狐の嫁入り

crystalrabbit

狐の嫁入り   

 

 校長先生に聞いてみたら、と言ったのは彩子である。

「校長先生といっても、今はもう退職されていて、郷土史を研究しているとか、聞いたわ」

 さっそく、潤也は彩子とともに訪ねた。二年前に島にある唯一の小学校である伊沼島小学校の校長を退職したという髪の毛の薄くなった男は、うやうやしく一枚の名刺を潤也に差し出した。その名刺には、「岡山民俗研究会 会員真鍋洋太郎」と印刷されていた。

郷土史家と伺ったのですが、民俗学がご専門ですか?」

 潤也はやさしそうな真鍋の表情につられて、初対面にもかかわらず、すぐにうち解けた。

「島の人たちに、いちいち民俗学について説明するのは大変ですから、みんなが私のことを郷土史家と呼ぶのをそのままにしております」

「ああ、それではやはり、先生のことを郷土史家と思っていてもよろしいですね」

「それはかまいません」

 真鍋は屈託なく笑った。潤也はもう少し世間話をしてみたいと思ったが、時間も限られているので、本題に入ることにした。

「突然ですが、六道の辻の祈祷師が、狗神の祟りだとしきりに言っていますが、如何でしょうか?」

「辻の婆ですね。このへんでは有名な祈祷師ですよ。当然占いも行います。彼女の占いはよく当たるそうです」

 真鍋は相変わらずにこやかに、応対した。

「それでは、狗神の祟りというのは嘘ではないと?」

「さて、それはこまりました。この島は狐の嫁入りで有名なところです。そこに狗神というのも、そぐいません。例えば、薄田泣菫の『狐の嫁入り』という詩があります」

 こういって真鍋は立ち上がり、本棚から泣菫の古い詩集を出した。ページをめくって、潤也に示した。

 狐の嫁入  

  向う小山の山の端に、

  日は照りながら雨が降る。

  野らの狐の嫁入が

  楢の林を通るげな。

 潤也が一通り目を通すまで待って、真鍋は再び口を開いた。

「泣菫滞在中は、狐の嫁入りは見られませんでした。しかし、彼は日向雨(ひなたあめ)にあったと見えて、それを詩にしました」

「え? 日向雨以外の狐の嫁入りというのが、あるのですか?」

「ああ、そうですね」と、少し間をとってから、潤也のほうをじっと見つめた。「狐の嫁入りというのは、日向雨のことを言うことが多いようですが、伊沼島では、狐火のことです。狐火というのは、夜、人気のない山を青っぽい光りが通ることです。そして伊沼島の狐火は狐の嫁入りと言われて、有名です」

 ここまで言って、潤也の感想を聞くかのように真鍋は黙った。

「ということは、時々伊沼島では狐火を見ることができるということですか?」

 始めて聞く話に潤也はただ、繰り返すだけだった。

「ええそうですよ」

「それは、今でも見られるのですか?」

「もちろん今でも見られますが、電気がついてから夜も明るくなってますから、昔ほどは頻繁でないと言われております。まあ、伝説ということでキャッチフレーズにしているが」

 真鍋が少し笑ったので、潤也もつられて笑った。crystalrabbit

アルバイト学生

crystalrabbit

アルバイト学生

 

 大学の近所に全国チェーンの古書店ができたのは,二年ほど前のことだった。市の中心部の店には時々行っていたが,近くの店舗に行く強い理由がなかったので,気にはなっていたが,今まで一度も足を運んだことはなかった。近いからいつでも行くことができるという安心感からか,強いて行こうという意志を働かせなかっただけかもしれない。

 秋晴れの空気の澄んだ日,ちょうど午後の時間が空いていたので散歩がてらに足を伸ばした。大学に上がる坂の分岐を逆方向に行ったところにあった。そちらは,しばらく平地が続いて,スポーツ用品店とか,オートバイ屋などがあって,若者が集まりやすい一画だった。駐車している車も多くて,その店が賑わっていることがわかった。

 初めてなので,ゆっくりと店内を歩いた。ゲームソフトやCDや漫画は今回は見ないことにした。それでも二十分ほど費やしてから,最後に,専門書の類ではなくどちらかというと娯楽用に近い何冊かの本を買うことにした。

 入り口近くのレジに並んだ。二人ほど先客がいたので,カウンターの中で作業をしている店員を順に眺めていた。カウンターの中には三人店員がいた。女性の一人はレジを受け持ち,もう一人の女性はゲーム機の部品をポリエチレンの袋で包んでいた。男性の店員はプラスチックの箱に入った本を,大きさで分けてレジのうしろに並んだ本棚に移していた。年格好からかんがえて,おそらく全員が学生アルバイトだろう。私の勤める大学の学生もいるかもしれないが,三人とも記憶にはない。そのとき,レジをしている一人の店員が私の目を引いた。おそらく,アルバイトの女子大生だろう。この近くには,私の勤務する大学以外に何校かあるので,彼女が我が校の学生とは限らない。

 そのアルバイト学生は,言葉遣いも上品で,明るくきびきびと働いている姿や,清楚な服装が好ましく思われ,ひとりでに視線が彼女のほうに向いた。前の二人のレジが済んで,自分の番になったとき,自分が彼女に曳かれた理由にやっと気づいた。彼女の下顎のふくらみ具合が知人の女性と似ていたのだ。そのことにはっと気づいて私は胸の動悸の高まるのが自分でもわかった。私は勤めて平静にし,請求されるままのお金を払い,彼女がポリエチレン袋に入れてくれた古書を受けとった。彼女の態度は終始沈着で私の動揺に勘づいた気配は見られなかったので,私は安心して店を出た。

 その知人というのは二年下の文学部の同じ学科の学生だった。同じ教授の下で卒業研究をして卒業後は岡山県の中学校に社会科教諭として赴任した。私はといえば大学院の途中で神経症にかかり,半ば休学のような状況であった。そこで,卒業と就職が決まった彼女に,私は別れ話を切り出した。

 もとはと言えば,採用試験を受ける段階から私はそちらの方向の考えだった。広島県岡山県は採用試験が同日にあり,両方を受験することは不可能だった。彼女の両親はもちろん岡山県に帰ってくることを希望した。私が大学院に残り彼女が広島県で勤めたほうがいいことはわかっていたが,私には健康に自信がなかった。このような状態で彼女と結婚してやっていく自信はなかった。だから,ここはひとまず彼女は両親の近くで就職し,私の健康が回復して,仕事についてから彼女を呼び寄せてもいいと思っていた。

 年が明けても,私の健康は一向回復の兆しはみられなかった。むしろ,悪化しているというほうがよかった。無気力は益々つのり,時には思考が混乱した。また,何を読んでも,何を考えても長続きしなかった。

 ときおり訪れる彼女の顔にも心無しが明るい表情が少なくなっていった。それは離ればなれになるという環境の変化への不安というよりも,私の健康への心配と,私への遠慮から明るく振る舞えないのではないかと思われた。こんな状況で,彼女を新生活に送り出すことに私は耐えられないような焦燥感を感じた。

 私は二月のある日,混濁した思考の中で,最後の力を絞り出すような思いで,彼女に語った。

 彼女の新しい生活を支えることができないこと。結婚の約束もできないこと。

 新しい職場で,新しい仕事で,いろいろとストレスの多い中で,私のことにまで気を遣って貰うことが忍びないこと。まして,貴重な休日を使って,尋ねてきてもらったりすると,その負担をかけることに対して申し訳ないし,また申し訳なく思う自分の心の負担が増すように思うこと。だから,僕のことなど気にせず,精一杯頑張ってほしいと伝えた。

 要するに別れ話であった。しかし,前から言おうと思っていた,いい人がいたり,いい出会いがあれば,そのチャンスを逃がさないでほしいし,僕のことは忘れて結婚してほしい,ということは言いそびれた。ここまで一息に言うことが残酷なように思えたからだ。未練がないわけではなかった。でも言うべき事は言った,と思った。

 彼女は終始うつむき加減で,時々頷いていた。

 

 彼女からは律儀に,手紙や挨拶状がきた。

 彼女は学生時代から筆まめだった。春や夏の休みに帰省したときなど,長い手紙をよくよこしてくれていた。

 自分の酔歩のような乱れた字に対して端正な字は美しかった。その美しい字をみていると万年筆を持った彼女の白い指が想像された。

 それに返事を出さなければ,彼女は私のことを忘れてくれるだろうと思った。しかし,それも礼儀にかなわないし,不親切だし,また落胆させてもいけないと思い,返事は出した。もっともっとたくさん書きたかったが,忘れてくれと言った以上,いつまでも彼女を引き留めておくのも悪いと思ってできるだけ簡単に書いた。彼女には悪いが,こちらから手紙を出すことは控えた。ほんとうは,いろいろと尋ねてみたいと思った。いろいろと意見を交わしたいと思った。しかし,そうして彼女の思いを留めておいてはいけない,と必死で耐えた。

 

 二年後のある日,彼女から電話がかかてきて,会いたいと言った。二人は会った。私のアパートに来て,最終列車で帰った。

「ごめんなさいね。わたしの我が儘を通しちゃって」

「そんなことはないよ。別れることを決めたのは僕なんだから」

「ううん・・」彼女はうつむきながら頭を左右に振った。「ごめんなさい。あなたを支えていくことができなくて」

 

 ほどなく,結婚したという挨拶状が届いた。

 時々年賀状が来たし,教授の退職パーティや出版記念会,古希のお祝いなどで,その後も会うことがあった。

 年賀状には,男と女の子の名前が書かれて,その下に年齢もかかれていた。

 

 アルバイト学生のバイクが信号無視のトラックと衝突して女子学生が死んだ。

 町を歩いていて,彼女と会った。どうしたんだと言うと葬儀に来たという。

 「実は双子だったの。女の子ほうは,子どものいない姉夫婦の養子にしてこの町で育った・・・」crystalrabbit

銀色の網

crystalrabbit

銀色の網

 

「あら、園田君でしょう?」

 お互いの目があった。園田武弘も、すぐに思い出した。大学時代の同級生だ。

「多岐元さんだった、かな?」

「そうよ、多岐元です。今は山野だけどね。この辺に住んでるの? 不思議ね。ちょっと待って。レジ済ますから」

 三ヶ月ほど前にオープンした複合ショッピングセンターの一画にある食品スーパーだった。園田にとっては勤務先とアパートの途中にあり、帰宅時にしばしば立ち寄っていた。

 いつもより早いせいか、少し混んでいた。

 ここは園田が生まれたところとは違う。園田は尾道で生まれて育った。県は異なるが近くでもあるので、岡山県で就職した。でも、なぜ多岐元がここにいるのか思い当たらなかった。結婚してここにきたのかと思った。

「懐かしいわね。いろいろとお話してみたいわ。でも、今日はこれからお仕事なの。そうね」と言いながらバックから手帳を出して、「明後日の午後だったら空いているわ。土曜日の二時ごろいかがかしら。お仕事は?」 こう言いながら、手帳のカバーから名刺を取り出した。

「そこの南城高校に勤めてるよ。午後ならだいじょうぶ」

「よかった。すぐ近くよ」

 多岐元は、白い名刺を園田に渡すと、「きっと来てね。じゃあ、ごめんなさいね」と言って足早に出ていった。名刺には山野杏子と印刷してあった。

 彼女はただ普通に言ったのだろうが、園田には実に優雅に聞こえた。乾いた唇の間から覗いた象牙色の歯は、細い小皺の浮いた目元とはやや不釣り合いだが、光っていた。

 

 園田は土曜日の午後、名刺に書かれている場所を訪ねた。

 緑の山を背にした白いマンションだった。東側には池があった。周囲を覆う木々が水に写って長閑な佇まいをみせていた。小さな水鳥の数羽が群れていた。岸に近いところには枯れた芦が水面からまばらに出て、褐色の茎が風に揺れていた。十月の午後だった。何もかもが静かだった。

 三階だった。エレベーターもあったが、階段を上がった。壁面に塗られたペンキが午後の日を反射していた。階段には紙くず一つ無く、丁寧に管理されていることがわかった。部屋の前に行って止まった。部屋番号を彫ったプレートから少し上に、白いプラスチックケースで覆われた門灯があった。園田が目を上げたとき、ケースの横で、透明な糸が小刻み揺れて銀色に光っていた。

 園田と多岐元とは大学の同じ学科の同級生だった。農学部の造園科だった。

 園田は卒業後、大手の種苗会社の開発部に勤めたが、一年で辞めた。大学に戻って聴講生になった。農業科と理科の教員免許をとり、今は高校で生物を教えている。このように、卒業後のことを話した。

 多岐元はガーデンプランナーを志していたが、幼児期より習っていたピアノの腕を生かして、音楽教室を開いていると言った。

 夫は病死し、年子の兄と妹の二人の子どもがいると言った。

 マンションに住んでいながら、玄関をはじめ至る所に配置された観葉植物が、彼女の趣味なのだろうと園田は思った。多岐元が生活の資は音楽から得ていても、園芸からすっかり足を洗っていたわけではないということがわかって、園田はうれしかった。みんながみんな、自分の先攻に直結する仕事につける訳ではない。しかし、せっかく選んだ進路である。進路選択には偏差値とか、いろいろあって、すべての人が重い通りの進路を選んでいるわけではないが、選んだ以上、それが自己のアイデンティティになっているはずである。だから、専門そのものに直結した仕事ではなかったにしろ、何らかの関連した仕事につくべきだと思っていた。

 窓の外にも緑の葉っぱや高く伸びた茎が見えたから、ベランダにも植物が置いてあるのだろうと園田は思った。

 園田自身は、高校で生物を教えていても農学部を卒業したということは園田の考え方の根っこになっていて、消えるものではないと思っている。だから、多岐元が植物に囲まれた生活をしていることに、尊敬に似た感情をもった。

 園田にとって、大学一年の時の彼女の印象は、はなはだ薄い。彼女は合唱部に入っていたということくらいは知っていた。三年になると、専門科目と実習が増えたから、ほとんど同じ講義を受講した。卒業研究の研究室は異なったが、同じ棟だったから顔を合わす機会はしばしばあった。 

 その後のことは彼女自身がさっき語った。合唱部で二年先輩だった歯学部の学生と結婚し、歯科医師の妻になった。夫は大学病院と公立病院で研修し、故郷の山口県に帰って歯科医院を開業した。しかし、開業四年目に脳卒中で亡くなった。夫は次男だったし、夫の両親は長男が面倒を見ていたので、多岐元は子どもをつれて実家のある高梁市に戻ってきたということだった。姓は結婚したときのままだから、今は山野杏子だと言った。

 高梁に帰って、両親と同居して、ピアノを教えていた。小学生や中学生が大部分だから、夕方から夜に仕事は集中していたが、両親の協力で子どもたちのことは、何とかやれた。しかし、先々のことを考えて、長男が小学校に上がるときに、倉敷に来た。倉敷なら実家のある高梁まで近いし、ピアノ教室を開くにも何かと都合がいいと思ったからだ。多岐元が倉敷に住んでいることは園田にとっては意外な感じだったが、そう説明されて、確かにそうかもしれないと思った。女手一つで子どもを育てようと思ったら人口の多い市街地のほうが便利だろう。

「それで園田君は、結婚はしてるの?」

「いや、まだだよ」

「ああ、よかった」

「なぜ?」

「だって、強引にお誘いしたでしょう。だから、奥さんに何と言って来るのかと気になっていたの。悪かったかなと思ったりして・・心配だったの」

「取り越し苦労をさせたね。心配ご無用。気楽なもんだよ」

「だったら、いろいろ相談させてもらっていい? 子どものことなど」

「構わないよ、僕でよければ」

 その時、ドアのノブを回す音がした。何回も回しているようだ。なんだ、開いてたんだ。だから、回したらしまったから、どうなったんだと思ったよ。

 子どもの声だ。独り言のように言った。

 男のが子が入ってきた。ランドセルではなく、薄っぺらな手提げ袋を二つもっている。塾から帰ってきたということが一目で分かった。

 山野がお帰りと言うと「ママいたの」と笑顔を返した。

「ママの大学時代のお友達なの。高校の先生よ。ご挨拶しなさい」

「こんちわ。翔太です。妹は美香だよ。もうすぐ帰るよ」

 朗らかで、物怖じしない性格のようだった。園田は一瞬緊張したが、すぐにくつろいだ。

 玄関のほうでドアを開ける音がした。今度はすぐにやんだ。帰ったわよ、と呼びかけるように言う。

 少女はただいま、と言って入ってくるとみんなを見た。園田と眼があった。山野が先ほどと同じように言った。

「美香です。よろしく」

 翔太とほとんど同じくらいの身長だった。見ただけなら、どちらが上かわからない。 

 園田も、同じように、「園田と言います。よろしく」と言ったら、美香が笑った。

「高校の先生なら何でもできるよね」

 翔太は園田の方を向いてから、母親の同意を求めるように言った。

 園田はちょっと不安になった。サッカーとか野球を教えてくれと言われたら、どう答えようかと思った。一緒に遊ぶことくらいならできるが、指導はできない。一週間もすれば、指導のネタが尽きてしまう。

 多岐元が翔太を見て、何が言いたいのというような顔をしていた。

 さいわい翔太は初対面の園田を困らせるようなことは言わなかった。いったん自分の部屋に戻ると、ミニカーををもってきた。壊れて動かないと言った。

 外からだけではわからない。工具がないかと園田が言うと、翔太はまた奧の部屋に入ってからドライバーセットをもってきた。いずれも大きすぎて使えなかった。精密ドライバーと瞬間強力接着剤があれば何とかなるだろうと思った。

 園田は、今度来るときに、修理に必用なものを持ってくるよ、と言おうとして、一瞬躊躇した。ここに来る口実を作っているようで、山野にずるい男だと思われるのではないかと勘ぐった。しかし、先ほど、相談したいことがあると彼女のほうから言ったんだから、そんなことは気にしなくてもいいのではないかと思い直し、そのように言った。

「申し訳ないわね。でも、うれしいわ。また来ていただけるのだから」と山野は笑った。

 園田は安堵した。 

「いつがいい? 塾がない日がいいだろう」

「明日」

「明日は無理だな」園田は明日は精密ドライバーを買いに行こうと思った。

「明後日は塾だね。その次」

 カレンダーを見ながら翔太が言った。

 三日後に来ることになった。    

「食事を準備しておくわ。子ども達と食べて帰って」

 山野はさわやかに言ったが、一面では哀願しているようでもあった。

 

 山野のところを辞して、園田はふと不安になった。まだ、子ども達とは初めてあったばかりだ。それなのに、いくら大学時代の同級生だがらといって、食事までご馳走になっていいものか。子どもたちは何と思うだろうか。父親のいない家庭に、若い男性がやってくる。子ども達は単なる大学時代の友人だと理解できるのだろうか。あるいは、感覚的に母親と自分たちだけの親密な関係の中に他人が割り込んで来たことを拒否したりしないのだろうか。

 あるいは、自分が考えすぎで、山野も子ども達もそういうことに拘泥しない性格なのだろうか。様々な思いが交錯する。しかし、一方では約束してしまった。それを反故にする訳にはいかない。

 園田は翌日ホームセンターに行き、精密ドライバーと瞬間接着剤を買った。さらに遠回りをしてホビーショップへ寄って、先端の細いラジオペンチを買った。これと既にもっている工具セットがあれば、何とか修復できるのではないかと思った。

 約束の日は午後から雨が降り出した。池の傍の空き地に車を駐車して傘をさした。七時前だった。部屋の前で止まると、門灯のケースの上を見上げた。予想通りだった。網状に広がった銀色の糸は美しかった。

 山野はいなかったが、翔太と美香が待っていた。山野からのメモを翔太は見せた。少し遅くなるので待つ必用はないから、三人で食事をしてくれということと、忙しいだろうから、自分が戻るのを待たなくて、帰ってもらって構わないと書いてあった。

 食卓の上にはサラダを盛った皿にラップをかけたものが四つ。お皿が四枚とスプーンと箸が準備してあった。炊飯器と鍋はすぐに眼に入った。

 子どもたちがまだ食事をしていないことは明らかだった。

「まず、ミニカーの修理をするよ。済ませてから、食事にしようと思うがいい。お腹空いたかな?」と言いながら美香のほうを見た。

「だいじょうぶ」美香は首を振った。

「どれくらいかかるの?」翔太がすかさず口をはさむ。

「すぐ終わるよ」

 園田は二人の子ども達のためにも素早く済ますのがいいだろうと思って、言い終わらぬうちに工具と瞬間接着剤を取り出した。

 精密ドライバーで分解してみると、最後のギアが摩耗していた。園田は、小学生のときによくやった、姑息な手段を使うことにした。車軸を二つのラジオペンチで少しだけ曲げた。車輪は動き出した。これは応急処置だ。いつまでも持つものではない。今度動かなくなったら、ギアボックスを買い換え、車軸を元に戻せばよい。

「よし、終わった。これでしばらくはだいじょうぶだ」

 園田はねじを締めて元のように復元した。

「おじちゃん、すごいね。ありがとう」こう言って、翔太はミニカーを動かした。直ったのを確認すると奧の部屋持っていった。園田はその間に工具を片づけた。

「さあ、ごはんにしよう」

 戻ってきた翔太は、そう言いながら、鍋のかかったっクッキングヒーターのスイッチを入れた。蓋をとるとかき混ぜた。少しかき混ぜてから、強さを最低の位置に合わせた。

 キッチンの周辺は山野の性格か上手に整頓されていた。食器戸棚に収まった多くの食器を見ながら、園田は自分の一人住まいとの差異を感じた。ここには家族がいることがわかった。

 夫は亡くなったと言ったが、その夫を含めた四人の家族が住んでいる空間だと感じた。たった三人で四人分の存在感があった。幼い兄妹と若い山野だけで、この雰囲気を創り出す力に感嘆した。かといって、そこが醸し出す雰囲気が自分を排除しようとするものではないことも感じられた。

 翔太と美香は遅い夕食をしながら、よく笑った。園田が日々の生活について尋ねても、楽しそうに語った。

 カレーを食べ終わった頃、山野が帰ってきた。山野はお茶を入れながら子ども達の話に加わった。

「おじちゃん、美香には何してくれる?」

「何って?」園田には意味が飲み込めなかった。思わず吹き出しそうになったが我慢した。

「お兄ちゃんには、ミニカー直してあげたでしょう。次に、美香には何してくれるの?」

「何してくれると言ってもね・・・」園田は返答に窮した。

「美香、それでは園田君わからないわ。美香がしてほしいことをはっきり言ったら」

「それじゃ、映画に連れって」

「映画?」山野は顔を赤らめた。

 子どもたちの休みのときはほとんど仕事で、しばらく映画もご無沙汰だということを山野は語った。ご迷惑でなければ、連れて行っていただけると助かるわ。ピアノ教室は土日が中心でしょう。だから、子どもたちとはすれ違いなのよね。

 土曜日、日曜日はピアノ教室を中心に動いているようだった。

 この前の土曜日はたまたま、通ってくる子どもの学校行事があって休みになったので空いていたのだ、と山野は語った。

 

 こうして園田は翔太と美香と三人で映画にいった。二人が喜ぶのを隣りで見るのは楽しかった。それに映画の内容も、大人がみてつまらないというものではなかった。アニメ映画はよくできていた。ストーリーには、意外性も備えていて、そこそこに楽しめた。

 映画の報告が一段落つくと、翔太と美香はテレビを見始めた。

「園田君は食事はどうしてるの?」

「外食と自炊が半々くらいかな」

 まあ、大変ね。よかったら、時々食べにきてよ。そうだ、火曜日金曜日は私が特に遅くなるの。だから、この時だけでも食べにきていただくと助かるの。どう、お互いにプラスだと思わない。

 一月ほど前まで、高梁の母が来て子ども達の面倒を見てもらっていたのだが、父の具合が悪くなって、母がそちらに帰る日が多くなったと言った。

 子どもたちだけで食事をさせていけないとは思っていたの。でも、仕方がなかったの。だから、園田君が時々来てくれると助かるのよ。ご迷惑かしら。

 

 山野とその子ども達との親密さが増すに連れて、園田はある種の充実感を自分がもっていることを自覚した。そして、胡桃のことを思い出した。胡桃は中学校時代の同級生だが、別々の高校に行った。園田は、胡桃の通う短大が自分の通う大学と近いことを入学後間もなく知った。いつしか二人は親密な仲になっていた。

 一年後、胡桃と歩いていた。国道沿いの歩道には商店が並んでいた。やがて、歩道は国道から別れ、両側に商店の並ぶアーケード街に連なる。

 そのアーケード街に入る手前の一画に、寄り添う母子の像があった。そこにはいくらかの花束が手向けられていた。

 園田はいつも見慣れているのに、その日は立ち止まって静かに眺め、説明板を丁寧に読んだ。胡桃が笑顔のままで待っていたので、少し時間をかけて丁寧に読んだ。

「あら、ごめんなさいね。おじゃましちゃって・・」

 若々しい女性の声に振り返ると、胡桃は小さな幼児を両腕で支えていた。そばにベビカーを押した若い母親がいた。ベビカーには生後何ヶ月も経っていないと思われる乳児が、穏やかな寝顔で横たわっていた。 

 園田はその朗らかな声につられて、その母親のほうに顔を向けた。子育ての苦労など微塵も感じさせることのない、幸せに満ち足りている爽やかな笑顔であった。

「いいえ、ちっとも」

 胡桃も微笑んだ。美しい笑顔だった。母親の幸福感が伝染したのか、胡桃も喜びに溢れていた。あどけない幼児のしぐさが、若い二人の女性にこれほどの幸福感をあたえるものだろうか、と園田は改めて思った。

 幸福に満ちあふれた胡桃の笑顔を見て、園田は幸福な気持ちになった。胡桃の優しさを改めて知ったと思った。   

 彼女もいつかこの母親のように子どもを産み、今以上の幸福感に満ちた笑顔を作るに違いない。通りすがりの母子に対してさえこのような笑顔ができるのだから、まして自分の子どもなら、これ以上の輝きを彼女は放つに違いない。

 あるいは、彼女もそんな光景を想像したのかもしれない。何年後か自分も、こうして幼子を連れて幸せで充実した日々を送っていると・・・・。

 その日を境に園田の胡桃への情熱は急速に冷めていった。そして二人はまもなく別れた。胡桃の未来に自分のそれを重ねることが出来なかったのだ。それから十年近い歳月が経っていた。風の便りで、胡桃は既に結婚していて、二人の子どもを育てながら、実家近くの幼稚園に勤めているということを知った。

 

 

 しばらくして、山野が、今度の日曜日、ピクニックに行きたいと言った。日曜日のピアノ教室は十時から正午までと午後三時から五時までだった。それぞれ別のところにある教室だ。午前中のほうは小学校の参観日になり、午後のほうは秋祭りと重なったので休みになった。園田にもぜひ行ってほしいと頼んだ。

 

 その日の朝、園田が玄関の上を見上がると、珍しく蜘蛛がいた。クサグモに似ていた。植木に運ばれてきたものかもしれない。これまでは、いつも夜に見るせいか蜘蛛は見えなかった。

 蜘蛛がいたが獲物はいなかった。しきりに網の間を動いては止まり、動いては止まっていた。網の修復をしているのだろうと思った。取り除いておこうかと思ったが、蜘蛛は益虫だし、注意して見ないとわからないほどだから見苦しいというものではない。しばらくそのままにしておこうと思った。蜘蛛は害虫である昆虫を補食するので益虫なのだ。とはいえ、農作物にとって害虫となる昆虫も、他の動物たちと互いに食う食われるの関係で繋がり、他の生命を維持するための糧となっているのだから、それなりの役割を果たしている。一方的に害虫と呼ぶのは人間中心の考え方に過ぎない。

 杏子は弁当を作って、待っていた。園田の車で四人は鷲羽山へ向かった。昼前に早めの食事をして、午後は遊園地へ廻った。遊具を順番に楽しんだが、ジェットコースターの前までくると、杏子は、私は無理だわと言った。園田に翔太と美香を預けて、下から見ることにした。三人が乗ったジェットコースターが近くを通るたびに杏子は手を振って歓声を上げた。

 帰りの車でも杏子は疲れた顔一つせず、園田に丁寧にお礼を言った。そして、「ついでだから、夕ご飯もご一緒しましょうよ。ね、いいでしょう」と甘えるように言った。

 途中で、買い物して帰りたいと杏子は言った。園田は杏子の指示通りに車を進めた。よく行く食品スーパーではあるが、これまで来たことのない店舗だった。駐車場は混んでいたが、幸い出入り口に近いところが空いていた。

 園田は、車で待ちながら玄関上の蜘蛛の網のことを思いだした。

 帰った時はまた見事なクモの巣ができているに違いないと思った。どんな虫があの網に飛び込むのだろうか。他の生命を生かすのが昆虫の宿命なら、銀色に輝く美しい網に捕らえられるのも悪くはなかろう、と園田は思った。

 翔太と美香はさきほどまではしゃいでいたのに、疲れが出たのか二人とも黙って、軽く目を閉じている。やがて、両手にポリエチレンの袋をかかえた杏子が戻ってきたので、園田は降りてトランクを開けた。一つの袋の中で缶ビールとワインの瓶が接していたので、園田はぶつからないように位置をずらせた。crystalrabbit

再会

crystalrabbit

再会

 

 河辺が大学に入ったとき由里子は大学三年だった。由里子は高校の時の文芸部の先輩だった。小さな県立高校に入学して一週間後にあったクラブ紹介のとき、ふと立ち止まった河辺に声をかけたのが由里子だった。

 河辺は中学校二年の頃から詩や小説を書いていたが、それはあくまでも個人的なもので、クラブに入って活動したり、あるいは書いたものを印刷したりするということは、考えたこともなかった。だから高校に入って、文芸部というものがあり、またガリ版刷りながらも文集を出しているということを知って、新鮮に思った。そのせいか文集が重ねられた机の前にきたとき、足がひとりでに止まった。

 誰もいないと思ったのに、女子生徒が近寄って声をかけた。

 文芸部よ。興味があったら一冊どうぞ。活動は火曜日と木曜日。部室わかる? 中校舎の北側のプレハブよ。ぜひ、いらっしゃいよ。

 美しいイントネーションが印象的だった。

 それから十日ほど経った。河辺は通学時間が自転車で四十分もかかっていたので、運動部には入らないことに決めていた。また、文化部の中にも河辺の興味をそそるものはなかった。

 放課後、担任面談があったので、職員室に行った。面談が終わって、帰りに中校舎の廊下をホームルーム教室へ向かって歩いていたとき、左手の小庭にあるプレハブの建物が目に入った。クラブ紹介のとき、是非いらっしゃいよ、と言っていた上級生の女生徒の声が耳に残っていた。深い考えもなく、ちょっと寄ってみようかと思って、通路から出た。

 プレハブの中には蛍光灯がついており、戸は開いていた。話し声がしないので、誰もいないのかと思いながら戸口のところまで来たとき、中にいた女生徒が顔を上げた。この前、文集をもらった女生徒だった。テーブルの上に広げたノートを閉じながら、「いらっしゃい。中へどうぞ」と微笑んだ。河辺は、はいと言うつもりだったが、ほとんど声にならなかった。首を少し曲げて、同意の意志を示しながら片足をプレハブの床に上げた。乾いた砂が、靴の下で擦れた。

「こちらへどうぞ」と、彼女は立ち上がって、正面の椅子を示した。

「おかけになって」と目で椅子を示した。河辺が座ると、彼女も座った。座ると同時に彼女はまた口を開いた。

「この前文集を貰ってくれた子よね。私、三年五組の須田由里子。去年まで部長をしていたの。あなたは?」

 河辺は文集の中に、詩と平安時代の貴人の恋を書いた物語の作者が須田由里子と書いてあったことを思い出した。

「一年二組の河辺です」と、その作者だろうと思いながら答えた。

「あら、竹内君も一年二組でしょう。知ってる?」

 由里子は、共通の話題ができたと思ったのか、一段と明るい声を出した。

「名前ぐらいは、いちおう・・」

 これだけしか、言うことはなかった。同じクラスの竹内という生徒の顔が浮かんだ。だか、話をしたことはない。不思議なことに、その後彼とはこの部室で一緒になったこともなかったし、教室で文芸部のことを話したこともなかった。彼は二学期になっても、学校には来なかった。噂では学校を辞めて、自衛隊に入ったということだった。自衛隊の存在は知っていたが、高校生でも入隊できるのだと知ったのは初めてだった。そして、考えてみれば、義務教育を終わっているのだし当然だとも思った。

「それじゃあ、一緒に協力してね」と言った由里子の表情は、屈託がなかった。

 しかし、河辺は何に協力するのかわからなかったので、黙っていた。また、そのことを問い返しもしなかった。しばらくしてこの時のことを思い出したとき、文集作りのことか、あるいはもっと一般的にクラブの発展について言ったのかも知れないと思ったりしたが、やはり、ほんとうのところはよくわからなかった。

 この後の由里子との会話がどのようなものだったのか、河辺の記憶にはない。覚えているのは、帰り際に「これ、読んだことある?」と傍の椅子の上に置いてあった鞄から文庫本を取り出して、由里子が河辺のほうを見たことくらいである。

「読んでみてね。急がないから、ゆっくりでいいわ」

 河辺が即座に否定しなかったからか、あるいははじめからそう思っていたのか、河辺が読んでいないことを確信しているように、由里子は文庫本を押しつけた。

 銀地に横書きのローマ字が輝くような朱色で縦に二行にわたって書かれていた。それだけで右半分を占めていた。紙全体が銀色で、光っていた。左側の中央付近に「異邦人」と黒い活字で書いてあった。右に行くほど小さくなっているように見えたのは字画のせいだった。その上に小さく「カミュ」と書いてあった。訳者の名前も書いてあったが、覚えていない。朱色のローマ字を改めて見ると、ALBERT CAMUSと書かれてあった。

 家に帰って開いたとき、その出だしの文章がずいぶん無責任な書き方だと思った。母親の死が、今日か昨日かわからないというのだ。母親の死だ。そのあとのほうで、短い電報による連絡だということがわかるが、自分だったらその時の第一印象を書かず、確認したことを書くと思った。だから、作者は母親の死までも冷たく放り出しているのではないかと思った。

 その本を読み終わって、プレハブの部室にもっていったのが、借りてどれくらいたってからかということや、どのような感想を語ったのかも、覚えていない。

 河辺がプレハブの部室に行くと、たいてい由里子はいた。二年生や三年生も時々いたが、由里子一人のことが圧倒的に多かった。その分、河辺は由里子と多くを語った。

 シェイクスピアの喜劇を読みなさいとか、万葉集を勉強しなさいとか言った。

シェイクスピア、読んだことある?」

「ええ、ロミオとジュリエットハムレット

 河辺は、ほっと安堵した。どれも読んだことはありませんでは、恰好がつかない。足も遠のくだろう。幸い、読んだことのある本のタイトルが言えたので、そうはならなかった。

「そうね、多くの子が、悲劇を上げるのね。悲劇を読むのもいいわ。でも、それで終わらないで。喜劇にもいいものがたくさんあるのよ。忘れないでね。いつか読んでおくといいわ」 

 万葉集については、どのような会話がなされたかは、覚えていない。

 一年後由里子は広島の公立大学に入った。クラブにはよく手紙が来ていた。河辺は一年間お世話になったことを、感謝の気持ちを込めて葉書で書いた。翌年の正月には河辺の自宅に年賀状が来たので、クラブの近況を書いて送った。

 さらに一年後、河辺は広島の大学に入った。大学の近くに下宿をして地図を見ていたら、由里子の住所が近いことに気づいた。葉書を出すと、折り返し封書が届いた。

 合格を祝してくれたあと、「いらっしゃいよ、近いところだから。ぜひ、来てよ」と弾むような文字に由里子の笑顔を思い出した。二年も逢っていないことを改めて思った。河辺も懐かしくなった。

 翌日、午後の講義が終わってから出掛けることにした。四時過ぎになっていた。自転車で行った。地図を見て確認しておいた。電車通りを進めば近くまで行けるようだ。

 途中、電車通りから別れて東へ進んだ。しばらくいくと二階建てのアパートと駐車場が見えた。番地も間違ってない。二階への階段を上がり部屋番号を確認すると、小さな紙に須田と書いてあった。呼び鈴を押すとすぐにインターホンから返事があったので河辺ですと言うと、すぐにドアが開いた。

 出てきたのは由里子だった。しかし、そこには高校三年生の由里子はいなかった。若い女性がいた。同じように由里子も河辺を見て驚いたのか、一瞬顔を曇らせた。しかし、すぐに笑顔に戻って、河辺の両手を引き寄せると強く握った。

「河辺くん・・・。やっぱり河辺君ね。すっかり大きくなって」

 河辺はうれしくもあり、照れくさくもあった。いつまでたっても、河辺君なのだ。そんなことを考える暇も与えぬように、由里子は河辺の手を引いた。

「さあ、お入りになって。うれしいわ」

 河辺は黙って従った。高校一年の時のことを思い出しておかしかった。あの中校舎の隣りにあった文芸部の部室に初めて行ったときと同じだと思った。由里子が話して、河辺が黙って従う。忽ちにして、二人の関係があの頃に戻ったようだった。あの目で「異邦人」を読めと言った。今日は何を貸してくれるのだろうか、と思ったりした。

 指示されるままに座卓の前に座った。由里子はコーヒーを淹れると言って、背をむけている。

「今もたくさん読んだり、書いたりしてるんでしょうね」

「あまり、書けてません」

「まあ、受験生だったのだから、仕方がないわ。これからね」

「ええ」

「工学部だっけ? 文学部にはしなかったの?」

「文学の研究が好きだというわけでもないし・・・」

「そんなもんか。学部は関係ないよね。好きなことをし続けることが大切なのだから」

「そう考えてます」

「今度書いたら見せてよ」

「そうですね」

 その後の文芸部のこと。同級生や一年上の先輩方の動向、先生方の転勤などを話しているうちに、瞬く間に時間は経っていった。

「飲みに行こう。近くにいいお店があるのよ。入学祝いをしようよ」

 由里子は楽しそうだった。河辺にも異存はなかった。

 アパートを出ると、二人は歩いた。河辺が先ほど来た道を少し戻って北側に向かう路地に入った。河辺には不思議な感じがした。河辺が電車通りから来た大きな道は新しい道で、道幅も広く、また十分過ぎるほど広い歩道がついていた。アパートは新道沿いに新道を向いて建っていたが、その反対側には古い町並みが複雑に続いていたのだ。だから、一歩その界隈に踏み込むと、食料品店や食堂が路地の向こうへと続いていた。

 換気扇から甘ったるい臭いと僅かの煙が路地に向かって吐き出されていた。しかし、それが籠もるというふうでもなかったのは、道が縦横に伸びていたせいかもしれなかった。

 焼き鳥屋の前で由里子は止まった。看板にも暖簾にも年季が入っていて、この地で何年も繁盛している様が伺われた。

 由里子が入り口の戸を開き、河辺が続くと、カウンターの中の若い男、さらに奧の主人らしき男の威勢のいい声が響いた。

 カウンターの真ん中に二人のサラリーマン風の男がネクタイをゆるめ日本酒を傾けていた。カウンターにはビール瓶とビールの残ったコップもあった。

 カウンターには座らず、一番奥の四人席に行った。自分が奧を向き、河辺を入り口のほうを向けて座らせた。由里子は店主に向かって、瓶の生と盛り合わせを頼んだ。ビールがくると、まず由里子が河辺の瓶に注いだ。河辺が由里子のコップに注ぎ終わると、由里子が「再会を祝して乾杯!」と言って、グラスを持ち上げた。河辺のコップとふれて柔らかい音がした。由里子の目が輝いていた。河辺も微笑んだ。一口飲んで、「あ、入学おめでとうだった」と言って、コップを突きだした。河辺もコップを上げて、カチンと合わせて、

「ありがとう」と笑った。

 

 店を出ると、由里子は河辺の腕に手を回した。

 腕を組んで並んで歩いていると、河辺は、由里子が自分より背が低いことに驚いた。

「うれしかったわ。あなたとこうしていられるなんて夢みたいね」由里子の声はややうわずっていた。頬も赤かった。吐く息が熱かった。

 河辺にとっても、確かに由里子の言うとおり、夢みたいだった。

「いつまでも河辺君じゃあ、おかしいわね。もう高校生と違うんだからね。大学生だからね。弘平君だったよね。でも、弘平君と呼んだら同じね、弘平と呼ぼう。それでいいでしょ」

「もう須田さんじゃなく、由里子と呼んで。ね、弘平」

 こう言って由里子は唇を重ねた。

「女って哀しいものよ。小説はいくらでも書けるわ。でも、成長しないのよ。弘平はいいよ。まだ未完成だけれど、一作一作に進歩があるのだから。だから、続けるべきよ」

 文芸部の部誌は由里子のところへも送っていた。時々、感想を書いてくれていた。

「進歩しない小説がどうなるかわかる? 少女の時の感性はだんだんと鈍くなり、文章も色あせてくるの。そんなものよ。女はみんな文学少女なのよ。でも、空想だけでは生きていけないのね。現実に合わせてしまうのね。とたんに普通の女が顔を出すの」

 由里子が自分よりかなり遠いところにいるように思われた。

「弘平、あなたがうらやましいわ。三年経ったら三年だけ成長して、さらにこの先、一年ごとに成長する。私は三年経っても、三年前と同じよ。むしろ、下がってしまっている」

「だから、文学少女は大人になると変身して、普通の女になるの。結婚して普通の主婦になるのよ」

 二人が親密に交際していて一年が経ったころ、由里子は別れ話を切り出した。それは河辺が一年間で学習意欲や文学に関する関心を失ったことへの由里子の反省だった。

「別れたいと思うの。貴方が嫌いになったわけではないの。いい、これだけは、信じて。嘘は言わないわ。好きよ。今でも大好きよ。でも、でも、このままでは貴方はだめになるわ。貴方には才能があるのに、その芽を私が摘んでしまった。でもまだ完全には摘んでいないわ。今ならやり直せる。お願い。別れましょう。貴方は私無しで生きてみて。そのほうがいいわ。このまま私といたらあなたはだめになる。そうしたら、嫌いになるわ」

 ・・・・

「貴方も、私を嫌いになる。私も貴方を嫌いになる。だから、だから・・・これ以上嫌いになる前に別れて。今ならまだ間に合うわ。好きよ。そして、いつまでも好きでいたいわ」

 河辺は驚いた。自分でも自覚していたことを、由里子から言われたことに驚いた。確かに自分は高校時代の自分ではなかった。未来を信じてがむしゃらに読書をしていた自分ではなかった。

 去年の四月、大学に入ったばかりの頃、河辺が由里子と会ったときは、二人とも過去の二人を互いに見ていた。あの文芸部での一年を。河辺が高校一年で、由里子が高校三年生だった。一年間で河辺は由里子に促されるように本を読み、成長した。由里子は由里子で必死で創作に励み、なおかつ受験勉強にも励んだ。

 その二人の夢のような一年間を反芻するかのように、二人は意気投合した。二人が半ば同棲するような形で生活を始めたとき、夢はいつしか遠ざかっていた。生活者の二人がいるだけだった。いや二人は生活者ですらなかった。ともに実家からの仕送りで、未来の夢を見ることなく、些末な日常生活に埋没していた。

 河辺にもこのまま自分が進んだら、あの高校生活は何だったのだろうかと、思うときがあった。由里子が高校を卒業してから、河辺は手探りで生きた。小説とは何か。文学とは何か。一人で読むしかなかった。由里子はいなかった。そして二年間が経った。自分が小説家になってそれで生活していくだけの自信はもてなかった。何らかの形で大学を出て会社員になって、そして小説を書いていけばよいかと思った。だから、文学部などにいって文学の研究者にはなるまいと思ったので、結局、工学部へ進むことにした。だから、河辺は工学部へ入ったからと言って小説家になる夢を捨てたわけではなかった。読書が第一の生活だった。

 だから由里子との再会は、河辺の夢を一層育むものになるはずだった。最初のころは、確かにそうだった。二人は三年前に時間を逆転させて熱っぽく文学について語りあった。最初のころは。crystalrabbit 

地蔵人形

crystalrabbit

地蔵人形

 

 母の葬儀が滞り無く終わり、お棺に花が手向けられる前だった。父が喪服のポケットから小さな地蔵人形を出して、母の手に握らせた。布でできたお地蔵さんだった。父は手をいったん引っ込めたがその後思い直したのか、再度母の手のところに自分の手をもっていって、そのお地蔵さんを裏返して、母の手の中でうつむきにさせた。さらに、ポケットから一枚の写真を出して母の手にもたせた。私たち三人姉妹弟の写真だった。

 小さな遺品をお棺に入れるのはよくあることだから、不自然さはなかった。よくある光景のひとつに過ぎなかった。

 

 葬儀が終わって何日かして、私はその布人形が、違い棚の私たちの写真のそばにあったものだと思い出した。

 床の間の横の違い棚には、私たち三人姉妹弟の幼い頃の写真が写真たてに入れて立てられていた。父も母も写真にこだわらなかったので、その写真以外で家の中で写真など飾られたことはなかった。

 その写真立てにもたせかけるようにして、その小さな地蔵人形は立っていた。頭巾をかぶったふっくらとした顔には、細い目が紅い糸でつくられていた。かぼそい口は顔の布を少し窪ませただけだった。表情だけ見ると、笑っているようにも見えたし、眠っている幼子のようにも見えた。手は先が細くなった布が中央で結ばれ、お祈りをしているようにも見えた。手のほうから見ると、お地蔵さんのようにも見えた。不思議な人形だった。

 

 四十九日の法要の打ち合わせのために実家に帰ったときそれとなく父に尋ねた。

「最後にお母さんにもたせてあげたお人形さん、あれ何だったの」

「お母さんが自分で作ったんだよ」

「へーえ、あんなものも自分で作れたんだ」

「手先が器用だったからね。パッチワークの端切れで作ったんだと思う。いつのまにかできていたから」

「もっと作ればよかったのにね」

「いや、一人だけでよかったんだ」

「ひとつだけなら、お母さんの記念においておけばよかったのに」

「いや、あの子はお母さんと一緒にいるのがいいんだ」

「あの子って・・・?」

「四人目・・・」

「私たちの弟か妹?」

「そうだよ。生まれてはこなかったけどね」

「名前もないわけ?」

「そう」

「そんな話、はじめて聞いたわ。なぜ黙っていたの?」

「こういうことは、子どもは知らない方がいいんだ。後ろ向きになってもいけないしね」

「それじゃ、二人だけで供養してたというわけ?」

「それぞれが、心の中で。時々話題にしてね」

「へえっ、そんなことがあったんだ」

「下になるほど賢い子が生まれるので、産んでおけばよかったと言ってたよ。一度だけ」

「そうよ。男の子だったらよかたのにね」

「ずっと年をとってからだよ。だから何を言っても手遅れだった」

「それで、その子の命日は?」

「八月四日」

「そう。これからは母に変わって私が供養してあげる」

「いや、もういいんだよ。あの子はお母さんと一緒なんだから」

「そうね。二人で仲良く遊んでいるわね」crystalrabbit

解散

crystalrabbit

解散

 

 二学期の期末試験が始まった。朝、いつものように坂を上って、一息ついたとき人だかりがしていた。模造紙に書かれた文章。一目で生徒の文字だとわかる。

 試験をボイコットしようと書いてある。その理由について、何人かの教師の悪口やら質問状があった。そして、その質問状は期限付きで一週間も前に出しているのに、回答が寄せられないので、試験をボイコットするという宣言であった。そして、このような独善的な教師の横暴に攻撃すべく、みんなで期末試験をボイコットしようと書かれてあった。

 騒然とした中にも覚めた生徒はいるもので,それらの生徒は,自分は自分のしたいことをするさと決め込んで、その扇情的な立て看板に一瞥をくれただけで,さっさと教室へ入った。

 書いてあることはわからなかった。これまでに、これを書いた生徒ら、教師の間に何があったのか。これを書いた生徒らの名前はすぐにわかった。それぞれの文章のあとに文責誰々と知っている女生徒の名前が書いてあった。クラスは違ったが、同じ学年の生徒だ。一年のとき同じクラスにいた。もう一人は選択クラスで同じだったことがある。確か、それは現代国語のクラスで、特別によくできた女生徒だった。そのせいかどうか、よく教師に当てられ、僕など想像だにもしないようなことを、的確な日本語で答えた。当てた教師も、そうだね、と言ったきりで、それ以上補うことは、彼女の場合はなかった。だからと言ってここに書いてあることを信じたわけではない。

 

 試験をボイコットしたことに対して学校側から何も注意は与えられなかった。ただ欠席したの同じように扱われただけである。

 事態は一向に解決せぬままに、自分たちが何と戦っていたのかわからなくなった。

 単なる逃避だったのだろうか。どこへももって行きようのないエネルギーをただ闇に向かって放り投げただけなのだろうか。

 

 何となく集まった仲間はまた、もとの自分たちの棲んでいた洞窟に帰るしかなかった。

 土曜日の午後だった。天理教の支部と道路との境にある白壁は晩秋の日を暖かく反射していた。顔を上げると拝殿の破風も、いっそう白く輝いていた。晩秋とは言え、潮風に包まれた空気は暖かった。

 自分たちの行動について誰一人として後悔などしていなかったが、もう決着はついていた。狂ったように受験勉強をしていたわけではなかった。しかし、重い空気に押しつぶされる前に、自らの時間を作りたいと思っていた。そして、日常性からの脱出を試みた。

 ・・・理由はみんな違っていた。その違っていた理由を話し合えばその分、お互いの心が離れていくことを知っていた。そして、さらに話し会えば、もともと一致することなどなかったということが、今にも明らかになりそうだった。そのことにみんな気づいたのか、誰もが過ぎ去ったことを、あれやこれやと言わなくなった。それでも、みんなの眼は輝いていた。やるだけのことはやったという思いで一杯だった。

 大山神社の前の歩道を過ぎると、潮風が通り過ぎていく。海沿いのバス通りに出る前に食堂があった。足を止め暖簾を潜った。誰かが、飯でも喰って帰ろうかと言ったのだろう。

 思えば、ここにこうして集っているものの、それが最初で最後であった。そして、どこかに接点が、ごく短い接点だけがあった。

 そのことは誰も口に出して言わなかったが、そうでなければ、ここにこうして集うこともなかっただろう。そして、過ぎ去った日々のことを徒労という言葉ではなく、充実という言葉で塗りつぶし、そして今の気持ちを、希望へと変えようと思った。

 秋の空は変わりやすい。やがて、曇り、寒風が吹きすさぶ日々がもうそこまで来ていた。でも、その日だけは、もうしばらく穏やかな小春日和が続きそうに思われた。

「じゃあ・・」

 一人一人がそれぞれの方向へ向かって歩き出した。やわらかな瀬戸内の陽光を身体一杯に受けて。

 ・・・このようにして、高校三年の秋は過ぎた。決して日常性の中に戻ったのではないが、それぞれが、自分の足で歩くしかないことを少しだけ自覚したのだった。crystalrabbit

 

雪猫

crystalrabbit

雪猫

 

 山にはまだ雪が残っていた。弱いかげろうのような力のないお日さまが、窓ガラスから射し込んでいた。

 その日、一匹の白い猫が、灰色のペンキの剥げかかったブロック塀にピョンと飛びあがった。そして塀の内側の庭を充分に観察もしないで、無遠慮に飛び降りた。そのしぐさが、以前いたピョンという猫にあまりにもよく似ていたので、この猫がどこの家の猫かわからなかったが、初対面なのに愛着をもった。

 その猫は二日たっても、いっこうに立ち去ろうとしないので、これはピョンのときと同じように我が家に住みつくのだろうかと思った。翌日もその猫はどこにも行く気配がなかった。その確信はますます強くなった。そこで、この猫にも名前をつけてやらなければと思った。

 ブロック塀に飛び上がったしぐさから、ピョンという名前にしようと思った。

 しかし、ピョンというのは以前にいた、黒い猫の名前だった。その猫は黒猫ピョンということで、家族からも随分大切にされ、ピョンも家族の親愛の情を裏切ることなく、よく家族のものになついた。

 今度の猫は、そのピョンを思い出させた。しかし、毛の色はピョンとは真反対で、からだ一面がまっ白だった。だからピョンという名前は不似合いだと思った。

 しかし、これといっていい名前を思いつかないので、ヒョンということにした。

 ヒョンはすぐに家族の一員として溶けこみピョンと同じくらい、よくなついた。これは家族のものにも、ピョンの記憶が鮮明で、猫との接し方を心得ていたということが多いにあったのではないかと思うが、ヒョンの性格にもよるのではなかろうか、と思った。

 ヒョンはすぐに家族みんなから愛されるようになった。その中でも、やはり一番愛していたのは、私ではないかと思う。だから私が、こうしてその思い出を記しているのだ。

 ヒョンは白い、まるで雪と見紛うように白く美しい猫だった。からだ全体をおおう毛は真っ白で、夏でもそこだけは雪が積もっているように見えた。そのほかといえば、顔のまんなかに小さくついた目が緑色に光っているだけだった。それに、ときおり見せる足の裏は古い碁石のように黒くすり減っていた。

 ヒョンが我が家に現われたのは、春先の、ちょうど裏山の雪が消えかけた頃のことだった。

 庭の芝は寒い冬の間、地表の部分は枯れて地下のたくましい根っこだけで静かに春の到来を待っていた。よく見ると、紅茶色の茎と茎の隙間に、小さな芽が伸びてきていた。

 そこに静かに腹ばいになっているヒョン。春の訪れが、地上からと地下からと重なりあったかのように、純白の毛は春風にゆれて銀色に光っていた。

 淡い春の光の中で輝いていたヒョンは、仲春を過ぎたころから動作が緩慢になった。気候のせいだと思った私は、そのことに深く拘泥はしなかった。しかし、いつしかパンジーの花弁も褪せて、かなかなの鳴く声を耳にする頃になると、さらにヒョンの姿は頼りなげになった。ただ唯一の救いは、いかに懶そうに見えても、白い毛は始めてヒョンに会ったときのままで、いつも日の光を浴びると白銀に輝いていた。日影に入れば入ったで、その光は微妙な陰影をたたえ、いわばいぶし銀のような深みのある色に変った。

 何の予感だろうか。その頃、私は自分でも気づかぬような、不思議な気持ちをヒョンに抱いていた。そのことに私が気づいたのは秋口になってからのことであるが、今ふりかってみると、この頃から心の奥底で、私は不思議な予感を抱いていた。

 夏の暑い日の午後、私は納屋の土間に静かに座っているヒョンを見た。四本の足をきれいにそろえて、まるで雪で作った人形のように、姿勢よく座っていた。

 どことなく元気がない。何分かのち、もう一度そこへ戻ってきたときにはヒョンはいなかった。セメントのひんやりした土間のちょうどヒョンがいたあたりに、小さな水たまりができていた。一見、尿の痕のように見える。しかし、私はヒョンがけっして人に見られるようなところで、小用をしないことを知っていたので、不思議な気がした。あるいは、体調を崩したのではなかろうか、と思ったりした。  

 脛をつき、両手をついて鼻を近づけた。セメントの湿ったにおいがするだけである。指の先につけて舐めてみた。塩気さえもなかった。

 ……やがて、季節はめぐって、家のまわりに雪が覆った。昼の日が白い雪に反射してまばゆい中をヒョンは、静かに山に向って歩いていた。その夜、ヒョンは帰ってこなかった。翌日も同じだった。  

 雪がたわわに積もって、枝が弓なりになった常緑樹の葉が小さく見える。白銀の中の淡い緑が目にやさしい。その緑の中にヒョンの目があるように、いつも思う。      

 そして、春になったらブロック塀を越えて戻ってくることを、私は今でも信じている。crystalrabbit