにした。すなわち手のひらを上にして上へ移動する仕草を二、三回してみた。

 少女は軽く微笑んで続けて飲んだ。

「ああよかった。どう、おいしい?」

 妻の顔には安堵の色があふれた。

「おお飲んだか。飲めば元気が出る」

 傍で妻と少女とのやりとりを見ていた夫も茶色い顔をほころばせて、うれしそうに言った。

「お腹すいているんでしょ、何か食べる?」 妻が少女に言った。  

 しかし、少女は答えない。言葉が通じないのかもしれない、と妻はまた思った。そして、奥に入って別の容器に入った食物をもってきた。ご飯が木製の器に入っていた。木製のスプーンのようなものももってきた。

 少女は今度は手にとらなかった。そして、再び横になった。

「まだ、眠いのだろうか」

 男が言った。

「そうね、静かにしておきましょう」

と、妻は言ってまたうすいタオルのような布を少女にかけた。

 男と妻は、しずかに外へ出た。家をでてしばらく歩くと、砂浜から少し離れたところに土でかこった池があった。そこで、男と妻とは、養殖している海老に餌をまいた。

 水面に小さな輪ができた。それが済むと、男は隣の池に移り、同じように餌をやった。男はつぎつぎと餌をやって移動した。

 妻は餌を置いているところで、容器をかたずけていた。

 日が暮れかかった頃、二人はまたもとの道を帰った。家に着くと、少女はまで寝ていた。二人はそのままにして、夕食をとった。

 翌朝、二人が少女のところへいってみると、既に起きていた。

 少女は口をきかなかった臥、それでも、二人がするのと同じことをした。しかし、家の外に出ても、強い日差しに驚いてすぐに家の中に入った。

 その日は家の中にいたが、翌日は妻から麦藁帽子を貸してもらうと、二人について、海老を養殖しているのを見にきた。妻がすることを少しずつ手伝った。

 

 こうして、少女はこの夫婦のもとで徐々に元気を回復し、生活していた。  この海老は三日に一度、回収にきたトラックで空港まで運ばれる。そしてときどき、海老の稚魚や餌もやはりトラックで運ばれてくる。この少女がこの夫婦とともに生活するようになって二ヵ月がたったころ、この夫婦のところへ一人のフランス人がやってきた。

「自分はこの少女を自分の養女にするから譲り受けたい」

 フランス人は二人に言った。

 二人は驚いたが、すぐに気をとりなおして考えた。

「ここにいるのと、この紳士が連れていくのと、この子はどちらが幸せかしら」

 妻が男に言った。男は茶色い顔の中の目を細めて、妻に言った。

「わたしたちが、この子にしてやれることは、いままでしてきたことくらいだ。浜辺に打ち上げれていたのを助けてやり、本当の親が現われるまで面倒を見るぐらいだろう。しかし、その親も生きているやら……。いまこんな紳士が引き取ろうというだから、お任せするのがいいのかもしれん」

「ええ、私もそう思います、でも、せっかくなついて、かわいい子なのに……

 妻は目に涙を浮かべて言った。

 二人はフランス人のところへ戻った。フランス人は懐から紙幣をだして、男へ渡した。

 妻は少女を表へ連れて出た。フランス人が少女を見て、両手を差し出した。少女は何のことかわからなくてきょとんとしていた。

 男は少女を抱いた。男は寂しくなったがじっと少女の顔を見つめた。

「このおじさんと、フランスへ行くんだよ。元気でな」

 と言いながら少女の髪を撫でてやった。妻も近づいて、抱きとり、言った。

「短いあいだだったけど、楽しかったわ。でもフランスのほうがいいにきまってるわ」  

 少女は妻の首を強く抱き締めた。妻の目から涙がでて少女のブロンドの髪の上に落ちた。

 少女はトラックの助手席に乗ったフランス人の膝にだかれて、いつまでも夫婦のほう見ながら手を振った。少女は目に涙をいっぱいためていた。

 トラックが小さくなるまで、男と妻はじっと立ったままで見送った。crystalrabbit

 

 

難破

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難破

 

 着水した救命ボートには乗員が二名ずつ乗っており、両側で懸命にオールを漕いだ。

「とにかく、できるだけ離れるんだ」

 乗員の一人が言った。

「ベルサイユが沈んだとき近くにいたら、渦に飲み込まれてしまう」

 もう一人の乗員が言った。二人は自分たちで、確かめるとともに、乗客たちにも聞こえたほうがいいと思って、できるだけ大声で話した。

「視界が悪い。他のボートとの間を充分とるんだ」

 ベルサイユからどんどん離れて行く。

 風は激しく舞っている。波も高い。

 乗客は震えながら、じっと海を見ていた。

「乗客の方も周囲をよく見ておいてください。近くにボートが見えたらすぐに報せてください」

 ベルサイユからの距離がとれて、余裕ができたのか、一人の乗員が客に向かって叫んだ。

「わかりました。……みんな、船員さんが言われたとおりだ。みんなで周囲を見張ろう」

 年配の男が言った。この紳士は船首に近いところで、進行方向を向いていたので、自分が重要な役目を担っていることを自覚していた。

「そうだ、ただ座っているだけでは、申し訳ない。みんなで、周囲に注意しよう」

 別の男が言った。

 その男のとなりにいるイギリス人に抱かれて和彦は眠っていた。

「ありがとう。みんなお願いしますよ」

「ベルサイユから遠ざかるのだ。もう少しだ。まだ充分ではない」

 二人の乗員は必死だった。せっかく救命ボートで脱出しても、ベルサイユに衝突したり、沈んだとき生じる渦に飲み込まれたら、その甲斐がない。   

 その次に危険なのは、他のボートとの接触だ。波が高い上に、接触でもしようものなら、ともに転倒してしまうだろう。これは当面、お客さんに任せて、二人のの船員はとにかく、ベルサイユから離れることに全力を注いだ。

 風はますます強くなった。雨もいっこうに止む気配はない。

 空には黒い雲が厚くおおっている。波にゆれる海面は黒々と光っている。風や波の音で、近くのボートの音は聞こえない。夜は暗くて、近くにいたボートも少し離れるとすぐに見えなくなった。しかし、ベルサイユの両側から降ろされたボートは、それぞれできるだけベルサイユから離れる方向へ漕ぎだしたから、半分は同じ方向へ向かっているはずだった。

「あ、ボートだ。あそこだ。右前方だ」

 船首にいる男が大声で言った。

「見えたわ。たしかに見えたわ」

 すぐうしろの婦人が言った。

 和彦は目を開けた。さっきの男の声で目が醒めたのだ。

「ママ、ママ……

 和彦はすぐには、ここがどこだかわからなかった。しかし、美紀がいないことは確からしい。

 見る見るうちにボートは近づい来た。

「左だ。左へ避けろ」

 乗員が叫んだ。和彦の乗っているボートは大きく左へと旋回して、接触を避けた。

「おおい!」

 乗客の一人が手を振った。しかし、相手のボートの声は聞こえなかった。手を振っているのは見えた。

 和彦も騒ぎの中心になっているそのボートを見ていた。互いにゆられているし、雨の中だから顔まではわからない。

 激しく風が吹いた。多くの人が顔を背けた。また、ボートが近づき、乗員が必死で漕いで再び離れた。

「リカー」

 その、もっとも近づいたとき、和彦はそのボートの中に美紀ではない大人に抱かれたリカを見たように思った。

「リカー、リカー」

 和彦は声をかぎりに叫んだ。しかし、その声はボートの接近にあわてて騒ぐ客たちの声に消されて、ほどんどの人に聞こえなかった。乗員の見事なオールさばきで再びそのボートは遠ざかっていった。

「わぁー」「わぁー」

「倒れた。ボートが倒れた」

 遠ざかって、今にも視界から消え去ろうとするとき、そのボートは転覆したのである。

「おにーちゃーん……、おにーちゃーん」 

「リカー、リカー」

 和彦はそのとき、風の音にまじってリカの呼ぶ声が聞こえたと思った。

 和彦も叫んでだいた。しかし、あっというまにそのボートは視界から消えた。

 風が激しく吹いた。大波に激しくゆれ、乗客の何人かの悲鳴が聞かれた。

 しかし、転覆したボートを救援するだけの余裕がなかった。自分たちのボートをいかに波に対して守るかに乗員は必死になっていた。

 

 一方、乗員たちを乗せて最後に脱出した救命ボートの一つでは、気を失った美紀は横に寝かされていた。

「リカ! リカ! 待ってリカ」

 突然美紀は起き上がり、ボートの縁に駆けよって海に飛び込もうとした。

 驚いたのは乗員たちであった。さきほどまで、死んだように眠っていた美紀が、突然起きて、乗員が気がついたときには、ふなべりに立っていたのである。

「危ないじゃないか」

 かろうじて美紀をつかんだ乗員はしばらくものもいえなかったが、やっとこれだけのことをいうと、大きく息をした。

「リカ! リカ! ママよ、リカ!」

「海の上だよ、ここは」

 他の乗員が言った。

「離して、離して。リカがいるのよ。リカがいるのよ」

 乗員に取り押さえられて、ボートの真ん中に座らされていた美紀は泣きながら叫んだ。顔には雨と波がかかっており、涙もすぐにそれらに混ざった。

「夢でも見ていたんじゃないか」

 離れたところの乗員たちが話していた。

「ああ、リカ!リカ! ごめんなさいね。リカ……

 美紀は顔を両手で覆って泣きじゃくった。雨も風も依然として激しかった。美紀の長い髪に向かって雨は横なぐりに吹き着けていた。雨や海水で濡れ衣服の上を風が通り過ぎた。

 黒い雲の下を救命ボートは激しく蹂躙されながら、木の葉のように舞っていた。crystalrabbit

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 船上から見る夕日は美しかった。はるか西の水平線に沈む夕日はいつもより小さく見えるが、あたりを真っ赤に染めて静かに沈んでいく。昼間はあんなに青かった海も色を失って小波にゆれている。しかし、西の海だけは赤く燃えていた。水平線にかかる雲のせいか太陽は緋色になり、周囲の一面が赤い炎のようにゆらめいていた。ベルサイユが南へ進むほど、夕日が雄大になっていくのだろうか、と美紀は思った。

 しかし、それにしても今日の夕日は特別にすばらしい。じっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうだ。もし、この見ているのが船の上ではなくて、どこかの島の海岸なら、そのまま海の中へ入って行きそうに思われた。それを阻んでいるのは、この船の囲いと、静かに伝わるエンジン音のせいではないかと思った。

 大自然というのは私などが知らない、偉大で神秘的なものをもっともっともっているのだろうと思った。そして、こんな素晴らしい夕日を見ると人生の最大の感動を経験してしまったような気持ちになった。それはまた、もういつ死んでもいいという気持ちでもあった。

「和彦、リカ。いらっしゃい」

 船室の中で本を読んでいる二人を促して、美紀はデッキに登った。

「きれいな夕日よ。ご覧なさい。もうじき、お日さまが沈んでしまうわ」

「わあ、すごい夕焼け。お兄ちゃん見て」

 和彦はリカに言われなくても、もうさっきからじっと夕日を目で追っていた。

 リカは、兄が何も言わないのも気にせず、母と兄と同じようにじっと夕日を眺めていた。美紀は、二人の後からしゃがむと、二人の頭の間ぐらいのところへ自分の顔をもっていき、両手でふたりを抱いた。

 美紀は、その夜のディナーでワインを少し飲みすぎた。そして自分たちの部屋に帰るとすぐに横になった。夕日のせいだわ、と小さく言って笑った。モンマルトルの丘で見た夕日を思い出した。夕日はやはり美しかったが、夕日をまともに取り上げる自信はなかった。夕日に映る白い家並みを描くのがやっとだった。

 子供たちはいつの間にか眠っている。パジャマの胸元から揃いの小さなロケットがだらりとたれ下がっている。どこかから揃いのロケットを買ってきたシュノン。シュノンとの出会いも、モンマルトルの丘だった。あの頃のことが思い出されて無性に懐かしい。感傷的な気持ちになるのは、ワインのせいだろうか、いや夕日のせいに違いない、と思った。いつしか美紀も眠りについていた。

 美紀が目覚めとき、船が大きく揺れたように感じたのと、船内がいつになく慌ただしいように思ったのは同時だった。何事だろうか。船室に備えつけられている船内放送のスピーカーが何か言っているようだが、咄嗟のことでよくわからない。

 室外では汽笛もなっている。バタンバタンという音。人の動く音。激しい揺れ。何があったのだろうか。衝突だろうか。そうこうしているうちに、船内放送の声が聞き取れた。救命胴衣を着用するように言っている。

 急がなければ、と美紀は思った。

「和彦、リカ起きて、起きて」

 美紀は必死で叫んだ。この子らを守のは自分しかいない。しっかりしなければ。美紀は自分を励ますように、声を上げた。

「和彦はやくして。リカを起こして。大変なの」

 何が大変なのかは自分にもわからない。とにかく大変なことが起こったということだけがわかるのである。美紀は救命胴衣を棚から引っ張りだした。

「和彦、これを着るのよ、自分で着て。ママはリカに着せるから」

 救命胴衣の一つを和彦に渡したが、和彦もまごついている。外の騒ぎはますます大きくなる。船が少し傾いているのだろうか。揺れが大きくてよくわからないが、そんな気がする。

「リカ、しっかりして。ここに掴まっていてね。和彦、着れた?」

「うん、着れたよ」

 美紀は和彦の救命胴衣を固く結んでから、自分のを着けた。

「二人とも靴をはいて。急いで」

 またしても、美紀はリカの手伝いをしながら、自分も一番近くにあったローヒールを履いた。和彦は自分で履いていた。その間にも船内放送は繰り返していた。救命ボートで脱出するように指示を出していた。

「さあ、いい。外へ出るわよ。ママの手を離さないようにするのよ」

 子供に言っているのか自分に言っているのかわからなくなった。

 

 美紀が和彦とリカに救命胴衣を着せて室外に出たときには、激しい風にベルサイユは木の葉のように揺れていた。大粒の雨が横殴りに降っていた。通路もドアも壁も濡れて、夜の闇に黒々と光っている。

 波の音、風の音、そして人間の叫び声。そういったものが一緒になって襲ってくる。何かが壊れる音。甲板を転がる音。きれいに閉じられてないドアが壁をうつ音。

 人はなすすべもなく、傾いた船上を右往左往する。やっと部屋からでてきた者のみが乾いた服を着ていた。しかし、それも五分とたたぬうちに、濡れてしまう。雨のせいもある。強風に運ばれた波のせいもある。しかし、濡れたからといって新しいのに着替えるわけにもいかず、濡れた衣服の中で震えているほかはなかった。

 耳にするもの、目にするもの、恐怖をもたらさないものはなかった。

「おーい。みんな急いで。甲板からボートに乗ってください」

 乗客を誘導しているのは乗務員である。乗務員も急なことで、制服を着る余裕もなかったのだろう。当直の者以外は思い思いの服装で乗客の誘導に努めていた。

「あっちだ。急げ、急げ」

「船が沈むぞ。早くボートに乗ろう」

 美紀は雑踏のような叫び声の中から、たしかに船が沈没しかけているということを、何度も聞いて、もはや疑いようのない事実だと認識した。そう思って、まわりを見ると、船は傾いたままで、大きく揺れているのだった。

「和彦、リカ、行くわよ」

 リカは二人に聞こえるように大きな声で叫ぶと、返事も待たずに歩き始めた。自分一人なら、走ることもできようが、今は両手に二人の子供の手を引いていた。特に右手でつかんでいるリカはまだ三才の女の子であるから、普通の道でも歩くのが遅いのに、ましてこのように嵐の中を傾いた船の上を歩いているのだから、気持ちばかりあせって、なかなか進みはしなかった。

「急げー。みんな急げー」

 甲板で叫ぶ声はますます激しくなる。風も雨も、ますます強くなる。

「さあ、リカ。元気をだして。和彦も頑張って」

 美紀も必死だった。船が揺れ、風に吹かれて何かにつかまらなければ、転げてしまいそうだった。

「和彦、手を離すわよ。ママの服をつかんで。離さないで」

 とにかくこの二人を救けなくては、と美紀は思った。空いた左手で手摺りやフェンスにつかまりながら、美紀はすこしずつ移動した。リカは雨にぬれて今にも泣きそうな顔をしていたが、だまってついてきている。和彦も険しい顔をして従った。

「はやく、ボートへ乗って」

 次から次へと救命ボートの方へ人は走っているが、雨と風の中で思うようにすすまず、互いにぶつかったり、斜めに走ったりしている。

 やっとボートが見えたとき、ふと見ると和彦がいない。美紀は頭がくらくらした。しかし、ここまできたのに、と思うと元気を出すしかなかった。うしろを振りかえると、少しうしろで転げている。

「リカ、ここにいて」

 美紀はリカを残して、和彦のほうをめがけて走りだした。ちょうどまんなかあたりにきたとき、また強い風が吹いた。

「キャアー!」

 激しい悲鳴が救命ボートのほうで響いた。足が滑った。美紀もよろめいた。

「ママ、恐いよ!」

 同じとき、リカも転倒し、甲板を滑っていた。しかし、美紀にはその声は聞こえなかった。

「和彦、和彦」

 和彦の手をとると、美紀は狂ったように、リカのところへと走った。長い髪は乱れて、顔を半分隠している。髪を伝った水滴は先端から滴れていた。

「リカ! リカ! どこにいるの?」

 まだリカを置いてきたところに近寄っていないのに、美紀は叫んだ。リカが見えない。見えないのは雨のせいかと思った。もう少し行けば、そこにいると思いながらも、美紀は胸が締めつけられるような気がした。和彦のことなどかまっていられなかった。和彦を引っ張るようにして、美紀は走った。

「リカ! リカ! どこなの?」

 リカを置いてきた位置に戻ったのに、リカはいない。美紀は自分が戻った位置がまちがったのではないかと思った。

「リカ! リカ! リカ! どこ? どこ? お願い返事をして」

「リカー! リカー! リカー!」

    

 和彦も必死で叫んだ。美紀は和彦の手を引いて動きながら叫んだ。しかし、リカはどこにも見えなかった。

「さあ早くボートに乗って」

 乗員が客をボートに誘導している。

「こちらですよ。急いで」

 近くにいた乗員が美紀と和彦を支えてボートのほうへ誘導した。

 救命ボートに近づくと、つい先程着水したボートがどんどんベルサイユから離れて行った。波が高く、その波にあわせてボートは激しく上下しながら揺れていた。

「さあ、急いで、急いで」

 あとからあとから甲板に出てきた乗客がうしろから押す。ロープに吊された救命ボートに、別の乗員が客をどんどんと乗せている。風でボートも揺れている。美紀は恐怖で頭がボーとした。乗員に誘導されるままに、和彦が乗った。

「さあ、奥さんどうぞ」

 次が美紀の番になった。

「リカ……。待って、娘がまだなのよ。リカがまだなのよ。私は乗れないわ。三才の娘がまだ残っているのよ」

 美紀は乗員の手を振りほどくようにして離した。美紀の後からイギリス人の男が続いていた。

「あの子をお願いします」

 美紀は涙をためた目を精一杯開いて、イギリス人に言った。

「和彦、先に行ってて。リカを捜してくるから」

 これだけ言うのがやっとだった。美紀はもう一度さっきの場所へ行ってみようと思った。さっき、リカを置いてきたところを目指して最後の力を出した。

「リカ! リカ! リカ! どこなの? どこなの?」

 美紀はよろめきながらも叫び続けた。雨は激しく降っている。髪を水滴が流れる。風に髪が舞う。美紀は絶望的な気持ちだった。

 リカを置いた場所に戻ってもやはり、リカはいない。

「リカー……

 美紀は泣きながらしゃがみ込んでしまった。しかし、長くは続かなかった。強い風が頬に雨滴をたたきつけたからである。

「ああ、リカもずぶぬれだわ」

 涙をぬぐうと、美紀は甲板をもう一度捜した。しかし、いない。船室のほうへ引き返したのだろうか。行ってみよう。美紀はどこでもいいとにかく行くほかに捜しようがなかったのだ。

 甲板へ向かう乗客とぶつかりそうになった。どんどんと船室から出てくるのだ。少し進めばかわし、少し進んではかわした。

「女の子を、三歳の女の子を知りませんか。女の子です」

 はじめのうちは出会う人に聞いていたが、だんだんと声がでなくなった。とにかく船室まで行ってみよう。それからもう一度もどればいい。美紀は大急ぎで船室に戻った。ベッドの上で震えているのではないかと思ったりしたが、すぐにありえないとも思った。

……リカ!」

 鍵をかけずに出てきた船室のドアを開けた。……しかし、やはり、リカはいなかった。 それからどのようにして再び甲板に出たのか美紀は覚えていなかった。すぐに甲板に引き返し、ボートの前を捜した。乗客を誘導している乗員にも聞いてみたが、覚えている者はいなかった。

 それでも、リカは甲板の上をを捜しながら、乗員に尋ねることをやめなかった。

「さあ、急いで。急いで」

 何度このことばを聞いたことだろう。

「奥さん、さあ早く」

 乗員が声をかけた。

「いえ、まだ娘がまだですから、……乗れません」 

 美紀は泣きながら、そう答えるしかなかった。

「もう奥さんだけです。みんな乗りました。お客さんはだれも残っていません。さあ早く。われわれも脱出します。さあ、急がないとベルサイユもまもなく沈みます」

「リカが、リカがまだなんです……

「もうだれも残ってはいません。お嬢さんもきっとボートで脱出しているでしょう」

 美紀は両腕をつかまれて、乗員に無理やりボートに乗せられた。

「リカー リカー リカー 」

 海面を向かって下りていくボートの中からベルサイユを見ながら、美紀は叫び続けていた。そして、ボートが着水するとともに、美紀は気を失った。

 美紀と乗員を乗せた最後の救命ボートが着水して間もなく、ベルサイユの巨体は黒い海の中へ沈んだ。嵐はおさまる気配はなかった。crystalrabbit

突発

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突発     420日                  

 

 窓を開けなくても暑くもなく、また寒くもない時候になった。桜の花こそ散って、緑の葉が豊かに樹木を覆っているが、スイトピー、桜草が、煌びやかに日の光を反射している。

 木口一枝は、今の季節が最も好きだった。なぜなら、自然の色彩と園児たちの表情が完全にマッチしているからである。園長になって三年目の春である。そろそろ自分なりのカラーを出してみたいと思っている。もちろん、二年間に何もしなかった訳ではない。節電によって浮いた経費を草花に費やして、一年中何かの花が咲いているようにしたのも、その一つである。また、先生方の仕事を減らすために、文書を減らした。しかし、このようなことではなくて、教育観ともいうべきものを、もっと全面に出してみたいと、昨年の秋ぐらいから考えていた。

「みんなで七人ですね。今の季節では、多いようね」

 さくら組担任の、川口佐恵が、欠席した園児の名前を記入し終わるのを待って口を開いたのは、園長の木口一枝である。

「昨日が3人ですし、何か流行っているのかも知れません」と、言って川口佐恵は慌ただしく、園児室のほうへと帰っていった。「はい、ご苦労さま」と、見送って園長席に戻ったが、少し気になった。慌ただしく出ていくのは、いつものことであったので、驚くにあたらないが、欠席者の数については、気になる。かといって、教育委員会に連絡するほどのことはない。

 去年の園務日誌を取り出した。スチールの園長机の後ろに並んだ黒い紐で綴じた書類の中から、最も新しい一冊を取り上げた。この頃は休みはそんなに多くない。「零、一、零、零、一・・」と同じ週の欠席者を、月曜日から数えた。

やはり、今年は多すぎる。念のため一昨年のも開いた。さらに前後二週間についても調べた。

 昨日三人休んだ。今日は七人休んでいる。

 冬場の風邪のシーズンならともかく、このようなことは珍しい。もっとも、麻疹などのような病気が流行すれば、園児が一度に休むこともないではないが・・・

 教育委員会から届く流行注意報なども特別なものは来ていない。これも念のため綴じてある書類を当たってみた。一月にインフルエンザについての流行注意,二月に麻疹の流行についてのものがあるだけだった。

 

 昼前になって三人が嘔吐した。

 

 園医の島本に電話した。三人が嘔吐した。

「今朝から保育園で何か食べさせたものはありませんか?」

「ええ,そういうのは一切ありませんわ」

「そうですか,それで様態のおかしいのは、園児三名だけですね」

「現在いる園児では、3人だけだが、他に7人が休んでいる。いつもより多い。」

「・・・帰らせたほうがいい。それも、個別に」

 感染症の流行の可能性があるので、園児を帰したほうがいい。それもできるだけ別々で。

すぐに、行く。

 園医に電話がかかった。園長から、電話がかかったとき、ちょうど外来はとぎれていたので、すぐに行くことにした。道々、考えた。もし、子供たちが園で何も食べずに、同時に3人も嘔吐したのなら、同じような病気に感染した可能性がある。

 

  園児はすぐに、入院した。入院か、通院かという迷いも何もあったものではない。医師の目の前で、見る見るうちに衰弱してゆく。こんなことは、初めてだ。小児科医として数年勤めてきたが、このような病気は診たことがない。患者対医師の場合は、患者を前にして弱音を吐くことは、自己の方針として極力避けてきた。もちろん、明らかに他の科に変わるべきときは、積極的に勧めてきたが、このような場合には明確な方針があった。しかし、今回の場合はどうだろうか。正直言って、手遅れに違いはない。でも、・・・診断すらつかないのだ。crystalrabbit