ふり姫

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ふり姫

 

 一

 風がそよいでいる。日本海から吹き寄せる風である。

 潮風がとおりすぎると、またもとの冷気が館をおおう。

「お兄さま、このところお父さまのお顔がすぐれないようですが……

「戦のことは女子供は心配せずともよいわ」

 と、フノムシは言って笑った。

 兄はとりあわなかったものの、その笑顔の裏には何か隠しきれぬ不安があるように、ふり姫には思われた。

「そんなに隠し立てなさらなくともよろしいではありませんか」

 ふり姫は、これまでこのようなことがなかっただけに、怒りに似た気持ちを感じた。が、それを喉の奥で押さえておだやかに言った。

「いや、そういうわけではない。今はまだお父上も、決めかねていることだから、軽々しく言えぬということだ」

 フノムシはいつもにもなく、力なげに言った。

 やはり、何かある、とふり姫は思った。

「わかりました。それでは兄上も、お父さまがご心痛を軽減されますよう、協力なさってあげてください」

 と、ふり姫は優しく兄のほうを向いて言った。

「ああ、もちろんそうだも」

 フノムシは憮然と言い放った。

 ふり姫は、これ以上兄にこのことを今日は言うまいと思った。そして互いに分かれ、自分の部屋に戻った。

 目をあげると、九頭竜川の流れが見える。豊かな水量を川は静かに運ぶ。川面に接した柳の若枝が下流に流されては、枝の揚力でもとに戻っている。それが水面に反射して、幾種類もの柳があるように見えた。

 兄の、分かれぎわの冷たい言い方が、いつまでもふり姫の心を去らなかった。

 このような兄ではない。フノムシは父に劣らず豪気ではありながら、ふり姫には優しい兄だった。その兄にしては珍しいほどの苛立ちようではなかったか。それほど、今の事態が切迫しているのだろうか。あるいは、自分が何か誤ったことを言ったのだろうか。ふり姫にはわからなかった。

 戦は今までにも何度もあった。しかし、幼いふり姫には、そのことだけがおぼろげに理解されるだけで、戦いのようすはもちろんのこと、どこのだれと戦っているのかということすら、考えたことはなかった。そうしてみると、今回の戦はふり姫がものごころついて初めて体験する戦であった。

 坂中井は古くからの良港で、三尾氏を中心に栄えてきた。ふり姫の父のオワチ君の代になってからは、大陸との交易も盛んになり、日用品のみならず装飾品なども入ってきて、その賑わいは他国にまで喧伝されていた。 その富を狙った争いが何度もあったが、オウチ君の果敢な戦いで、敵に荒らされることなく現在の繁栄を維持していた。

 翌日のことである。

 ふり姫は父の居室を訪ねて、言った。

「お父さま、わらわを近江に行かしてください」

「ふり姫、何を……

「話は聞いております。わらわはもう子供ではありません。この度の戦のこと、人づてに承っております。どうかお父さま、ご心中を包みかくさずおっしゃって下さい」

 オワチは娘の凛々しさに、言葉をつまらせた。

 ふっくらとした頬は、秋の果実のような淡い紅を浮かべている。オオドはふり姫の横顔をにさす光をまぶしそうに見た。

「そうか、ならば話そう」

 と、オワチは言って、改めてふり姫のほうに向きなおった。

 ふり姫も、父の前に正座した。

 すずやかな目元からのびた鼻梁と、両耳に下がった碧色の玉が、均整のとれた三角形を形づくっていた。

 母のあなに姫は、静かに父の傍に座っていた。

「フノムシも、こちらへ呼んでくれ」

 あなに姫に向かって、父が声をかけると、母は立って出ていった。

 九頭竜川を流れる水の音が聞こえていた。父もふり姫も黙ったままで、静かに座っていた。

 その静寂を破ったのは兄のフノムシの声だった。

「父上何か・・」 

 そこにふり姫がいるにのを見つけたフノムシの顔が、瞬時にして緊張したのをふり姫は見逃さなかった。兄が気持ちをすぐに表情に出すのとは対照的に、母のあなに姫は顔色ひとつ変えずに、父の傍に座った。

「近江の国の息長氏がこの度の戦の相手だ。息長氏とはいっても、対岸の高島の別業にいるヒコヌシというものだ。なかなか手強い相手だ。今、戦えばこの坂中井が負けるのは明らかだから和議を申し出た。和議の条件として、ふり姫、そちを妻としてもらいたいと言うのじゃ」 

 オワチは苦しそうに、一言ずつ区切るように言った。

「近江にまいります」

 ふり姫は父の顔をまっすぐに見て、きっぱりと言った。

 父も顔をあげた。ふり姫の蒼白になった顔の中で頬の紅が異様にあかく見えた。

「近江の国などに行かせるせるために育てたのではない。ふり姫、そなたを近江の戦好きの男に嫁がせて、何の喜びがあろうぞ。わしたちは何のために働いてきたのだ。おまえたち二人の子供も含めて、みんなが楽しく生活できることを願って働いてきたのだ。それを強引にも、近江の国へ連れて行かれてたまるものか。断じて許せぬ。戦うぞ。戦うぞ」

 父は怒りに身を振るわせながら叫んだ。

「いいえお父さま、戦ってはなりませぬ。わらわひとりが、そのヒコヌシさまの妻となれば済むことです。戦ってはなりませぬ。今、戦ってこの坂中井が灰燼に帰したら、お父さまが営々と築いてこられたことが無になります。三尾の家が坂中井にあってこそ、平和で友好的な交易が維持されるのです。その恩恵によって人々の生活がうるおい、文化が生まれるのです。だからお父さま、わらわは行きます。行かせてください」

 ふり姫は落ち着いていた。父の怒りを沈めるためには、やさしく淡々と言うしかなかった。ふり姫の蒼白な顔は熱を帯びてやや上気した。

 父は肩で何度も大きく息をした。兄のフノムシは、堅く握った拳を膝の上に押しつけている。

 母のあなに姫は、父の傍に微動だにせず正座しているが、眼の下には涙がたまっていた。

 フノムシがあかくなった顔を小刻みに振った。

「たとえ身は近江にあろうとも、わらわの心は、坂中井にあることは、かわりません。九頭竜川の瀬音と日本海から吹いてくる風の音が、わらわの体内でこだまし続けるかぎり、身は屈しても心は征服されませぬ」

 ふり姫は、ふり絞るように言うと黙った。

「ふり姫・・」

 父の声は言葉にならなかった。母親は手で顔をおおった。

 

 湖水は靄っていた。

 向こう岸に、小さく集落が見える。湖水をわたる風が、漣を立てていた。その漣に写る葦の葉も、ゆるやかにそよいでいる。湖水の向こう岸にある人家が幻のように、霞んで見える。                             

「ふり姫か。うわさに違(たが)わぬよき、女子(おなご)じゃ」

 ひこうしは目も口も大きく開けて、笑った。ふり姫は、顔が破けるのではないかと、一瞬思った。しかし、すぐに口は閉じられた。

 屈託のない笑顔である。日に焼けた顔が光っている。

 この人ではないか、とふり姫は思った。心の中で長い間あたためていた人というのはこの人ではないか、とふり姫は思った。具体的な形ではないが、憧れは幼いころからあったと思う。それが成長するにつれて異性という形でさらに明瞭になり、次第しだいに、心の片隅で成長しはじめる。しかし、これは決して具体的な像となって意識することはない。それが、今、ひこうしの屈託のない笑顔をみて、にわかにふり姫の意識に昇ってきた。この人に違いない。自分が心に育てた人は、きっとこの人に違いないと、ふり姫は確信した。

 坂中井の館で,両親と兄を前にして述べて決意をふり姫は思いだした。心は征服されぬと。しかし,今,近江の暴れ者を前にして,やすやすと心が捕らわれていくような気持ちになった。crystalrabbit

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