crystalrabbit

 

 船上から見る夕日は美しかった。はるか西の水平線に沈む夕日はいつもより小さく見えるが、あたりを真っ赤に染めて静かに沈んでいく。昼間はあんなに青かった海も色を失って小波にゆれている。しかし、西の海だけは赤く燃えていた。水平線にかかる雲のせいか太陽は緋色になり、周囲の一面が赤い炎のようにゆらめいていた。ベルサイユが南へ進むほど、夕日が雄大になっていくのだろうか、と美紀は思った。

 しかし、それにしても今日の夕日は特別にすばらしい。じっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうだ。もし、この見ているのが船の上ではなくて、どこかの島の海岸なら、そのまま海の中へ入って行きそうに思われた。それを阻んでいるのは、この船の囲いと、静かに伝わるエンジン音のせいではないかと思った。

 大自然というのは私などが知らない、偉大で神秘的なものをもっともっともっているのだろうと思った。そして、こんな素晴らしい夕日を見ると人生の最大の感動を経験してしまったような気持ちになった。それはまた、もういつ死んでもいいという気持ちでもあった。

「和彦、リカ。いらっしゃい」

 船室の中で本を読んでいる二人を促して、美紀はデッキに登った。

「きれいな夕日よ。ご覧なさい。もうじき、お日さまが沈んでしまうわ」

「わあ、すごい夕焼け。お兄ちゃん見て」

 和彦はリカに言われなくても、もうさっきからじっと夕日を目で追っていた。

 リカは、兄が何も言わないのも気にせず、母と兄と同じようにじっと夕日を眺めていた。美紀は、二人の後からしゃがむと、二人の頭の間ぐらいのところへ自分の顔をもっていき、両手でふたりを抱いた。

 美紀は、その夜のディナーでワインを少し飲みすぎた。そして自分たちの部屋に帰るとすぐに横になった。夕日のせいだわ、と小さく言って笑った。モンマルトルの丘で見た夕日を思い出した。夕日はやはり美しかったが、夕日をまともに取り上げる自信はなかった。夕日に映る白い家並みを描くのがやっとだった。

 子供たちはいつの間にか眠っている。パジャマの胸元から揃いの小さなロケットがだらりとたれ下がっている。どこかから揃いのロケットを買ってきたシュノン。シュノンとの出会いも、モンマルトルの丘だった。あの頃のことが思い出されて無性に懐かしい。感傷的な気持ちになるのは、ワインのせいだろうか、いや夕日のせいに違いない、と思った。いつしか美紀も眠りについていた。

 美紀が目覚めとき、船が大きく揺れたように感じたのと、船内がいつになく慌ただしいように思ったのは同時だった。何事だろうか。船室に備えつけられている船内放送のスピーカーが何か言っているようだが、咄嗟のことでよくわからない。

 室外では汽笛もなっている。バタンバタンという音。人の動く音。激しい揺れ。何があったのだろうか。衝突だろうか。そうこうしているうちに、船内放送の声が聞き取れた。救命胴衣を着用するように言っている。

 急がなければ、と美紀は思った。

「和彦、リカ起きて、起きて」

 美紀は必死で叫んだ。この子らを守のは自分しかいない。しっかりしなければ。美紀は自分を励ますように、声を上げた。

「和彦はやくして。リカを起こして。大変なの」

 何が大変なのかは自分にもわからない。とにかく大変なことが起こったということだけがわかるのである。美紀は救命胴衣を棚から引っ張りだした。

「和彦、これを着るのよ、自分で着て。ママはリカに着せるから」

 救命胴衣の一つを和彦に渡したが、和彦もまごついている。外の騒ぎはますます大きくなる。船が少し傾いているのだろうか。揺れが大きくてよくわからないが、そんな気がする。

「リカ、しっかりして。ここに掴まっていてね。和彦、着れた?」

「うん、着れたよ」

 美紀は和彦の救命胴衣を固く結んでから、自分のを着けた。

「二人とも靴をはいて。急いで」

 またしても、美紀はリカの手伝いをしながら、自分も一番近くにあったローヒールを履いた。和彦は自分で履いていた。その間にも船内放送は繰り返していた。救命ボートで脱出するように指示を出していた。

「さあ、いい。外へ出るわよ。ママの手を離さないようにするのよ」

 子供に言っているのか自分に言っているのかわからなくなった。

 

 美紀が和彦とリカに救命胴衣を着せて室外に出たときには、激しい風にベルサイユは木の葉のように揺れていた。大粒の雨が横殴りに降っていた。通路もドアも壁も濡れて、夜の闇に黒々と光っている。

 波の音、風の音、そして人間の叫び声。そういったものが一緒になって襲ってくる。何かが壊れる音。甲板を転がる音。きれいに閉じられてないドアが壁をうつ音。

 人はなすすべもなく、傾いた船上を右往左往する。やっと部屋からでてきた者のみが乾いた服を着ていた。しかし、それも五分とたたぬうちに、濡れてしまう。雨のせいもある。強風に運ばれた波のせいもある。しかし、濡れたからといって新しいのに着替えるわけにもいかず、濡れた衣服の中で震えているほかはなかった。

 耳にするもの、目にするもの、恐怖をもたらさないものはなかった。

「おーい。みんな急いで。甲板からボートに乗ってください」

 乗客を誘導しているのは乗務員である。乗務員も急なことで、制服を着る余裕もなかったのだろう。当直の者以外は思い思いの服装で乗客の誘導に努めていた。

「あっちだ。急げ、急げ」

「船が沈むぞ。早くボートに乗ろう」

 美紀は雑踏のような叫び声の中から、たしかに船が沈没しかけているということを、何度も聞いて、もはや疑いようのない事実だと認識した。そう思って、まわりを見ると、船は傾いたままで、大きく揺れているのだった。

「和彦、リカ、行くわよ」

 リカは二人に聞こえるように大きな声で叫ぶと、返事も待たずに歩き始めた。自分一人なら、走ることもできようが、今は両手に二人の子供の手を引いていた。特に右手でつかんでいるリカはまだ三才の女の子であるから、普通の道でも歩くのが遅いのに、ましてこのように嵐の中を傾いた船の上を歩いているのだから、気持ちばかりあせって、なかなか進みはしなかった。

「急げー。みんな急げー」

 甲板で叫ぶ声はますます激しくなる。風も雨も、ますます強くなる。

「さあ、リカ。元気をだして。和彦も頑張って」

 美紀も必死だった。船が揺れ、風に吹かれて何かにつかまらなければ、転げてしまいそうだった。

「和彦、手を離すわよ。ママの服をつかんで。離さないで」

 とにかくこの二人を救けなくては、と美紀は思った。空いた左手で手摺りやフェンスにつかまりながら、美紀はすこしずつ移動した。リカは雨にぬれて今にも泣きそうな顔をしていたが、だまってついてきている。和彦も険しい顔をして従った。

「はやく、ボートへ乗って」

 次から次へと救命ボートの方へ人は走っているが、雨と風の中で思うようにすすまず、互いにぶつかったり、斜めに走ったりしている。

 やっとボートが見えたとき、ふと見ると和彦がいない。美紀は頭がくらくらした。しかし、ここまできたのに、と思うと元気を出すしかなかった。うしろを振りかえると、少しうしろで転げている。

「リカ、ここにいて」

 美紀はリカを残して、和彦のほうをめがけて走りだした。ちょうどまんなかあたりにきたとき、また強い風が吹いた。

「キャアー!」

 激しい悲鳴が救命ボートのほうで響いた。足が滑った。美紀もよろめいた。

「ママ、恐いよ!」

 同じとき、リカも転倒し、甲板を滑っていた。しかし、美紀にはその声は聞こえなかった。

「和彦、和彦」

 和彦の手をとると、美紀は狂ったように、リカのところへと走った。長い髪は乱れて、顔を半分隠している。髪を伝った水滴は先端から滴れていた。

「リカ! リカ! どこにいるの?」

 まだリカを置いてきたところに近寄っていないのに、美紀は叫んだ。リカが見えない。見えないのは雨のせいかと思った。もう少し行けば、そこにいると思いながらも、美紀は胸が締めつけられるような気がした。和彦のことなどかまっていられなかった。和彦を引っ張るようにして、美紀は走った。

「リカ! リカ! どこなの?」

 リカを置いてきた位置に戻ったのに、リカはいない。美紀は自分が戻った位置がまちがったのではないかと思った。

「リカ! リカ! リカ! どこ? どこ? お願い返事をして」

「リカー! リカー! リカー!」

    

 和彦も必死で叫んだ。美紀は和彦の手を引いて動きながら叫んだ。しかし、リカはどこにも見えなかった。

「さあ早くボートに乗って」

 乗員が客をボートに誘導している。

「こちらですよ。急いで」

 近くにいた乗員が美紀と和彦を支えてボートのほうへ誘導した。

 救命ボートに近づくと、つい先程着水したボートがどんどんベルサイユから離れて行った。波が高く、その波にあわせてボートは激しく上下しながら揺れていた。

「さあ、急いで、急いで」

 あとからあとから甲板に出てきた乗客がうしろから押す。ロープに吊された救命ボートに、別の乗員が客をどんどんと乗せている。風でボートも揺れている。美紀は恐怖で頭がボーとした。乗員に誘導されるままに、和彦が乗った。

「さあ、奥さんどうぞ」

 次が美紀の番になった。

「リカ……。待って、娘がまだなのよ。リカがまだなのよ。私は乗れないわ。三才の娘がまだ残っているのよ」

 美紀は乗員の手を振りほどくようにして離した。美紀の後からイギリス人の男が続いていた。

「あの子をお願いします」

 美紀は涙をためた目を精一杯開いて、イギリス人に言った。

「和彦、先に行ってて。リカを捜してくるから」

 これだけ言うのがやっとだった。美紀はもう一度さっきの場所へ行ってみようと思った。さっき、リカを置いてきたところを目指して最後の力を出した。

「リカ! リカ! リカ! どこなの? どこなの?」

 美紀はよろめきながらも叫び続けた。雨は激しく降っている。髪を水滴が流れる。風に髪が舞う。美紀は絶望的な気持ちだった。

 リカを置いた場所に戻ってもやはり、リカはいない。

「リカー……

 美紀は泣きながらしゃがみ込んでしまった。しかし、長くは続かなかった。強い風が頬に雨滴をたたきつけたからである。

「ああ、リカもずぶぬれだわ」

 涙をぬぐうと、美紀は甲板をもう一度捜した。しかし、いない。船室のほうへ引き返したのだろうか。行ってみよう。美紀はどこでもいいとにかく行くほかに捜しようがなかったのだ。

 甲板へ向かう乗客とぶつかりそうになった。どんどんと船室から出てくるのだ。少し進めばかわし、少し進んではかわした。

「女の子を、三歳の女の子を知りませんか。女の子です」

 はじめのうちは出会う人に聞いていたが、だんだんと声がでなくなった。とにかく船室まで行ってみよう。それからもう一度もどればいい。美紀は大急ぎで船室に戻った。ベッドの上で震えているのではないかと思ったりしたが、すぐにありえないとも思った。

……リカ!」

 鍵をかけずに出てきた船室のドアを開けた。……しかし、やはり、リカはいなかった。 それからどのようにして再び甲板に出たのか美紀は覚えていなかった。すぐに甲板に引き返し、ボートの前を捜した。乗客を誘導している乗員にも聞いてみたが、覚えている者はいなかった。

 それでも、リカは甲板の上をを捜しながら、乗員に尋ねることをやめなかった。

「さあ、急いで。急いで」

 何度このことばを聞いたことだろう。

「奥さん、さあ早く」

 乗員が声をかけた。

「いえ、まだ娘がまだですから、……乗れません」 

 美紀は泣きながら、そう答えるしかなかった。

「もう奥さんだけです。みんな乗りました。お客さんはだれも残っていません。さあ早く。われわれも脱出します。さあ、急がないとベルサイユもまもなく沈みます」

「リカが、リカがまだなんです……

「もうだれも残ってはいません。お嬢さんもきっとボートで脱出しているでしょう」

 美紀は両腕をつかまれて、乗員に無理やりボートに乗せられた。

「リカー リカー リカー 」

 海面を向かって下りていくボートの中からベルサイユを見ながら、美紀は叫び続けていた。そして、ボートが着水するとともに、美紀は気を失った。

 美紀と乗員を乗せた最後の救命ボートが着水して間もなく、ベルサイユの巨体は黒い海の中へ沈んだ。嵐はおさまる気配はなかった。crystalrabbit

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