流犬

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流犬

 

 さっきまで叫んでいた野犬の鳴き声が、今は静かになっている。しかし、すぐに喧しくなるだろう。何が切っ掛けになるのかは、わからない。一匹が叫ぶ。他の犬が呼応する。さらに、呼応する。耳を覆いたくなる。しかし、しばらくすると止む。まるで、疲れてきたので吠えるのは止めたとしか、言いようがない。そんなふうにして、いつも犬の喧噪は収まる。

 全てが全てどう猛なのではない。もとはおとなしかったのもいる。しかし、捕まえようとすると、本能を剥き出しにして、荒れる。そして、檻に入れられてから、ますます凶暴になる。そう思えてならない。

 留め吉は七兵衛から言われたとおり、五匹の犬を集め、二つの頑丈な木箱の檻に入れて、運んできた。

 花畠下の船着き場から島送りの船は出る。

 年寄の七兵衛から声がかかったのは一昨日のことである。七兵衛は町方からの布令を示して、言った。

「来る十二、十三両日に捕らえ十三日の朝飯後より、花畠下にて船積み申すべく候・・か」

 七兵衛が息を入れた。 

「へえ」

 留め吉は前回のことを思い出していた。あの時はたむろする野犬の数もあらかたわかっていたので、あっという間に数匹を捕らえたが、今回は、どこにいるかもわからない。苦情らしきものは出てない。こちらから当たってみなければ・・。

「もっとも、町々より犬数かきつけ、引き廻しの者一人ずつ相添い連れこし申すべく候」「へえ、承知しやした」 

 七兵衛は皆まで読み終わらぬうちに、留め吉の声に、手をおいた。

 これが十月十日に出された布令である。

「確か、二年ぶりですかね」

 留め吉は、二年前のことをありありと覚えている。おとなしそうな犬に、縄をかけようとしたところ、急に反撃され、袖を食いちぎられたからだ。幸い、すばやく引いたから腕は噛まれなかったが、あのときは怖かった、と今でも思う。

「二年前の霜月の頃だった。磨屋だけでも八匹もいた。弥七には私のほうから伝えておこう」

「へえ、お願いしやす。犬となると弥七のもんですぜ」

「そんなに、うまいか」

「名人って、とこかな」

 留め吉は弥七の目を思い出した。弥七が犬に向ける底抜けに澄んだ目だ。弥七が手を差し出すと、それまで警戒していた犬が、手のひらを返したように静かになる。そして進んで弥七のところに来る。弥七が示すままに、檻の中に入る。さらに、あろうことか、行儀よく両足をついて座る。まるで、くつろいでいるかのようだ。

 あの澄んだ目。弥七のあの目に、犬たちは惹かれるのだろうか。かといって普通の動物好きの人間がするように、笑っているのではない。弥七は犬を寄せるとき、決して笑わない。むしろ、どこか寂しそうな冷めた目である。その目に、犬は催眠術にでもかけられたかのように、寄ってくるのだ。

 

 翌日、留め吉は三匹捕まえてから、弥七と合流した。弥七はこれからだった。この前のときと同じように、難なく二匹を檻に入れた。その鮮やかな手つきを、留め吉は横から見ているだけだった。澄んだ目。ただ、二匹の犬を入れたときの弥七は、今まで留め吉が見たことのないほど、哀しそうだった。

 五匹を二つの檻に入れて、荷車に載せた。二つの檻が接近したとき、互いの気配に気づいたのか、どちらの檻からともいうことなく、犬たちが吠え始めた。

 弥七が檻の傍まできて、こんこんと手で檻を撫でるように叩くと、鳴き声は止んだ。

 留め吉が荷車を曳き、弥七が押した。

 その日、荷車を置いてから、留め吉と弥七は麻縄を手に、何度か見回ったが、これ以上の野犬をみつけることはできなかった。

 年寄の七兵衛には昨夜のうちに届けてある。その場で七兵衛は筆をとって書類を整えた。

「普段、野犬を見ることはないが、五匹もいたとは・・・」

「その気になって探せば、いるものでございますね。しかし、野犬といっても、おとなしいもんでさぁ、危害を加えるほどのものじゃございませんよ」

「そう、それそれ。なかには懐いていて、飼い犬同様に面倒を見てもらってたのもいるんだろうね」

「ええ。でも、飼い主が名乗らにゃあ、仕方がありません」

「役目とはいえ、ご苦労ご苦労」

 こういって、七兵衛は、墨が乾いたのを確かめてから、半紙を丸めた。

 半紙を受け取ると、それじゃ明日船着き場まで運んでおきます、といって留め吉は罷り出た。

 翌朝、弥七が来て、再び二つの檻を荷車に載せるのを手伝った。これを花畠下の船着き場まで運ぶのは留め吉の仕事である。ではこれで、と言って弥七と別れてもいいのだが、弥七は帰らなかった。

「土手を上がるとこまで、手伝いましょう」

 留め吉の怪訝そうな顔を見て、弥七が言った。

「仕事のほうは、いいのかい」

 留め吉が荷車を曳いた。

「ええ、それは何とか・・」

 ちらっと笑顔を見せて、弥七が押す。

「悪いね」

「いいえ、ちっとも」

 犬はおとなしい。弥七の声のせいかどうかは、留め吉にはわからない。

「悪いねえ・・」

「うん?」

 留め吉が振り返った。

「いえ、こいつらに言ってただけです」

「犬にか?」

「ええ」

「おめえさん、犬と話ができるのかえ?」

「そんな・・・。話はできませんが、気持ちだけは通じるような気が致しやす」

「・・・・」

「哀れなやつらですね」

「犬が好きなんだろう」

「ええ、ですから、この仕事はつろうございました」

 道々、留め吉は弥七の思い出話を聞いた。

 弥七が五歳の頃、弥七の家にも犬がいたという。弥七について来た子犬が、そのまま居着いて大きくなった。チビと言って弥七だけでなく、父にも母にもかわいがられていた。夜中、弥七が目を覚ますと、父母の話し声が聞こえた。家族三人の食べ物を十分にないときに、チビをこれ以上飼っておくわけにはいかない。明日は何がなんでも、殺すしかなかろうというものだった。父母が寝静まってから弥七は静かに起きあがって、土間に出た。チビが寄ってきた。チビは弥七に抱かれた。チビが弥七の頬を舐めた。弥七の涙がチビの顔に落ちた。弥七はチビを抱いたまま眠ってしまった。

 目が覚めたときはチビはいなかった。

 弥七は親の前では泣かなかったが、その夜、寝るときになってはじめて涙を流した。

 それ以来、もう二度と犬は飼わないと決心した。

 その気持ちは変わらない。犬が嫌いではない。好きで好きでたまらいない。しかし、必ず別れが来る。それがたまらないから犬は飼わないのだと、自分に言い聞かせるのだ。

「だからというわけではないですが、野犬狩りは胸が痛みます」

 弥七のいうことを聞いて、留め吉はやっとわかった。あの野犬たちの安心したように弥七に靡くさまが。

「人間って勝手なものですね」

 弥七が言う。

「ああ」

「犬も殺しちゃいけねぇ、という時があったかと思うと、今度は毎年毎年野犬狩りですからね」

「確かに・・」

 生類哀れみの令のことを言っていることは、留め吉にも分かった。先の将軍徳川綱吉公が命だという、法のことである。ただ野犬が増えたということであれば、法が改められて以降、ほどほどに野犬狩りがおこなわれば、またもとの世に戻る。しかし、簡単には、そうならない。心の問題である。吉宗生存中に本気で生類哀れみの令を信じたものたちは、その法律が消えてなくなった今も、心から信じていることだ。犬は便利な家畜であるが、野犬が増えれば、ほどよく処分される。それが過剰に保護すると、大きくなって手に負えなくなるという始末である。

「野犬というほどのことはないような、犬までこうして捕らえるのですから、かわいそうですよ」

「出石の鷹匠が、野犬が多くて困ると訴え出たということらしい」

 留め吉はそんな話を聞いたことがある。そして今回の布令であるから、従わざるを得ない。

 花畠下の船着き場から、船は出る。行き先は日生の鹿久囲島だ。島送りである。crystalrabbit

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