crystalrabbit

 

 雨上りの欝陶しい午後だった。私は長い電車の旅から一時的にも解放されたくて、接続している連絡船には乗らずに、そこで降りてしまった。

 駅のホームをたどたどしく歩いて、駅前に続く商店街のほうへと、私の足はひとりでに向かった。この街に、特別の思い出があるわけもなかったし、ここを歩く特別の理由があるわけでもなかった。私はただ、列車から降り、道路の上を歩いてみたいと思っただけだった。そのように自分の行動の理由を理解し、納得して途中下車したのだった。

 特別に何かを買うという目的があるわけではなかった。ただ、歩いてみたいと思うままに、商店街を歩いた。休日でもないのに、多くの人で賑わっていた。知った人がいるわけでもなかったが、それでも思い思いの服を着た人たちが、それぞれの足取りで動き回っているのが、生活の匂いがしてわたしの心をなごませた。暖かい色の照明や、向かいの商店の明かりが写っていなければ存在がわからないほどに磨きあげられた透明な大きなガラス窓を見ながら足を運んだ。

 商店街の突き当たりは、大きな棕櫚に囲まれた、ゆるいカーブを描いている小道が公園へと続いていた。わたしはそこでユーターンして、さっき来た方向へと引き返した。

 連絡船を待って、待合所のベンチに座って時刻表を眺めていたとき、私はふと隣の男が、私の時刻表を覗き込んでいるのに気づいた。その時刻表は小さな冊子になったもので、さきほど待合い所でもらったものだった。旅行会社の発行したもので裏表紙には全国の支社の住所が印刷されていた。

「どうぞ、ご覧下さい」

 その男の挙動に気づいたときには、嫌な気持ちがしたのに、私の口から出たのは、私自身が意外と思ったほどのやさしい言葉だった。それは私が、ほぼ三日間ほとんど話もせずに旅を続けて来たせいに違いなかった。もともと無口な私であるから、人と話をしないことには慣れているつもりであったが、さすがにこうして人がいるところに出てみると話したくなるというほどではないが、挨拶のひとつもしてみたくなるのだった。

 しかし、それはともかく、その男の反応は、私の思いに反していた。

「いえ、いいんです」

 日に焼けた頬には、疎らな髭が数ミリ伸びていた。黒くて精悍な目が、窪んだ眦の中で揺れていた。

「僕も見ましたから、どうぞ」

 さらに勧めていた自分の反応が、またしても私には意外だった。かつて他人に私がこれほどの親切を強要したことがあっただろうか。どちらかと言えば、人間関係においては淡々と生きてきた私が、こうまで身も知らずの他人に対して、このような行為をとったことには、深い訳があるようには思えなかった。

 ただ、この男の目が、私をそうさせた、というほかに適した言葉がみつからない。

「それでは……

 とひとこと言って、その男は私の差し出した小型の時刻表を受け取った。そして、静かに見つめた。最初は縁のほうを見つめていたが、目当ての場所がわかったのか、真中を凝視するように見てから、男はぽつりと話した。

「ちょうど一時間ですね」

 連絡船が、出航して対岸に着くまでの時間のことだと、咄嗟に理解した。

「ええ」

「ありがとうございました」

 男は不自然なほど深々と頭を下げて、立ち上がった。ちょうどそのとき、乗船を案内する声がスピーカーから慌ただしく流れだした。早口の、土地の訛りを含んだ声のせいか、あるいは機能だけしか考慮していない深みのない拡声器のせいか、いかにもせかしているように聞こえる。連絡船の出発までには、まだ十分余裕があるのに、反射的に立ち上がり、先を行く乗客に牽引されているかのように、ついつい急ぎ足になるのは、性に合わないなと思ったが桟橋という場所がもつ習性ではないかと思って、諦めた。

 

「お邪魔してよろしいでしょうか」

 先程の男だった。私はデッキで紙コップで買ったコーヒーを啜っていた。連絡船の後を追うようにして舞うユリカモメの白い羽を、飽くことなく見ていた目を上げて見るまでもなく、その男以外に、そのような鷹揚な話し方をするものが、この船に乗りあわせていることが考えられなかったからである。しかし私は、ユリカモメから目を離すことに、吝嗇なものを感じなかった。その男を断る理由などなかったからである。

 私は何も言わなかったが、目が既に許諾の返事を語っていた。男は私の向かいに、窓を右手にして座った。男の肩ごしには、あいかわらずユリカモメは行きつ戻りつしていた。

「先程からの重ね重ねの失礼をお許し下さい」重ね重ねの失礼? なんだ、こちらの不快感までわかっているのなら、話し掛けなければいいじゃないか、と私は思った。

「初対面でありながら、あなたには、聞いてもらえるような気持ちになりました」

 こう言って男は話し始めた。

 さて、かくいう私がなにものであるかということをお話しないといけないと思います。・・と、言っても私は、人様にお話できるほどの立派な人物でも何でもありません。むしろ、世間から隔絶したところでひっそりと棲むことこそ私には最も適したことではないかと思います。というのは、私自身が生きる目的も意義も見いだすことができずに、この生を自ら抹殺しようと思っていたからなのです。そうです、自殺をしようと思っていたのです。思っていた、すなわち過去形であります。そうして、ふらふらと南国の海に面した絶壁に立ったのでございます。・・しかし、できませんでした。恐い、というのではありません。恐いとか痛いだろうなあという思いは一度は持ちましたが、しかしそれは一瞬のことだろうと思うと、恐いとも痛いとも思わなくなりました。それならば、一思いに飛び込めばいいじゃあないかと、思うかもしれません。そうです、そのとおりなのです。皆さんが思うとおり、私もそう思いました。しかし、残念ながら、自分にはできませんでした。

 どうしても私にはできませんでした。しかし、一度決心したことですから、引き返すわけにもいかず、いろいろ悩みました。いっそうのこと死んでしまえば悩むことなどない筈であるのに、その死ぬことについてあれやこれやと悩むというのもおかしい話です。そのうち、今日死ねなくても、明日ならきっと死ねるのではないかと思ったりしました。こう思うと、変な話ですが、死ぬ勇気が湧いてきました。よし、明日はきっと死ねるだろう。快く死ねるだろう。こう思って私の心は霧が晴れたようにすっきりしました。

 元気を取り戻したというのもおかしな表現ですか、そのときの私の気持ちはまさにそうとしか言いようのないものだったのです。その、そうです。元気を取り戻した私は、明日は確実に死ねる、そしてそのために今日はゆっくりしよう、と決心しました。

 ずっとそこで機会の訪れるのを待っていたのです。

 そうこうするうちに、私は、私と同じ目的を持った人たちが、この絶壁に何人も訪れるのを知りました。そしてそういう人たちとは、何というか気持ちに通じるものがあって、一目見ただけで、それがわかるんです。

「あのう、身投げをなさりにいらっしたのですね」私が言うと、相手は静かにうなづきました。そして、少し手伝っていただきたいと言いました。私は、相手の言うままにお手伝いをしてあげました。

 二人目の方のときは、一人目の方をお手伝いした通りにやればよかったので、何も考えることはいりませんでした。

 ここにこうして立てばいいんですね。ええ、そこに目を瞑って立ち、そこで静かに十まで数えて下さい。十まで数えるうちにわたしが後ろから押してさし上げますから。

「ありがとう」

「さようなら」

 二人目のお手伝いが済んでからでしょうか。雲の流れ方や、空気の温度によって、何となく今日は、同じような悩みをもった人が来そうだというのが、わかるんですね。そういう日は、わたしもぶらぶらと出かけて行くんです。風の舞う岬に通じる遊歩道に沿って歩いていると、一人で歩いて来ている人に出会います。たいていの人が伏せ目がちに歩いていますが、私のことが気になると見えて、すれ違うときにちらりと目を上げて私のほうを見ます。私も相手を見ますが、やはりどんな人が来るかもわかりませんから、そんなにジロリと見るわけではありません。そっと、ほんの申し訳程度に相手の顔をみるだけです。もちろん、私には、その瞬間、この人がここに身投げをしに来た人だとわかりました。不思議なもので、私がかつて同じ思いをしたせいか、その人たちの目の中に自分の目と同じものを発見するのです。

 一年ほど後のことでした。

「あのう、これ、ふるさとの両親に宛てた遺書です。死ねるかどうかわからなかったものすから、とうとう出さずにここまで来てしまいました。でも、あなたの目を見ていたら、決心がつきました。私が死んだら、この封筒を投函していただきたいのですが……

 私より、五才は年上の女性でした。私にも、その女性が目的をもってここまでやってきたことが一目でわかりましたから、すれ違いざま声をかけられても驚くことはありませんでした。

 私は、ひきとめることも、また、よくするようにお手伝いすることもせず、ただ、黙ってその白い封筒を受け取りました。そして、その封筒を投函するポストを捜して、その断崖から遠ざかっていきました。近くの土産物売り場のへんにあると思ったポストは、私の思惑に反して、どこにもみつかりません。それでは私は、仕方がなくバスに乗って鉄道の駅のところまで戻れば、きっとポストのひとつくらいはあるだろうと見当をつけました。もしそこにもなかったら、駅員さんか誰かに尋ねて、郵便局までもって行ってもいいと重いました。しかし、幸い鉄道への乗り換え地でバスを降りると、すぐにポストは見つかりました。そして約束通りその封筒をポストに投函しました。ポストの口には封筒が半分以上入って、私が手を離す瞬間、私の背を電流のようなものが流れ、一瞬私は呼吸を停止していました。この瞬間に生者と死者が分かれ、先ほどまであった封筒は生者の側にあり、二度と死者の側に行くことはないのだと、確信しました。そしてた同時に、自分が生者の側のお手伝いをしたのだということに気づきました。これまでにしたことは、死者の側のお手伝いであったのに、ここで久しぶりに生者の側のお手伝いをしたのだということに気がついたのです。

 背丈ほどもある緑の草が風に揺れていました。その緑の色があまりにも濃かったものですから、私はしばらくそこに立ってみつめていました。

 一年くらいたった頃でしょうか、私はそれまでの自分とは異なる自分を見つめている自分に気がつきました。そのとき、私は何か変だな、と思いました。というのは、あれだけ生きることに消極的だった自分が、何か生きている実感のようなものを抱いていると気づいたからです。よく観察してみると、というよりも、静かに考えてみますと、自分は身投げできずに苦しんでいる人たちを幇助することによって、自分自身が生きることの意義を見いだしたように感じたのです。

 あれはいつの頃のことでしょうか。新聞の科学記事などめったに読むことのない私が、たまたま目にした記事のなかにこのようなのがありました。何もない空間から物質が飛び出すと、必ず反対の性質をもったもう一つの物質も飛び出してくるというものでした。私はその記事のことを思い出しました。太平洋に面した岬の上で二人の人間が互いに反対の方向へと飛び出して行っていたのですね。

 

「退屈なお話を最後まで聞いていただいて、ほんとうにありがとうございました」

 深々と頭を下げると、男はすっと立ち上がって、歩き始めた。と、同時に、またしてもスピーカーから売店の営業を終了するという案内の声がうるさく響き渉った。

 白いテーブルの上に紙コップがぽつんと置いたままになっている。テーブルの表面の白さに比べたら、紙コップは卵色のようなものだ。私の位置からは、紙コップの中まで見えた。冷めたコーヒーがわずかに残り、いかにも苦そうに見えた。ミルクが層になって表面を蔽っているのも、私の気持ちを侘しくした。底にはきっと砂糖が沈殿していて、残った苦いコーヒーを一息で飲めば、最後は舌のうえに甘味が残るだろう。その男はそのことを知って普通よりやや多めに残したのだろうか、と思った。crystalrabbit

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