まこ

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まこ

 

 鎌倉の由比が浜海岸がから北へ少し入ったところの高台に、さして立派でもないが小さなお堂があった。流円坊というひとりの修業僧がこのお堂に住んでいた。修業僧とはいうものの、この世のことがつくづく厭になったので、ここで独り暮らしているというだけのことである。

 世間では、出家したとか、いろいろ言っているらしいが、当の本人には、出家も何もなかった。ただ、その日その日を生きているだけだった。

 はじめの頃は、その修業の姿もたいそう立派で、またいろいろと自戒した言葉などを里の人々に授けていたものだから、人々にたいそう慕われていたことは言うまでもない。しかし、流円坊は由緒ある寺院で深く学問をしたわけでなく、また読書などしない人であったから、説教の種も尽き、人々からあまり相手にされなくなった。

 人間というものはいつの時代においても大きく変わるものではない。現金なもので、里人も、流円坊を敬わなくなると、それまでに流円坊に届けていた日々の糧とする蔬菜なども、近ごろでは届けるものもめっきり減った。

 春の暖かい日であった。流円坊は濡れ縁に横になって、柔らかい陽射しを浴びて気持ちよさそうに青空を眺めていた。青空には、所々に白い雲が綿のように小さな塊をなして浮いていた。その雲は白一色で澄みきった青空に映えて、清新の気を増していた。

 その雲を見ていると、青い空に吸い込まれそうになる。そのままうとうとと眠ることもある。

 別に流円坊が年をとったからというわけではないが、最近とくに昼間から眠くなることがおおかった。里人の訪れがめっきり減ったせいもあって、流円坊はこうして昼間から濡れ縁に横になってうとうとする日が多くなった。

 この里には、夜になるとやってきて、布団の中にはいってくる人懐こい珍しい動物がいた。まこと言って猫に似ていたが、身体はもっと大きくて子どもの半分ほどあった。しかし、人を襲うということはなく、猫同様きわめておとなしい動物であった。

 流円坊は何事にもこだわらぬたちの男であったから、まこが来ても意に介さなかった。まこにとってはきわめて扱いやすい人間とみえて、よくじゃれついた。冬の夜などは、だまっていても流円坊の布団の中に入って、暖をとった。そして猫のように喉をぐるぐる鳴らしながら寝ていた。

 時々、流円坊の背中を前足で引っ掻くように擦った。ちょうど背中の手が届かないところであったので、流円坊は心地よく、まこのするままにさせていた。背中が痒いときも痒くないときも、まこはこのようにして、よく流円坊の背中を掻いた。

 そのまこがやってくるのが、村人と同じように最近減った。まこのような動物にも人の心がわかるものだろうか、と不思議がったものである。そしてとうとう全く姿を現さなくなった。だから、背中が痒いときは流円坊は、自分の手を背中にまわして掻くしかなかったので、随分苦しんだ。そして、ふと口を開いたて、漏らした。

「まこの手がほしいな」

 それを聞いた村人のうちのある者が、後日、竹の先を曲げた物をつくり、流円坊に差し出した。

「これをまこの手の代わりに使われるとよろしいでしょう」

 その時以来、他の村人たちも、その先の曲がった竹の棒を「まこの手」と呼ぶようになった。いつしか、それに漢字を当てて「孫の手」と記すようになった。crystalrabbit