春雷

crystalrabbit

春雷

                        

 若葉がそよ風に静かにゆれている。校庭の周囲をめぐるプラタナスの若葉が、春のやわらかい日に映えて、薄緑色に輝いている。

 その若葉が、小きざみに、そしてゆっくりと葉全体でゆれている。紋白蝶が一匹どこからともなく翔んできて、緑のその葉先に停まろうとしたが、なかなかバランスがとれなくて、諦めて向こうの方へ飛び去った。 

 時おり、お城の方から暖かい風が、静かに流れている。

 日が照っているうちは、初夏の訪れさえ感じられるのに、ひとたび太陽光線が雲で遮られると、膚に寒さが感じられる。

 風向きによっても異なるのだが、遠くの方から自動車の通過する音が、風に運ばれてくる。大型トラックが青信号で出発するときのような音が一番大きい。そして、時々自動車の警笛がそれに混ざる。

 教室では、自動車の音はほとんど聞こえない。耳を澄ませば、微かに聞こえてそれとわかる。しかし、学校のある場所のことを考えると、随分と静かな学校だといってよかった。 高さ三メートルほどの石垣が土手のようにグランドの周囲を巡っており、その上に生茂っている潅木が、外からの音の侵入を防いでいた。また、その石垣のこちら側には、楡やプラタナスの木々が、若葉をこんもりとつけて立ちはだかっており、これらもまた静かな雰囲気作りに役立っていた。そんな訳で、ひとたび校門をくぐってみると実に静かで、郊外か山間の学校にでも来たような印象を抱くほどの恵まれた環境が、この学校の自慢だった。

 晩春の臈長けた日に照らされて、天守閣の甍が陽炎の中で燻し銀のように光っている。あたかも夢幻能でも見ているかのような、仄かな気持ちに見ているものを誘うのは陽炎のせいだけではない。すべてが、ものうく眠気を誘っていた。その背景をなす空はといえば、細く棚引いている薄雲の他には、青一色に澄みわたっている。

 頬をやさしく撫でる微風の中に感じる草いきれに似た感じは、お堀の水がぬるんで異常に繁茂した緑藻のせいに違いない、と思った。しかし、そう思うのは、先ほどランニングでお堀端をまわったとき目にした、水の色があまりにも濃くて、その緑がいまだに頭の中に残っているからかもしれなかった。

 六限は体育だった。軽い準備体操を終えて、まずランニングである。グランドを一周して裏門のほうから出ると、すぐにお堀端に出た。途中、松や躑躅の植え込まれた広場を過ぎると、お堀端を散歩道が巡っている。楓や山桃がところどころにある他は、大人の脛ほどの低木が大部分で、満開の躑躅や柘植の向こうに、陽春に輝くお堀を見ることができた。 ランニングは少々きつかった。学校のすぐ近くの公園を体育の時間や、放課後に走ることができるのだと思ったとき、木川裕美はこの学校を選んでよかったと思った。そう思っているうちに、ランニングの苦しさも気にならなくなった。

 お堀の藻は、折からの陽気で新緑のように濃く染まり、餌を求めて回遊する白鳥の泳いだ後には、二つのさざ波がV字形に分かれて水面を走った。息苦しさを陽気が消した。頬を伝う汗の感触が水鳥が泳いでいる水の冷たさを連想させて、胸一杯に広がった。何だか体育の時間であるよりも、ピクニックにでも行っているような感じだ。身体の働きとは無関係に、頭の中は随分安らかな感じであった。 お堀端をちょうど半周した当たりで、Uターンした。少し行くと大手門にさしかかるが、そこまでは行かない。先ほど出た裏門から入り、グランドをまっすぐに突き抜けた。

 赤い瓦の建物が図書館で、その前を一直線にプラタナスが並び、豊かな木陰をつくっている。そのプラタナスに対して直角に、メタセコイアが図書館を囲むように並んでいる。大きな樹は、かなりの樹齢を数えるものらしく、幹は根元の方から空に向かって太々と伸びている。

 グランドを囲む樹木と、建物の間にある樹木のすべてを数えたわけではないが、青々と繁ったこれらの木が、学校に入った途端に目につき、落ち着いた物静かな雰囲気を醸し出していることは確かだった。学校のすぐ近くに、お城と、それを囲むお堀端公園があるというのも裕美が気に入ったところだが、校内にある多くの樹木と、それのつくる木陰の形も、裕美は好きだった。

 図書館の前のプラタナスの木陰に来て、止まった。

 入学以来ずっと、体育の時間はランニングから始まっているので、もう教師の合図がなくても、生徒は機械人形のように、いつものコースを走る。そしてグランドへ戻って来ると、これまた、同じところで休憩をとる。

 少しずつ日差しが強くなった。ちょうど四月に入学してから、除々に学校に慣れていくのと同じように、季節は春から夏に変わり、少しずつ暑くなった。

 五月といっても、連日晴れた日が続いて、屋外にいると、夏を感じさせるほど、日は強かった。直射日光があたると、動いていなくても汗が浮いてくる。しかし、日影は、温度が低くて涼しかった。静かに通過する五月の風は、さわやかな冷気を運んだ。

 プラタナスの樹影の下で、しばらく休んだ。はじめのうちは、荒い呼吸を整えるのが精一杯で、ただせわしげに息を吐く音が、木の葉が風にそよぐ音を消していた。

 しかし、五分もしないうちに、頬を伝う汗も引き、大きく息をするたびに、上下していた肩の運動が静かになるにつれて、生徒たちの間から少しずつ話し声がもれ始めた。

 木川裕美が県立城西高校に入学して、やがて一ト月が過ぎようとしている。いま、裕美の脳裏に、あわだたしく過ぎ去った一ト月の出来事が彩やかに甦える。最初は、見るもの聞くものすべてが珍しく、全てが新しい体験で、あっという間に一ト月が過ぎ去った。今ではどうにか高校生活にも慣れ、こうして過ぎ去っていく日々のことを、思い返すゆとりさえ出てきた。

 高校に入って最初に感じたのは、先生方の服装が小ざっぱりしていることであった。年齢は中学校のときの先生方に較べて、そんなに若いというわけでもなかったが、ネクタイをきちんと結んで、生き生きとした仕草が随分若々しく見えたものである。

 それは、授業が始まってみて、一時間に進む学習内容の量や、黒板の使用頻度が、中学校に較べて比較にならない程多いのに驚いたとき、若々しく見えるのも当然だと思ったものである。一時間にこなす量が多くて、黒板に何度も書いては消す。それに動きも速くて、中学校の先生よりもはるかによく動いている。

 特に数学の授業などは、一時間に黒板を五回も六回も書き換えている。これでは教師も活動的にならざるを得まいと思った。

 また、中学校に較べて女性の先生の少ないのも、驚きだった。後になって知ったことだが、家庭科と音楽、それに体育の一人、それに国語と英語が各一人で、合計六名しかいないというのも驚きだった。

 中学校のときは先生方の三分二近くが女性であったから、少しさみしい気持ちになった。 担任の先生も、もちろん男性であった。裕美の担任が独身だからといって、格別うれしいとは思わなかったが、そのように思う女生徒が何人かいると思うだけで、クラスの雰囲気が、随分違ってきているのではないかと思った。そのことのほうが、裕美にはうれしかった。

 そして、担任の教師が独身男性だからといって、はしゃげる生徒たちの明朗さと快活さがうらやましかった。あの人たちのように、できるだけ明るくふるまおうと努力しようと、裕美は思った。

 しかし、なかなか難しいものだと思う。担任が独身だからといって、素直にはしゃぐことのできる彼女らが、すこしすすんでいて、自分がそこまで成長していないのだろうかと思いたい。あるいは、もって生まれた性格なのだから、よほどの強い意志でもなければ、少しのことでは、変えられないだろうと思ったりする。

 担任の先生は城西高校の卒業生で、去年大学を出たばかりだということであった。

「僕が、一年六組を担任することになりました、大木です。僕はこの学校の卒業生です。ということは、みんなが僕の後輩にあたるわけです。去年大学を卒業してすぐに、母校に戻って来たわけですから、よその学校での経験というものはありません。まあ、そんなこは別にして、これから一年間みなさんと楽しくやっていこうと思っております……

 と、担任教師から自己紹介されたとき、やはりこの学校に来てよかった、と裕美は思ったものである。

 担任の大木秋夫は、長身でやや細身の、年齢のわりのは老けて見える、どちらかというと、暗い感じのする教員であった。快活でいつも冗談が飛び出すというような型ではなかったから、キャアキャアと騒ぎたてる生徒たちには、少々もの足りなかったかもしれないが、裕美にとっては、むしろそのほうが誠実な感じがして好ましく思えた。今でも裕美は、担任の大木と最初に話を交わした一回目の個人懇談のことを、はっきり覚えている。

 四月の終わり頃のことだった。懇談は入学式の翌々日からはじまり、数人ずつおこなわれた。裕美の番が来たころには、入学式直後におこなわれた実力考査の結果も出ていた。 英語と数学の得点がかなり上位のほうだったので、裕美が将来美大に進学したいというのを、大木は少し残念がった。

「絵は好きですか?」

 と、当たり前のことを、大木は尋ねた。大木には、裕美が美大を受験しようと思うのが、予想外であったらしい。

「はい……

「そうだったら、美術部にも……、絵はいつ頃からやっているのですか? あ、お母さんが、中学校の先生ですね。何を教えておられるのですか?」

「美術です」

「あー、それでですか?」

 裕美がはいと答えるのを待たずに、目を見て否定の意志表示がないとわかると、どんどんと話をすすめていく。

「はい」と言ってみたくても、どの質問に答えてよいのやらわからない。

 次は何を言えばいいのか、考える間も与えず、

「美術部へは、一週間にどれくらい行っているの?」

 と尋ねられて少し間をおいてくれたので、やっと裕美は答えることができた。

「一応、月水金が活動日ですけれど、毎日行ってもいいのです。それで、時々は土曜日にも行きます」

「ところで、僕の考えでは、この調子で努力すれば、国立大学の文学部くらいだったら行けると思いますけど、その気があってもなくても、今の成績を下げないように努力しなさい。それでは」

 と言って大木が立ち上がったので、裕美も「ありがとうございました」

と言って部屋を出た。

 最初の面談ということもあって、緊張していたせいか、ほんの二、三分しかたっていないような気がしたが、時計を見ると、もう三時五十分である。十五分以上話したことになる。そのうちの大半は大木が話していたことになる。早口というわけではないが、次から次へといろいろなことを話すので、聞いているほうとしては、結構忙しい。しかし、話し方にかた苦しさがなくて、友達どうしの会話のような調子にもっていくのが、裕美には好ましく思われた。ふと気がつくと、自分までその気持ちになって話しており、時々思わず語調を正したものである。

 だから、入学以来裕美が抱いていた担任への印象は、ますます安心して頼れるというという気持ちになった。

 大木の言った国立大学の文学部というのも、言われてみれば考えてみたくなるが、しかし、自分にとっては美術はやはり捨てるわけにはいかない。

 高校になって、いままであまり好きではなかった国語、なかでも現代国語が、おもしろくなった。家に帰ってから、学校で紹介された小説などを読んでみても、今までの読書とは違った感動を得るようになっていた。

 中学校時代も、学校や母にすすめられた本をよく読んでいたが、それらはただ与えられるままに読んでいただけであって、決して自分からすすんで読もうとしていたのではなかった。

 しかし、今は違う。次から次へと読んでみたくなるのである。ただ、全体のバランスをとるために、あるいは一人よがりにならぬために、推薦されたものを少しずつ読むが、一冊読むと自分でもふしぎなくらい、同じ著者の他の本が読んでみたくなる。

 そして二、三冊読んでいるうちに、まったく系統の異なる本が読みたくなって、それらに移っていく、という調子なのである。

 だから、現代国語の時間も知らずしらずのうちに好きになっていた。

 現代国語の授業で、文学作品やその他の色々な文章を詳しく読んでいくと、普段の授業では見落としがちな発見があるものである。 そして文章というものは、日本語というものは、こういうふうに読まれるべきものであるのかと、いつも思うのであった。

 授業中はもちろんのこと、今では現代国語そして文章というものは、日本語というものは、こういうふうに読まれるべきものであるのかと、いつも思うのであった。

 授業中はもちろんのこと、今では現代国語のある日が待遠しいし、学校に行ってもその時間が来るのが待遠しい。

 これは裕美にとっては不思議なことだった。中学のときは英語と社会が好きであったが、それでもこれほどではなかった。ただ、家で勉強しただけの成果が成績に表れるものだから、おのずと好きになり、ますます勉強したというだけのことである。

 数学は成績は良いほうだったが、一度も好きな教科だと意識したことはない。ただ、成績がよかったというだけである。

 裕美のいままでの経験は、この程度のものであるから、今、現代国語がこんなに好きになっている自分が不思議だったし、また何か怖いような気がした。

 果たして学校の勉強というのが、本当に好きになるということがあるものだろうか、と考えてしまう。学校の授業というのは、いわば目の前を、エスカレーターに乗った料理が通過していくようなものだ。もちろん、料理はそれなりに凝っている。しかし、それを食べようと思う間もなく、次の料理が視野の片隅に発見される。……すべてが台無しなのだ。人はそのエスカレーターの回転をただ見送るだけであろう。さもなくば、人は満腹になるか、あるいは発狂するかの、どちらかであろう。

 ああ、そんなものを美味しいと感じる自分は一体何なんだ。ああ、おぞましい。自ら探し求めたものではなく、ただ棚ぼた式に与えられた知識の片々。そういうものに食指を動かすとは。考えれば考えるほど、自分というものがわからなくなった。

 高校生になって生活環境ががらりと変わり、いろいろな新しい体験を重ねるたびに、自分が今までの自分とはまったく異なった自分になっているような気持ちが、かすかにするのである。

 現代国語が好きになった自分を意識するごとに裕美は、担任の大木先生が懇談のときおっしゃられた「文学部くらいなら……」という言葉が生々しく記憶の中に甦るのを感じた。今のところ文学部などに行こうという考えは全くないが、将来自分の考えがそちらの方に変わっていくのではないかしらと思うと、いやな暗示のように思えてしかたがなかった。だから、その思いを打ち消すように、裕美は美術のほうがずっと好きだわ、と自分に言い聞かせたのだった。

 自分で自分に言い聞かせるまでもなく、裕美はほんとうに美術が好きだった。本物の絵や画集を見るのももちろん好きであったが、絵筆を握ることが何よりも好きであった。

 裕美は物心ついた時には絵を描いていた。 母は日曜日になると、裕美と兄の重夫をつれて写生に行った。近くの公園や、山や川べりなど、いろいろな所へつれて行った。

 母が以前に話してくれたことによると、裕美がまだ言葉も十分に話せないうちから絵筆を動かす母の姿を見て、しきりとねだるので、スケッチブックと鉛筆を与えたところ、飽くことなく、縦横の線を描き続けていたということである。

 そして年齢とともに次第に形あるものを描くようになって、幼稚園の頃には母と並んで画架に向かって写生などしていたのだそうである。

 だから裕美自身にも、いつから自分が絵を描きはじめたのかはわからない。

 そしていつの頃から絵を描いていたのであろうかと、記憶を辿ってみても、川べりの公園で、黄ばんだ木々を母の傍らで描いている幼き日の自分をかすかに思いだすだけなのであった。

 物心ついた時は、既に絵を描くことが好きだった。そして、より以上に母と一緒に絵を描きに行くことが好きだった。というのは、母のそばに画架を並べて、キャンパスに向かうこと自体が好きだったのである。

 だから裕美は、ずっとずっと小さい頃から絵が好きなのである。そして今でも絵が好きなのである。

 今まで、好きなこと、得意なこと、この世で一番大切なもの……などということを尋ねられても、ただ絵を描くことだと答えるしかなかった。

 ちょうど母というイメージから、裕美の母親だけが浮かび、決して他の女性と、母というイメージを重ね合わせることができないのと同じであった。

 ……それが今、にわかに国語が好きになったのであるから、この変化を自分でもどう説明していいのかわからなかった。ただ、いくら国語が好きになっても、自分はそれ以上に美術が好きだし、このまま好きであり続けたいと強く思った。まして、文学部などに行くことは、今の自分には考えられないことだった。

 今日は部活動の日である。今週は掃除当番にあたっていないから、体育が終わったら、すぐに行けばいい。しかし、掃除をしているので、あまり早く行っても美術教室で待たないといけないので、ゆっくりと行けばいいと思う。

 五月のやわらかいそよ風が、うなじを軽くかすめていくのがここちよい。勉強は何とかついていけるし、なによりも美術部で遅くまで絵をかけるのが楽しい。やはりこの高校に来てよかったと思った。裕美がそよ風に吹かれながら、ひとり幸福感にひたっているうちに、ふと気がつくと、周囲ではいつもの呼吸のしかたにもどった生徒が少しずつ雑談を始めている。英語や数学の授業の進度のこと、クラスの男性のこと、ピアノのおけいこのこと……少しずつ会話の渦が大きくなっていく。 少し休むと、教師の合図で全員が立ち上がり、砂場のほうに駆けて行った。走り幅とびの練習である。

 毎年、春と秋の二回ずつ、スポーツテストというのがあって、記録をとる。それによって一人ひとりの成長の跡や、体力の向上を跡づけようというのである。走り幅飛び走り高飛び、千メートル走、三段飛び、跳躍……の各種目を四月から順に測定していき、最高の値を記録していくのであった。

 練習は、体育の時間内ならば思う存分できたが、測定は三回しか許されていないので、おのずと練習に力が入る。普通の測定でさえ真剣ににならざるを得ないのに、三年間同じ、一枚のカードに記録されるとなれば、できるだけ努力して自己の記録の更新に努めざるを得ない。

 今日は練習日になっており、必ずしも記録をとる必要はなかったが、スケジュールを迅速にこなすために、早くも記録をとっている生徒もいた。裕美はどうしょうかと、少し迷ったが、空をみると、次第に暗い雲が頭上に拡がってきて、今にも降りそうな気配になっているので、次回にすることにした。

 さっきまで、初夏を思わせるような、澄んだ青空が雄大に拡がっていたのに、にわかに厚い雲がおおってきた。雨になるかもしれない、と思う気持ちは誰でも同じらしく、それぞれに空を見上げたり、天を仰いだままぐるりと一周して、どこかに回復する兆しを捜そうとする顔もみられた。

 また裕美の後ろのほうでは、まだ降りもしないのに「どうしょうかな、自転車を置いてバスで帰ろうかな」などと、早くも下校のときのこと考えている生徒もあった。裕美もレインコートはいつも自転車に積んであるが、今日はバスで帰ろうかと思ったりする。いや、帰るまでに降らなければ、自転車で帰ろうか。もし途中で降り出したら、レインコートを着ればいい。だから、降りそうでこのまま帰るときまで降っていなければ、美術部の練習はお休みにして、六限が終わったらすぐに帰ろうか、と思ったりする。

 そうこう思案しているうちに、ポツリポツリと水滴らしいものが降り出したかと思うと、雨は次第に強くなってきた。体育の時間の終了までには十分近くもあったが、今雨宿りしても、再開するわけにもいかぬと悟った教師は、あわてて生徒に指示した。

「少し早いが解散しよう。濡れないように急いで入るように」

 次第に強くなる雨を避けるように、小走りに生徒は、更衣室のほうへと向かった。雨足は激しくなり、空も暗くなった。更衣室の中は蛍光燈をつけないと、夕刻を思わせるほどの暗さだった。

 全員が更衣室に着いたころ、激しい稲妻が一瞬空を駆け巡った。まもなくどよめきに似た音響が周囲にこだました。続いて低い連打の音が遠くを走った。

 きゃーという声に続いて嬌声に似た声が部屋の中に響いた。

 今度のは少し遠くの山のほうに稲光が走り、戸外が一瞬明るくなった。

 それにしても最初の雷の音には驚いた。いつもなら遠くのほうでゴロゴロと音がして、心の準備もできた頃に近づいてくるのに、さっきのは、何の前触れもなしにいきなり光ったと思うとドーンであるから、まったく命が縮まる思いだった。こういう思いは裕美だけのものではなく、あちこちから聞こえる雑談からも伺えた。

 雨が降る前に帰ろうと思っていたのであるが、もう降り出してしまったのだから、部活動を休んでまで帰る意味はなくなったのだ、と思うと、裕美は急に美術部へ行ってみたくなった。先程、といっても、この夕だちのような雷雨のくる前のことだから、ほんの数十分前のことでも、随分以前の出来事のように思えるのであるが、青空を眺めながら木陰の下で考えていたことを思い出したからだ。国語がいくら好きになったといっても、やはり自分は美術が好きだ。ずっとずっと前から、記憶にも辿ることのできぬほど幼いころから親しんできた美術を、今更嫌いになるわけにもいかぬ、とでも言いたいような、いわば宿命的な愛着を美術にたいして抱いているのであった。

 だから、今になって他の教科が好きになったり、他のものに興味が移ろうとすると、意地になってでも自分の気持ちを美術に繋ぎとめておきたいのかもしれなかった。また、裕美にとっての美術への愛着は、母への愛と分かち難くむすびついているのかもしれなかった。

 裕美は母が好きである。父ももちろん好きだし尊敬に値する立派な父だと思っている。しかし、女として自分の将来の生きかたを考えたとき、やはり母のような生き方を自分は選ぶしかないような気がする。そういう意味で裕美にとっては、母は単に好きだというだけの存在でなく、一つの生きかたとしての確固たる存在であったのである。だから母は敬慕の対象でもあるし、同時に先達でもあったのだ。

 鞄をとりにホームルーム教室に戻った。既に授業を終えている男子生徒のうち三人が箒をもって机の間を掃いていた。後ろの机では当番の生徒が四人で笑いあっている。教員の口真似らしきことを剽軽な生徒がやってみせ、とりまき連中が笑いころげているのだ。しかし、口真似のほうはよく聞き取れなくて、誰の口真似をしたのかはわからなった。裕美より少し早く教室に戻った女生徒の一部は、そうじ道具をとって、男子がそうじした後をぶつぶつ言いながら掃きはじめた。机の間だけ掃いて、椅子の下にゴミや砂ぼこりがたくさん残っていると文句を言っているのである。 同じ中学校からきた鈴木雪絵が、バケツに水を汲んできた。雑巾で黒板の桟を拭きながら、そばにいた男子に向かって、

「井上クーン、どこか部に入ったぁ? まだならブラスに入らない?」

 と話しかけている。

 鈴木雪絵はとても明るい子で、小学校の時からブラスバンドをやっている。たいへん音感がよくて、ピアノはもちろんのこと、たいていの楽器はこなすが、中学のときはサックスを受け持っていた。裕美とは大の仲よしというほどのことでないが、中学二年のとき同じクラスになり知りあった。文化祭のとき、クラス作品の展示を協力してやって以来よく話をする。学校の勉強よりも音楽が好きというタイプで、やはり勉強よりも絵ばかり描いている裕美とどこか通じるものがあるのか、いまでもよく話はする。

 しかし鈴木雪絵の性格はどちらかというと社交型で、誰とでもすぐに打ち解けて話をするほうで、裕美も単なるその相手に過ぎなかったのかもしれない。しかし、彼女にはなんとなく人を楽しくさせる雰囲気があって、裕美も時々ああいうような性格であったらいいと思ったこともあった。裕美がいるのに気がついて、

「あ、裕美、いたの? 雨って嫌ね。美術部するの? 私、今日はブラスは止めにしておくわ。遅くなるとバスが込むでしょ」

 と、男子生徒の返事が返ってこないので、裕美のほうへ話しかけてきた。

「ええ、少しだけだけれど、行くわ。それじゃまたね」

 と裕美は言って立ち上がった。

「じゃ、バイバイ」

……ね、井上君……

 という声を背後に聞きながら、裕美は美術室のほうへ歩いた。

 一年E組のホームルーム教室が中の校舎の三階にあり、美術教室は、南館の三階の端にある。しかし、三階と三階の間には渡り廊下はなく、一度二階まで降りて南館に渡って、もう一度一階分上がらなければならない。おまけに二階の渡り廊下は、屋根がついていないので、雨の日には困る。鞄の中にある傘を出そうと思ったが、ちょうど雨も小降りになっていたので、傘をささずに走ることにした。少し走ればあまり濡れはすまいと思った。  階段を上がって美術教室に入ってみると、何人かは既に来ていて、雑談をしたり、デッサンをしたりしていた。二年生の田村さんと、前田さんの仲のよい二人は、いつものように二人で椅子を並べて、机の上に置かれた花瓶を写生していた。二人は美術部でも評判のカップルで、一年のときからクラスも同じで、幸い二年になっても同じクラスになって、いつも一緒にいるということだった。だから、美術部の練習に来るのも一緒なら、帰るのもたいてい一緒である。この前、二人が先に帰ったあと、同じ二年生の男子が、ユーモアを交えて半分嫉いているような口ぶりで話したのが、裕美にも聞こえた。二人ともいつも帰りはお堀端を歩いてバスセンターまで行って、そこで前田さんがバスにのり、井上さんが自転車で帰るのだそうである。いつものことな

ので、誰も気にしないし、むしろどちらかが一人で帰っていたら、周りの人が、何事があったのだろうかと、不思議がるのだそうだ。 裕美が美術部に入ってからは、二人はずっと静物を描いている。いつも並んで座って、時々、どちらかともなく話しかけて互いに批判したり、感想を述べたりしている。どちらがうまいというのでもなく、お互いに練習しているという感じだった。先輩の話では女性である前田さんのほうが、少しうまいということである。

 裕美が四月以来描いているアグリッパの石膏像は、一緒に描いている町田由美子が今日はまだ来ていないせいか、準備室に置かれてたままである。デッサン用の各種の胸像、彫像、静物は、準備室のほうにあり、必要に応じて教室に持ち出しては、適当な机の上に於いてスケッチしたりすることにしている。いつもたいてい、町田由美子のほうが早く、裕美は後からきて、それをスケッチするのであるが、今日は雨になったので、町田はすでに帰ったのかもしれないと思った。

 外はまだ雨である。さっきまで小降りだったのに、再び激しく音を立てて降り出した。遠くのほうで雷が低く鳴った。さきほどの頭上で爆発したような大音響に比べれば、もう消えてしまったようなものであった。

 考えてみれば、四月に入学して最初の雨らしい雨である。一週間目くらいに、パラパラと散らついたが、幸い下校時には止んでいたし、夜になって少し降った日も何日かあったが、たいていは朝まで続かなかった。だから、登下校に差し支えるような雨は今日がはじめてだった。母が心配しているだろうなと裕美は思った。でも、早く帰ったところで、母はいない。家に居て、濡れずに帰ったのを見て安心してくれる訳でもないのだから、結局早く帰っても、遅くなっても同じだと思う。でも、ほんとうはこんな日には早く帰って、「あら、もう帰ったの? あまり濡れてないようね、よかったわ。濡れるとかわいそうだと思って今心配していたところなの」と言ってくれる母親がいたらいいと思う。今までにも何度かそう思った。でも今では慣れっこになってしまったし、女性が仕事をもつということが大変なことだということが少しはわかるような気がするので、この程度のことは、自分が我慢しなければならないと思う。

 裕美は日曜日はよく母親と写生に行った。これは、ずっとずっと小さいころからの習慣だったから、自分がいつごろから絵を描きはじめたのか覚えていないのと同様、いつごろから母とこうして写生を楽しむようになったのかも覚えてはいない。ただ覚えているのは、ずっと小さいころから休みになると、家族そろって写生に行っていたということくらいのものである。それが、兄の重夫が中学校に入ったころからだんだんと絵から離れていき、それに歩調をあわせるように、父も一緒に来なくなった。

 電気技師である父と母は、同じ町の出身で、その町にあった絵画教室で小学校のときから知っていた仲だということを以前聞いたことがある。そのころは、父の才能は非常に高く評価されていて、将来を嘱望されていた。しかし、父は周囲の期待とは裏腹に、美術学校に進学せずに、工業学校に行って、電気技師になってしまった。しかし、趣味で時々絵を描いており、母と結婚してからもよく一緒に写生に行っていたのである。しかし、最近では、兄と父はめったに絵を描かない。裕美と母だけで写生に行くことが多くなった。母と画架を並べて一日中写生に耽った。夏の暑いときや、真冬はさすがに回数も減ったが、秋や春の天気のよい休日は、たいてい母と一緒であった。

 朝、九時過ぎに出かけて十一時ごろまで描くと家に帰って、午後からまた出かけて四時過ぎまで写生をする。時にはー特に家から近いところでは、母だけが帰って、裕美は一人で少し遅くまで描き続けていたこともあった。

 だから、裕美にとっては、絵を描くということと、母と一緒にいるということは同じことだった。母を好きなのと、絵が好きだということが同じ意味をもつのだった。

 雨はまだやまない。窓の外のプラタナスメタセコイアの樹を、雨がゆっくりと伝って落ちる。

 高校に入って初めての雨らしい雨である。窓から見る景色も、いつもとまったく趣が異なり、今まで住んでいた世界とは別の世界のように思われる。向こうの同窓会館の壁も、いつもとは違う色に見える。全てが、非日常的世界なのだ。自分の生きている世界は、唯一絶対の世界ではなく、こういう世界ももっていて、その半分が昼間、特に晴れた日に見る太陽光線の下で見る世界なのだと、改めて意識した。

 外から入ってくる光線も弱く、室内の明かりが、いつもより相対的に強く、影の部分がより明瞭に見える。

    

 アグリッパについてはローマ時代の軍人と聞いただけであって、詳しいことはわからない。この顔の彫りの深い、若い青年の静止した形をただひたすら、画用紙の上にデッサンすればよい。白い紙の上に濃い鉛筆で、濃淡だけで写していく。一見単純に見える作業、果てしのないような作業。しかし、裕美はデッサンも嫌いではなかった。

 戸外に出て、季節ごとに変わる木や、太陽の強さによって反射の仕方の異なる橋やビルを写生するのと同じように、まっ白な異国の、それも昔の人間の影を写すことも楽しいことであった。対象と、それを見つめる自分。そして紙上に様々に再現されていく目前の人物。三次元的なものを二次元の世界へ、明と暗を濃淡へ、と移しかえていく作業に自分自身のやすらぎと、安息を感じるのだった。一つひとつの陰影を記していくことが、そのまま、時の流れを少しずつ留めているような気持ちになる。そして、それは自分を時の中に融解して、そのまま時の流れと一体化しているような感じだ。ーいわば自己の永遠化を体験している、と自分では思う。それが描くということではないのか、と雨の中で裕美は考えてみる。そして考えながら手はひとりでにデッサンを続けている。

 そうしているうちにも、入り口の戸を開けて、数人の部員が入ってくる。開始時刻というのは、別段決まっていないから、いつから始めてもいい。六限が近くの教室であったものは、すぐに部活動に入れるし、そうじのない生徒も、教室からまっすぐに美術教室に来ればよい。しかし、部活動に入るまえに、教室で、課題を写させてもらったり、ロング・ホームルームのうちあわせをしたりしていると、部活動を始めるのが相当遅れる。運動部だったら少々やりにくかろうが、美術部はその点きわめて気楽である。しかし、水曜日の三時半から、部会が予定されており、その日はたいていの部員が集まることになっている。部長が司会をして、予算や合宿をはじめ各種の行事を話し合うことになっている。これまではもっぱら、新入部員の紹介と、年度内の計画を話しあった。五月の連休に全員で写生大会に行くことも決定された。

 部の運営は二年生が中心となって、色々な仕事を分担してやっているらしいが、裕美には、その組織がまだよくわからなかった。そのうちにわかるだろう。それに裕美の場合には、将来美大に進むことがはっきりしていたのだから、当然高校でも美術部に入って、できるかぎり絵の修業をしたいと思っているので、あまりそういうことには関心は強くなかった。

 もちろん、美術部に入ることについては、一番に母に相談した。母は、ことさら何かを言いはしなかったが、美術が好きなら続ければいいし、ほかに何かやってみたいことがあれば、それもよかろうと言ってくれた。裕美は、音楽系のサークルに入って、ギターかマンドリンを習ってもいいなと思ったが、そうかといって美術が嫌いになったわけではないのだから、他のことをやることによって、絵を描いたりする時間が減ることが心配だった。また、あまり器用な自分ではないので、趣味としても美術に専念し、もっともっと技術を向上させることが自分にとって一番いいのではないかと思って、結局、四月に入学すると、すぐに美術部に入った。

 生活に慣れてくると、デッサンや写生をしている時間ももちろん楽しいが、学校生活そのものも結構楽しいと感じるようになった。 ただ、最近では無性に小説が読みたくて、学校で課される様々なレポート・練習等を済ませると、自由になる時間があまりにも少ないのが、何か残念な気がしている。もっと時間があればいいのにと思う。

 また、中学生のころはもっとのんびりと生活していたような気がしてなつかしい。あのころは、好きな時に絵を描いておればよかった。絵の具の色は昼と夜では、かなり異なるからなるべく夜には描かないようにしているが、それでも興にまかせて、一週間絵ばっかり描いていたこともある。また、デッサンや鉛筆によるスケッチは好きで、これまた二時間も三時間も描いていた。もちろんその間、学校の勉強はそっちのけである。予習や復習は毎日規則正しく行うというのではなく、特別の課題や定期考査の前に少しおさらいをする程度であった。そういう生活で、学校の授業についていけないということもなく、授業がわからなくて退屈するということもなかった。

 あのころはほんとうによかったと思う。今考えてみると、それは無意識に日々を送り得たという良さではないかと思う。もちろん、何も考えずに日々を送るということはあり得ないのだから、無意識といっても、いろいろなことを考えていた。ただ、人生に対して、また、自分に対して考えることが今ほど明

なことを考えていた。ただ、人生に対して、また、自分に対して考えることが今ほど明確でなかったから、やはり、今ほど自分に対して意識しているとはいえないような日々であった。

 それにひきかえ、今の生活というのは、生きることに対して意識しはじめたーすなわち、人生とは何だろうか、生きるとはどういうことだろう、と問いかける自分を見つめることができる。今思えば、小学校を終えて中学校に入学したころ、何か新しい世界を発見したような気がした。しかし、それが自分にとってなぜ新しい世界なのか、ということはよくわからなかった。ただ、小学校では一年間一人の担任に全ての教科を教えてもらっていたのが、中学校になると、各教科にそれぞれを専門とする先生がいて、毎時間、教科が変わると、先生のほうも別の方になるという、制度が新しくなったということが自覚されただけだった。しかし、いまはっきりと、この

制度の変遷に伴い、自分の心も変わっていったのだということがわかる。高校生になって今までより遠いところまで通って来ることによって、おのずと行動半径が広がってきたので、自分の住んでいる世界というものが、少しではあるが、よくわかるようになった。それに学校で履修する教科の特殊性も、また、自分の成長にとって大きく作用しているに違いなかった。中学校のとき理科の第一分野と第二分野に分かれていたものが、物理、化学、生物、地学と分化され、高校一年では生物と地学を学習することになった。また、社会科は、倫理とか、日本史や世界史というように分かれてしまった。

 中学生から高校生になるということは、単に学校を変わるのではないことがわかる。教科の中身はもちろんのこと、学習の仕方そのものが、ひどく異なる。中学校のときは、ただ机に座って頭さえ上げておれば、八割は理解できた。しかし、今はそういう訳にはいかない。

 一回聞いただけでは覚えきれないほどの量を毎日習う。また、説明を聞いても、わからないようなことが次から次へと出て来る。そして、自分の頭を全部使ってやっと理解できたと思ったら、また次の事柄で行きづまる。こういうとどまることのない新しい考え方の洪水に、中学生ではないのだと、否がおうでも思わないではいられない。また、先生の生徒に接する態度も、中学校のときと随分違っているように思えた。中学校のときは一時間に学習る量も、きわめて少なかったせいか、一つひとつの事項の設明にしても、理解の度合いを生徒一人ひとりに確かめながら進んでいくという具合であった。それが、高校の授業は一部の例外を除くと、大部分の先生は、生徒の反応とはおかまいなく、次から次へと新しいことを説明していく。まるで、わからないのは、生徒が悪いのだといわんばかりに。こういう調子だから、予習復習はもちろん、授業中の頭の働かせ方にも、相当工夫が必要であると感じた。黒板に書かれたことを、ただノートに写すだけでは、半分も理解したことにはならない。一つひとつの事柄を、自分で絶えず確認して次の事項にすすむという意識を、きわめて明確に働かせていないと、次の説明がさらにわかりにくくなる。

 このような内容の変化に対して、裕美は、高校生としての自覚という程のものではないにしても、明確な決意を強いられたような気がしたものだ。高校というところは、自分で学ぼうとする意識がないと、すぐに置いていかれてしまうという、恐怖心に似た感情とともに、少しでも自分でやろうという、決心も生じた。そして、ひたすらこの一ヶ月間、自分はやってきたような気がする。

 これが当たり前なのだと思う。知りたいことが、たくさんある。たくさんありすぎて、困るほどである。それらの全てに、高校の授業が答えを与えてくれる訳ではないが、その何分の一かが少しずつ、自分のものになっているような気がする。時には、いや、大部分の高校の授業で出てくるようなものは、自分自身にとってそれほど重要なものではないように思われる。しかし、それでも、それらのものが、新しく自分の世界に引きよせられるにつれて、自分の世界が、少しずつ広がっていくように思えた。そして、社会に対して、人生に対して、全てではないにしても、少しずつ、自分にはそれが理解できるようになっていくような気がした。

 読書についても、同じことがいえた。国語の時間や、社会の時間にすすめられた本を、少しは読んできた。それぞれ、何かを考えさせられたり、新しい発見があって、やはり本を読まなければ、と思ったものであった。しかし、それでもそれらが自分にとって全てではなかった。依然として、世界や、また自分をとりまく社会は、わからぬままであった。ただ、それを考える自分というものが、少しずつ柔軟な思考ができるようになっていっているのではないかと思われた。

 それでいいのだ。結局、どんな問題にしても、自分で考えるしかないのだと思った。

 ……二Bの鉛筆をもった手は、かなり正確に、アグリッパの胸像を写しとっているのに、頭の中は、それとは関係なく、いろいろなことにとらわれてしまう。多分、雨のせいかもしれなかった。

 雨は少しやんだようだ。春の日は静かに暮れていく。それも、いつもより早く……

「すみません、木川君はおりませんか」

 と、いう声が教室の入りでしたので、裕美がふりかえった。担任の大木先生だった。走って来たらしく、息をはずませている。

「はい」

 裕美は、思わずと鋭い声をあげて、立ち上がった。大木はすぐに裕美のほうに近づいてきたので、裕美も一、二歩入り口のほうへ歩いた。

「木川君、大変だ。お父さんが事故にあわれた。すぐに県立病院のほうへ行きなさい。玄関のところにタクシーを呼んである」

 こういう大木の声を聞いたとき、裕美は、一体、何が起こったのか、よくわからなかった。

 裕美が、気をとりなおしたのは、タクシーが、神谷町の交差点を通過してからのことであった。外は既に暗く、ビルの下を行き交う自動車は、黄や赤のランプだけが、くっきりと浮いて見えた。裕美は何が起こったのかを、もう一度考えてみようと思った。

 美術教室で、大木から県立病院へ行くように言われても、どうしていいのかわからなかった。ただ、立っている裕美を見て、大木は即座に、

「カバンは?」

 と、言って裕美が座っていたほうに目をやった。やっとのことで裕美が自分の鞄を示すと、大木は、みずから持ち上げて、

「さあ!」

 と、裕美を促した。

 裕美は、一緒にアグリッパをデッサンしていた部員に、

「申し訳ないけど、あとはお願いね」

 と、言うのが精一杯であった。

「ええ、いいわ。急いで! じゃあね」

 と、言う声のやさしさに裕美の胸は熱くなった。そして大木に引っ張られるようにして、玄関まで行ってみると、クリーム色のタクシーが待っていた。大木は後部座席に、裕美を押し込むように座らせると、鞄を傍らに置いた。

 裕美は、何を言っていいかわからず、大木の顔を見つめた。大木はほんのわずかの間ではあるが、裕美の顔を見て、すぐにポケットから財布を取り出し、千円冊を二枚裕美に手わたした。また、運転手のほうに顔をまわして

「県立病院へ大至急お願いします」

 と、告げた。

 そして、今度は裕美のほうを向いて

「受け付けに行くんだ!」

 と、言い終わらぬうちに、後ろに身を引いた。その動作は無言のうちに、運転手に出発を告げたことになった。運転手は自動ドアを締めると同時に発車させた。正門を出て左折し、児童公園のそばをぬけると、県庁前に出る。それまでに、二、三回信号で止まった。 反対車線を郊外線の路線バスが数台続いて通過した。高校生もかなり乗っている。

 このあたりは、裕美にとっては、いつもの通学路ではないので、この時間にここを通ることはない。こんなに多くの高校生が、早く帰るのをみて、驚いた。裕美には、もっと多くの高校生が部活動をしており、もっと遅く家路につくのではないのだろうかと思っていた。

 さっきまで降っていた雨で、道路はかなり濡れている。しかし、タクシーはいつもと変わらないほどのスピードで走った。普通の乗用車、商用車、トラック等様々な車の間をぬって産業道路まできたとき、放送局の前でまた赤信号になった。安全地帯にに植えられている椿の木やクロガネモチの樹木は、それぞれが若葉を出しかけている。その若葉に水滴が当たって、いっそうあざやかな緑が、次第に暮れてゆく空の色を黒々と映している。信号が緑になって、ふたたびタクシーが動きだした。産業道路を横切るとき、西の空を見上げると、灰色の雲の切れ間を夕陽の残照が、薄い丹の色に染めていた。さっきまでの雨は、もうこれ以上降らないのかもしれない、と思った。

 このへんは人通りもまばらで、舗道を歩いている人も、ほんの数えるほどしかいない。路面電車がすれちがって行く。電車の中では高校生や中学生が立って、おぼろな目で暮れゆく街を眺めていた。

 産業道路を過ぎると、たそがれの町を、タクシーは流れるように走った。対向車の前照燈が静かに流れた。

 県立病院でもあるし、また学校にまでわざわざ連絡があるくらいだから、ちょっと外傷というほどのものではないと考えられた。 

クシーは流れるように走った。対向車の前照燈が静かに流れた。

 県立病院でもあるし、また学校にまでわざわざ連絡があるくらいだから、ちょっと外傷というほどのものではないと考えられた。  たいしたことがなければよいがと思う。母はもう着いているのだろうか。母が先に着いてから、裕美に連絡してきたのだろうか。

 電気技師の父は、ビルの建設現場などで作業することが多い。しかし、事故などにあったことは今までになかった。だから、仕事中の事故を考えるのは難しかった。あるいは、交通事故だろうか、と思った。どうしたのだろうか? どちらにしても今までこういうことがなかっただけに、裕美の驚きは人一倍大きかった。また不安感が時間とともに増大していくのが、自分でもわかった。

 タクシーは路面電車と並行して走り、南町の三叉路までは、すべての信号が緑で順調にすすんだ。雨はやんでいるものの、路面が濡れているのと、いつもより暗いので、行き交う人々がいつもにもなく慌ただしそうに見えた。

 車道に面して、スーパー・マーケットがあり、随分込みあっている。パチンコ店のネオンが、大きく点滅する。そこだけが異様に明るいので、他のところが、ますます暗く見える。……やっとタクシーは走りはじめた。ここまで来ると、右折してすぐだと思う。一度叔母が入院していたことがあり、よく見舞ったので場所は覚えている。今は東京にいる兄と、二人で来たこともある。兄の通っていた高校が近くで、裕美がいいというのに、学校の前まで案内された記憶がある。あれから、もう二年が経っている。兄の通っていた学校は、随分と自由な学校で、兄もそれが自慢であった。受験のことなど、学校で話題になることもなく、みんなが勝手に好きなことをやっていると、言っていた。もちろん勉強も相当にやっているらしく、大学進学に関する限りは、県下でも有数の実績をあげていた。兄はその自由な校風がお気に入りで、裕美にしきりに薦めたものだった。しかし、裕美の家からは少し遠いし、兄の言うことをよく聞いていると、傍目にはそう見えなくても、みんな結構勉強をしているということだから、やはり自分には向いていないと思った。

 兄はバスケットボールの選手で、毎日六時過ぎまで練習をして帰る。自転車で四十分ほどかかるので、帰るとすぐに入浴をとらずに食事だった。

 それでも疲れた顔一つせず、冗談を言いながら、食べる。もの静かな父とは対照的に、ひとりはしゃいでいた。学校の話。新人歌手の話。読んでいる小説の話。……兄の話題はつきることがなかった。家では、夜はほとんどの時間勉強していて、こういう話をどこで仕入れてくるのか、裕美には少々不思議だった。

 兄の成績は、いつも上位で、時々一番になるが、いつもトップという訳ではなく、三番になったり、五番になったりする。それなりの勉強はしている、と裕美は思った。夕食が終わるとすぐに風呂に入り、その後、すぐに二階に上がって勉強していた。十時過ぎにお茶を飲みに降りてくると、テレビを見ながら、新聞をゆっくりと読む。最初のページから隅々まで読むのでたいていは一時間くらいはかかる。その間も黙って読むのではなく、テレビに出ている俳優の話をしたり、歌手のスキャンダルやCDの売り上げのことなど、新聞に書いていることや、昼間学校で聞いてきた話などを、おもしろそうにした。

「お父さん、お茶が入りましたよ」

 と、いう声に、さっきまでいびきをかいていた父が、眠そうな顔をして起き上がる。こういう家族の中で、いかにもよくうちとけているように見えても、兄はさっきから新聞を読んだままである。

 しばらくテレビの音だけが茶の間を占領する。父も、母も、裕美もテレビのほうにむいているのに、兄だけが新聞を見ている。そして目は下を向いたままで、手を伸ばして座卓の上のお茶を取る。いつものことで誰も笑わないが、時々全然位置の違うところへ手だけを伸ばすことがある。二三回上下させると、だいたい掴んでしまうが、二回めで失敗したのを母が気がつくと、二回目に手がきたほうへ茶たくを移動させてやる。話をするときも、時々テレビのほうを見るほかは、ずっと下を向いて新聞の上を目は追っている。あまり行儀のいいことではないが、長い間の習慣だから、もう注意したりとやかく言わない。

「おおロダン展か。十一月か。少し先の話だな。でも裕美、つれて行ってやるからな」

 とにかく何にでも興味を示す兄である。

「つれて行ってもらわなくても、いいわよ」「何? ロダンを見にいかない? 将来、女流画家になるんでなかったの? それだったらロダンくらい見ておかなくちゃ。これから先、本物を見る機会がそう何度もある訳じゃあるまいし……

 相変わらず兄は新聞を見たままである。裕美はますますおかしくなった。

「ええ、見に行きますよ。ただし、お母さんとね。……ねえ。だって、兄貴、今まで個展だの、美展だのといつも連れて行ってやると言って、一度も連れて行って下さったことないのよ。今回もどうなることやら

 このことは母もよく知っていた。しかし、母は、何も言わず、笑うのをこらえていた。「そうかな? そんなことはないと思っていたが……。それじゃ、きっとスケジュールが合わなかったんだよ。ね、きっとそうだよ。ロダンは一緒に連れて行ってやるよ」

「ええ、スケジュールが合えばお願いしますわ」

 と、思いきり皮肉を込めたつもりが、兄に通じたかはわからない。

 たぶん、母親と見に行くことになろうと、心の中では思っていたが……

「ところで、重夫、いろいろと興味があるようだが、将来は何をやりたいのかね?」

 と、父が横やりをを入れたので、ロダンの話はここで終わりになった。

「はあ、将来ですか? 工学部へ行ってエンジニアになりますよ。お父さんの子供ですからね」

 いかにも、軽がると言ってしまう。他人が聞いたら何と不真面目な、と言うもしれないが、これが兄のせい一杯の真剣な表情であるということは、家族のものは先刻承知のことだった。

「ほう、電気工学でもやるかね?」

 父はうれしそうに笑った。

「いや、電気でも機械でもいいけど、まだ決まらないよ」

 こういう真剣な話のときも、兄は顔を上げない。さきほど、ちらりとテレビのほうを見ただけである。

「まあ、ゆっくり考えるといいさ」

 父も、あまりこだわってはいないようだった。

「うん、そうするよ」

 あたかも他人ごとのように、兄は鷹揚にかまえていた。

 その兄は、結局、機械工学というのを専攻したが、それがどんなものか、裕美にはわからなかった。

 兄にも連絡したのだろうか? いや、父の病気がたいしたことでなければ、わざわざ東京にいる兄に、帰ってきてもらう必要はあるまい、と思ったりする。

 それにしても、父はどうしたのだろうか。病気か、事故か、病院に着いてみなければわからない。

 裕美にとっては、今日のようなことは生まれて始めてであり、担任の大木先生から美術教室で父のことを告げられた時は、一瞬何をしていいのやら自分でも皆目見当がつかなかった。

 夕暮れの街は雨もやみ、買い物客や学生や勤め人で次第に混雑を増していった。

 タクシーは左折して、電車通りから分かれた。最初の信号は赤だった。女子大がこの先にあり、少し南に下ると、閑静な住宅街が港までつづいて、人口は比較的多い所だ。電車通りから、県立病院のほうへかけては、道路に面して中華料理店や喫茶店、それに八百屋や肉屋等の何軒もの商店が軒を並べてあるので、特にこの時間には混雑がひどい。

 タクシーの前の横断舗道を緑の信号が点滅しだしても、まだ後続の人が続いている。赤になって、子供を二人連れた母親が足早に渡り終えるのを最後に、残りの人たちは次の信号が緑にかわるのを待つべく立ち止まった。 この信号を越えたところが、県立病院の入り口だ。入り口が二箇所ある。その二箇所の入り口の他はブロック塀には切れ目がなく、このどちらから入ればいいのだろうかと思った。しかし、裕美が心配するまでもなく、運転手は車道の入り口から入り、ぐるりと右回りに半周して玄関前につけた。

「はい、お待ちどうさま。えー、千二百八十円です」

 運転手は、前を向いたままである。

 裕美は学校を出るとき、担任の大木が貸してくれた二千円が上着の右のポケットにあることを、忘れていなかったので、それを出して渡した。

「ありがとうございます」

 運転手は二千円を受け取った。その時、頭を少しうしろのほうへ向けたが、裕美のほうは見なかった。

 裕美はお釣りを受け取ると、運転手に聞こえないほどの声で「ありがとう」と言い、車から出た。裕美が出ると同時に、タクシーのドアは締まり、そのまま立ち去った。

 裕美にとって、学校から病院までの時間は、まるで夢の中で過ぎ去ったように思えた。窓の外の景色を見ていても、これはタクシーが動いているのではなく、タクシーと自分は止まっていて、まわりの景色だけが、うしろへうしろへと走り去っているのだと思っていた。 裕美は病院の玄関のところへ立って、今やっと自分の来たところがどこであるか理解したような気がした。

 ここは県立病院なのだと、自分に言い聞かせた。玄関脇の柊の低い木が、雨に濡れて、黒く光っていた。塀ぞいの松や、広葉樹も同じように光っているのであるが、塀の後ろの街燈の明かりで逆光になるせいか、全体が大きな影になって、やがて来る夜の世界に一足早く浸っているように見えた。

 一方、玄関から病院の内部を見ると、蛍光燈が何本もついて、薄暗くなりかけた外よりも、はるかに明るかった。所々にある緑色のカバーのついた蛍光灯は出入り口を示すランプだろうと思った。

 父に会いに行かなければ、と思った。いったい父はどこにいるのだろうか? だれも自分を

 

「オッ、沢野めぐみちゃん、相当がんばっているね。たしか、この「緑の渚」は二曲目だから、もう二三曲続けてヒットすればいいところいくのだがなぁ。その点、後藤正子の場合はデビュウー曲がよく売れたから、人気が定着しちゃった。めぐみも、もう少し、デビュウー曲で勝負したほうがよかったと思うけどなー。でも、ファン層の焦点がボケてたような気もするし。えーとっ、どこの会社だったかな。そうそうビクターだった。ビクターにしてはおそまつな作戦だったと思うね。ねえ、裕美。そう思わない?」

 こんな調子で裕美にも話しかけたりする。でも、裕美にはそこまで分かるわけもなかったのが、このときは適当に

「むずかいしわ。でも、売れなければ次のを出すしかないじゃないの」といつもよりは、丁寧に答えた。

「いや、それはそれでいいんだが、僕がいっているのは、ファン層を絞っていないというろころが、失敗だと言っているんだよ」

 と兄に言われて、裕美は、自分の返答が我ながら的外れなことを言っていたと気付いた。しかし、こういうこになると、兄と違って自分にはよくわからない。

「わからないわ。そんなこまでやっているのかしら」とさらりと言う。

「そりゃそうだよ。歌い手はただテレビで歌っておればいいけど、レコード会社は必死だよ。何人もの専門家が、鵜の目鷹の目で、作戦をねっているのだよ」と兄の話はますます熱が入る。

 

おもしろそうな記事になると、黙って読むが、見出しだけ追っているときは、話だす。

「おっ、新日鉄がまた、鉄鋼の単価を上げるって。合併して大きくなって、少々のさばり過ぎじゃないかな。通産省は何をやっているんだろうね。もっと行政指導をするとか……」誰も相槌を打たないので

 

いったい父はどこにいるのだろうか。誰も自分を捜しにきてくれないのだろうか、あるいは父の容態がよくなくて、私になどかまっていられないのだろうか、と思ったりする。

 さいわい、タクシーから降りて、玄関に入ると、靴脱ぎ場のすぐ向こうに「受け付け」と書かれた白いプレートが天井から下がっているのが見えた。夕暮の廊下は、昼間の喧騒を忘れたかのように、静かでそしてもの哀しい。雨上りだからよけいにそのように見えるのかもしれない。

 よく見ると、女の人が二人いて、ノートに何か書いている。とにかくそこへ行ってみようと思った。

「あのう、木川芳夫はどちらでしょうか?」 正面に座っている若い女性は顔を上げた。 白衣の上に、薄茶色のカーディガンを着たその女性は、入院患者の名簿を見ながら、少し捜したところで、裕美に尋ねた。

「入院ですか?」

「いいえ、さっき学校に連絡があって、大至急ここへ来るように言われたので……

「それじゃ、救急だわ、きっと」

 隣の女性が言って、電話器をとりげあた。「しばらく待って」

 と、裕美に言うと、すばやく内線番号と思われる短い番号をプッシュした。

「受け付けです。木川さんとおっしゃられる方は、入られてないでしょうか。そう、木川……

「お名前のほうは?」

 送話器を左手で押さえて裕美の方を見た。「芳夫です。キガワヨシオです」

 と、裕美が言い終わらぬうちに、その女性は電話の相手と話しはじめた。

「はい。そう、キガワ……ヨシオさんです。はい、六百十二ですね。はい、ありがとう」 受話器を置くと、裕美のほうに向かって、部屋の番号とエレベーターの場所を教えてくれた。

 裕美は、なかなか親切な人だと思った。

 簡単に父の居場所がわかったことを裕美はうれしく思った。受け付けの人が親切なんだと思った。

 廊下を少し行くと、左側にエレベーターが二基あった。エレベーターの奥に、階段がある。多分、これを登ってもいいのだろうと思う。地下はないらしく、上り用のボタンだけしかなかったので、それを押した。

 しばらくすると、エレベーターは降りてきて、若い男の人が一人出た。健康そうな顔からして、入院患者でなく、見舞い客ではないかと思った。

 裕美はそのエレベーターに乗り込むと、すぐに向きなおって六のボタンを押した。まもなく、ドアがするすると音もなく閉まって、上に昇りはじめた。

 やっとここまで来た。もうすぐ、父に会える。

 ……美術室でアグリッパのデッサンをしているときに、担任の大木先生があわてて入ってきて、この病院に行くように裕美をせきたてたのが、ずっとずっと昔のことのように思えるし、反面ほんの一時間前のことのように思えたりする。いきなり何も言わず二千円を裕美の手に握らせたこと一事を見ても、大木先生が相当急いでいたことはわかる。そして急なことなので、裕美自身も動転していて、何を言っていいかわからず、自分の財布のことなど考えもしないで、そのお金を受け取った。「ありがとう」という一言さえも言わなかったのに気づいたのはタクシーが学校を出て、かなり行ってからであった。そしてまもなく、自分の財布のなかには、千円札一枚と二百円ぐらいしか入っていないのに気がついた。もし、大木先生が二千円貸してくれなければ、果たしてそれに気がついた自分が、どのように行動したか、わからなかった。ひょっとしたら、足らないことに気づいて、途中でタクシーを降りていたかもしれない。今、考えてみると、やはり、大木先生の処置には感謝しないではいられない。

 この二千円はさっそく明日にでも返しておこうと思った。裕美はそう思うと、

「二千円を明日返さなければ……

 と何度も口に出さずにはいられなかった。 エレベーターが六階に着いて、父と会えば、今の自分を全て忘れてしまうのではないかと思ったからである。もし、父が重傷であれば、それだけで、裕美は気絶してしまうかもしれない。逆に症状がたいしたことなければ、却ってまた、今までの緊張が一度に開放されて、今日一日のことを全て忘れてしまうのではないかと思った。二千円を返さなければいけないということはもちろんのこと、美術部でデッサンをしていたこと、六限が体育の時間であったこと、六限までは大変よいお天気で体育の時間の最初は、お堀端をランニングしたこと、そして体育の時間にみるみるうちに空が曇り、急に雨が降りだしたこと、そしてあわてて更衣室に走り着いたとき、急に大きな雷が鳴ってみんなが驚いたこと……そこまで考えてきたとき、裕美は自分でも頬がこわばるのを感じた。アッと思うとともに一瞬立っていられないほどの目まいを感じたが、すぐに気を取り直した。何とうかつな自分だろうか、とむしろ自分の鈍感さが悔やまれた。父は内勤が多いものの、電気会社の技師なのだ。そして、あの時の雷鳴。あんなに大きな音がしたのだから、近くに雷が落ちたに違いない。そして父の事故が落雷と関係ない保証はない。いやむしろ、その可能性は大いにあり得る。落雷事故ならば、軽度で済むはずがない。即死か、瀕死の重傷に違いない。……裕美は足が震えるのをどうすることもできなかった。やっとのことで、手すりにつかまった。一時は自分がその場に倒れるのかと思ったが、間もなく、エレベーターは六階に止まった。気を取り直して、外に出るしかなかった。

 エレベーターから降りると、壁の表示が目に入った。右向きの矢印の下にはアラビア数字で六○一から六二○、左向きの矢印の下には六二一から六四○と書いてある。左側に行けばいいのだとわかった。もう少しだ。もう少し行けば、父に会えるのだ、と気を取り戻して歩きはじめた。

 廊下の両側が病室になっていて、突き当たりに部屋がある。そして方々に外光を取り入れるための窓や、階段や、この廊下と交差する通路があって、それらの窓からも光は入って来ており、この通路は比較的明るかった。今は、雨上がりの天気で、外はいつより早い夕暮れにたそがれているが、昼間だったら、もっと明るいだろうと思われた。

 裕美は少しずつ歩いた。廊下には椅子が置いてある。見舞い客が多すぎたり、あるいは個室でない場合、見舞い客と廊下で話しをしたりするのに、設けられた席ではないかと思った。でも、今はだれもそこに座っている人はいない。

 父の病室はもっと先だわ、と思いながら、裕美はひとつづつ部屋の番号を見て歩いた。ずっと向こうのほうで、一人の婦人が、椅子に座っていた。裕美のほうからは、逆光になっていて顔はよく見えない。あの当たりに父の部屋はあるに違いない、と思ってもう一度その婦人のほうを見た。その時、その婦人も裕美のほうを向いて立ち上がって、小走りにやってきた。

「裕美ちゃん、こちらよ、早く」

 裕美には、それが一本松のおばあさんだとわかった。父の弟が駅から二つほど市電で行ったところの住宅地に住んでいる。一本松の電停からでも、歩いて二十分ほどのところだから、いつも一本松のおじちゃんとか一本松のおばちゃんとか呼んでいるのである。

「裕美ちゃん、お父さんが……

 と、おばは声をつまらせながら、裕美を病室へと導きいれた。病室では、母が髪を振り乱して泣いていた。

 父の葬儀は、二日後におこなわれた。

 それから一週間が過ぎた。裕美には、この一週間がすべて夢のように思われた。裕美にとっては、今の自分が、ほんとうの自分であるのか疑ってみないと信じられないような日々であった。今、ここにいる自分がほんとうの自分だと、一日に何度も何度も確認しないではいられなかった。自分でない自分が、勝手に一人歩きをするのではないかと、裕美自身怖かった。自分でないもう一人の自分が、裕美の意志とはおかまいなしに、悲しんだり、泣いたりするような気がしていた。

 最近になって、そういう心配をしなくていいようになったのは、父の死から一週間近くたって、落ち着きを取り戻したからである。自分でない自分を意識する必要がないほど、気持ちが落ち着くと、はじめて父の死を実感した。父はもういないんだ、と思うと、とめどもなく涙があふれた。夜になって一人になると、父が死んだということが、父がいないということがたまらなく寂しかった。悲しかった。

 日がたつにつれて、父がもういないということが次第に実感となってくるのに、裕美は気づいた。今では、父の死の直後のような動転した自分ではないが、それだけに父がいないということが、まぎれもない事実だと納得されると、よけいに寂しさはつのるのであった。

 父の葬儀の時は、東京から兄は帰ってきていたし、父、母の両方の親戚の人々が各地から集まってきていたし、裕美の気持ちもピンと張りつめていたので、父の死を悲しむどころではなかったのだ。

 ふと、窓の外を見ると、外はすっかり暗くなっている。スタンドを消して窓から身を乗り出すようにして、空を見上げると、小さな星が無数にまたたいていた。昔、人は死ぬとお星さまになると本で読んだことがある。この前、天に昇った父も一つの星になったのだろうか。裕美は、その父の星をどのあたりに捜そうかと、首を何度も上下させながら考えた。けれども、どうもそれにふさわしい星がありそうもないので、その日は父の星を捜すのを諦めた。

 遠くで稲光がした。もう春ではなかった。crystalrabbit