蒜山

crystalrabbit

蒜山

 

 あれは、大学の四年生の夏休みだった。夏休みと言っても、私の通っていた大学は七月一杯が前期で、夏休みは八月、九月とたっぷりあった。私は、幸い就職が決まっており、卒論のテーマもほぼ固まっていたので、学生時代最後の休みを思い出深いものにしようと、一人旅に出かけた。九月の半ばだった。その年は何年かぶりの猛暑で、九月になっても一向に炎暑は衰えることを知らず、そのときも日中はゆうに三十度を越えていた。

 あれは蒜山から関金へ抜ける路を半ば越えたときであった。小さな赤子を抱いた女が私の先をとぼとぼと歩いていた。こんなところで、と思ったが、私はこのへんに山小屋から何かがあって、そこに滞在しているお嬢さんではないかと思って奇異に感じなかった。私は流れる汗を拭いながら歩いていたが、その女も同じと見えて、追い越すときちらと女の横顔を覗くと、やや紅潮した透き通るような頬に玉の汗をいくつも浮かべていた。

「 あの・・・」

 私がその女を追い越して三メートルばかし行ったとき、女が声をかけた。

「何か?」

  私は振り返って女を見た。

「あの・・、一人では心細うございますので、ご一緒させていただけませんでしょうか」  女は哀願するような口調で言った。私は彼女を正面から見据えると、考える間もなく、「わかりました。いいですよ」と言って、速度を落とした。女は幼子を抱いて、汗をかきかき歩いていたが、まるであどけない少女のようだった。そして、何よりも私が驚いたのは、私が以前一緒に住んでいたことのある女と似た面影をもっていることだった。私が即座に女の申し出に肯ったのは、ひょっとしたらそのことが原因かもしれない。

 私が速度を落とすと女は足早に隣にきて、「お世話をかけます」とさっきと同じように表情を変えずに言った。

 それにしても暑い一日だった。二人とも相手のまねをするわけではないが、どちらからともいうことなく何度も額の汗を拭った。

 ほどなく、われわれは小さなお堂のある三叉路に出た。

「少し休みませんか?」

 こう私が言うと、女も同感だったらしく、

「ええ、助かりますわ」 

 と言って、先にたってお堂の日陰に身を寄せた。

「少し休ませていただくわ」

  女は今にも目を瞑りそうである。

「それじゃ、お嬢さんを抱いてあげましょう」

  私は、女が抱いていた赤子を受け取るとまもなく女は目を瞑った。

「ああ暑い。儂も一緒に休ませてくだされ」

 ふと顔を上げると、茶色に日焼けして皺だらけの老婆が立っていた。私がどちらへ移動すれば、老母に席を与えることができるかと、思案しているうちに、老婆はお堂に上がってきて、開いているところに座った。

 女は項垂れたまま、寝息を立てていた。老婆に気づいた様子はなかった。

 私も、赤子を抱いたままで、瞼が重くなってきた。そして、払っても払っても、どうしょうもない睡魔に襲われた。赤子を抱いたまま私が舟を漕ぎだすと、

「儂が世話してやりましょう。兄さんも休みなさい」

と老婆が言うので、私は抗うすべもなく赤子を老婆にわたしてしまった。

と、同時に私も眠りに落ちたらしい。

「・・・子供を食べている・・」

という声で、はっと気づくと女が大声で叫んでいる。私が目覚めたときには、老婆はお堂から出て、一目散に逃げているところだった。私は追いかけた。女も後ろから追ってきた。老婆は速い。どんどんと距離が開き、結局見失ってしまった。

 気がつくと、後ろを追ってきた女もいない。私は仕方なくお堂のところまで戻った。

 私の荷物があるだけで、女の持ち物も何もない。辺りの強い日差しの中で、そこだけが影になって、冷気をたたえているようだった。

 

 白昼夢だったのだろうかと思うこともある。いや、本当にあったといつも思い直している。しかし、歳月とともに、やはり、白昼夢だったのだ、という思いが年々強くなるのは、記憶というものの本性かも知れない。crystalrabbit