生月島

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生月島(いきつきしま)   —せとうち抄—

                            

 教育委員会の村瀬さんから、生月島へ行ってみないかという電話があったのは、春霞で遠目が効かない日が続いていた頃のことだった。佐賀県生月島から、電話があって、私どもの関係者の墓が出てきたというのだ。村瀬さんは、郷土史も手がけているので、是非私と一緒に行きたいと言った。

 村瀬さんは年度頭初で忙しいが、五月の中旬頃ならどうかということだった。その頃には私も何とかなるように思ったので、一応は同意しておいた。

 ことのなりゆきは、こうだった。教育委員会のほうへ、生月島から電話があって、備後田島の住人の墓石が発見されたということが知らされた。その一つに茂森というのがあり、茂森という姓は現在田島では、我が家しかないので、村瀬さんが私を誘ったということである。

 村瀬さんから電話を受けたとき、私は、子供の頃に聞いた先祖のことを思いだした。何代か前の先祖かは、はっきりとはわからないが、平戸あたりまで出稼ぎに行っていたという話だ。鯨採りに行っていたという話もあり、いや鯨を捕る網を修理に行っていただけだという話しも聞いたことがあった。

 だから、平戸の生月島から田島の茂森姓の墓が見つかったという話を聞いたとき、すぐに我が家に関係したものに間違いないと思った。

 後で、系図を出して、調べてみると私から遡って五代前の当主の兄に当たる人のことだと分かった。そこには「長男太吉 平戸にて没」と書かれてあるだけであるが、これが五十年ほど前に、祖父から聞いた人のことだと思う。

 その頃は、この田島から九州まで、鯨取りの出稼ぎに行っていたという。この長男も例外ではない。若くして、平戸へ行ったものと想像された。

 この死んだ太吉は長男だったが、出稼ぎ先で亡くなったので、結局次男が跡を継いだことになっている。その後は、ずっと長男が継いで、私まで至る。

 

 村瀬さんと、生月島に着いたときは、日は西にやや傾いて静かな海面を銀色に染めていた。車で平戸から、生月島へと渡ったとき、太吉がはるばるとこの地まで来て、ここで鯨取りに加わったのかと思うと胸が熱くなった。波穏やかな瀬戸内の小島から遠く隔たった日本海の荒海を前にした太吉の思いはいかばかりであっただろうかと思う。田島の若者たちが、生月島は来たのは、その鯨網を作る技術が高く買われてのことであったが、なかには海上で鯨と格闘したものもいなかったわけではなかろう。

 太吉の墓は海の向うに平戸島の見える斜面にあった。笹藪に半分以上が覆われ、道路から近いとはいえ、人目につかないところにあったので、早晩忘れられてしまうかもしれない。お参りする人も滅多にないことだろうと思われた。しかし、ここの墓はこの地の歴史を物語るものだから、完全に撤去するわけにはいかないだろうから、分骨するということにした。しかし、古い墓を掘り返すことも、死者への非礼にあたるから、墓石のまわりの土を少し掘ってもって帰った。

 それに生月島では、イトという女性から太吉へ出した手紙が一通残っているということで、今回それをもらって帰った。長く保存され、地元における歴史資料として保管して下さったものであるから、頂いて帰るのはコピーでいいと申し上げたのだが、正式な持ち主は私であるからと、固持されたので、コピーを残して、実物は持って帰った。

 それによると、四月の次の帰省のとき、祝言をあげる予定であったということ、仲人とお宮参り、安産の祈願までしてきたという内容だった。

 

 生月島から帰ってしばらくした日、町でも高齢者の冨吉じいさんが、ひよっこり訪ねてきた。

「太吉さんの墓へ参ってきなさったそうじゃの。太吉さんのことは、うちの爺さんから聞いたことがあるんよ。惜しいことに向こうで亡くなったんよの」

 冨吉じいさんのことは、狭い島のことだから、名前ぐらいは知っていたが、深い交際があったわけではない。それでも、この前行った生月島のことだったので、その話を聞くことにした。

 冨吉じいさんの祖父と、我が家の先祖の茂森太吉は年齢も近く一緒に鯨取りに行っていた。太吉のほうが何事につけ上手で、冨吉じいさんの祖父である冨安は、太吉の世話になったということは、今でも伝わっているという。

 さらに驚いたことによると、太吉と祝言を上げる予定だったイトは、太吉の死後、冨安と結婚し、その子が冨吉じいさんの家系へと連なるということであった。

 太吉の突然の死とイトの失意、その後の経緯は知る由もないが、悲しみに耐えそれを乗り越えていった一人の女性がいたということは間違いのないことであろう。

 生月島の海に沈む日が、改めて思い出された。crystalrabbit