我が越え来れば

crystalrabbit

我が越え来れば 

 

 もの心ついたときには、自分の周囲にはあまりにも、喧噪が渦巻いていた。

 今朝も、早暁より、鴬の鳴き音は繁く、やがて朝日の移動とともに庭にまで押し寄せて来る。庭にきた鴬の啼き音を聞いて、ふと、のどかなるものとはこんなものかと思考してみるものの、自分にはいっこうにその気持ちがわからぬ。鴬そのものは、憎くもなければ、恨めしくもない。朝夕の冷気も、何ら厭うべき理由があるわけではない。なかんずく、自分の気持ちの上においても、乱るるものは何もない。

 しかし、なぜか。この声ばかりが、かしましくかつ喧騒の如くに我が耳のまわりを旋回するのである。こと鴬だけに限定せずともよい。時鳥、ほろほろ鳥の類はもとより、何ごとにつけのどかなるものが、私が思う先から、私の周囲から遠ざかっていく。その遠ざかる一歩手前、あるいは遠ざかる一瞬一瞬においてのみ、私はそののどかなるものを楽しむことができた。まことに慌ただしいのどかなるものである。

「草ふかき霞の谷にはぐくまる鴬のみや昔恋ふらし」という歌を歌ったときのことを今でも鮮明に思い出すことができる。……しかし、そのときのことを思い出して何になろう。 

 あのときも、私はいにしえに思いを馳せて日々刻々に変化する私の日常を変じることができぬのかと、念じたものである。しかし、実際には変じたものの、私の思惑をはずれてとあらぬ方角へと移っていったことは、今思うだけでも悲しい。

 

 このように書いたからと言って、私が私の境遇を嘆いているかのように思う向きがあるかもしれない。そのような誤解の原因が私の心にあるにせよ、それはやはり私のほんとうの気持ちではない。

 私が私の今の境遇に満足しているかというと、そうではない。しかし、だからと言って他に私のいかなる人生がありえようか。それは思ってみるだけはかないことであるというのは、この私自身が最もよく心得ていることである。

 いったいこの喧騒は何にもとづくのか。自分の内なる性によるものであろうか。あるいは自分の身体を離れたところでの、目には見えぬが、地下水のように密やかに静かに進行している、何か得体の知れぬ動きのようなものか。そしてその動きは、私自身の内部に、ちょうど蝶の羽音を感じるように感知されて、それが私の脳髄に達するや、喧騒と成りかわるのであろうか。

 同じことである。外部も内部もない。どちらかが原因で、他方が反映というのも愚かしいことである。確かに私にとっては、片方で発生した羽音が、他方で反射するとともに増幅されて、再び送り出されるという、その繰り返しの如くに思われなくもない。

 いとわしいことである。しかし、そのことを、自分はどうすることもできぬ。ただ、生き永らえているかぎりにおいて、それに耐え、慣れ、挙げ句の果ては親しんでいくばかりであろうか。

 この、私の中で反響され増幅される喧騒というのは、あきらかに自分にとっては夾雑物である。この湖の岸辺を打つ漣のような喧騒が、須臾にして消えてしまうことはないものだろうか。このことは、今までに、私が幾度も願ったことである。嗚呼、やんぬる哉。叶わぬことであった。あれだけ、請い願いながらも成就せぬものが、何をいまさら、と思う。しからば、その喧騒に堪え、あるいはその喧騒を飼い慣らすほかあるまい。      

 それらは、かならずしも自分の間近で起こったわけではないと思う。このことを自分がしかと意識したのは、ずっと後年になってからである。しかし、今にして思えば、その雰囲気だけは早くから感じてはいた。ただ、その正体がはっきりしなかっただけである。勿論、今だって、はっきりしているわけではないが。

 しかし、自分の心の中にも、幼き日の記憶を辿れば、心やすまる思い出もいくらかないわけではない。

 その中でも和歌のことになると、甘く懐かしいような気持ちで胸が一杯になる。

 和歌は自分が興味を抱いた最初のものである。幼少の頃より読み書きを初めとして色々なことを習ったが、その中でも和歌だけがいつまでも自分の心の奥深く残っているのだ。読み書きのことは、乳母に丁寧に教えてもらった。

 取り分け和歌のことは、乳母も好きだったらしくて、自分に教えるときにも、自然熱が入った。熱だけではなかった。和歌を教えてくれているときの乳母には、愛情が溢れていた。そのせいか、幼少より和歌が特別好きだった。

 最初は乳母も当時流行の歌をいろいろと聞かせたり、読ませるだけであったが、いつのまにか自分自身も歌を作るようになっていた。その自分が作った歌に対して乳母は何もいわなかった。ただ、作ったことそれだけを讃めただけだった。それでも自分にとっては、途方もなく嬉しかった。そのときの乳母の笑顔を好ましく思った。

 自分でも、できた和歌がいいものやら拙いものやら、皆目見当がつかない。そんなとき、乳母は嬉しそうに励ましてくれた。

「まあ、お上手ですこと、亡き父上様のお筋と申しましょうか……

 誉め言葉は耳に入らなかった。白髪のいくぶん混ざった頭にほどよく調和した丸顔の顔をしわだらけにして、細い目を一層細めて笑う、乳母の表情がたまらなく好きだった。だから後に自分をとりまく環境が変わって、自分自身にとっても不如意な日々が続いたとき、ふとこの頃のこと懐かしく思い出したものである。

 いろいろな人の和歌をこの乳母から読んでもらったわけだが、それらの人たちの名前は一切覚えてはいない。

 しかし、乳母は亡き頼朝殿が優れた歌読みであったことを、よく語った。そのときは、そのことを何とも思わなかったが、後年自分で和歌を学んでいたとき、随分と誇りに思ったものである。

 頼朝殿が亡くなったときのことを、まだ八才に過ぎない自分がどの程度理解し得たか、確かではない。それでも、自分のまわりで大変なことが起こったということを、子供心にもはっきりと感じた。このときの話を聞いたのはずっと後のことである。

 正治元年(一一九六)の正月のことである。この日の鎌倉のようすをどのように譬えればよいであろうか。

 あたかも真昼の太陽が、瞬時にして消えてしまって夜になったときのような驚きだったという。鎌倉中が上へ下への大騒ぎであった。驚鍔を孕んだ大波は幕府から出て周囲に当たると反射してまた戻ってきた。それが、あとから出ていく波とぶつかりあって、新たな衝撃が生まれた。 

 そのようにして、混乱と驚きは鎌倉中を駆け巡った。

 このとき、自分のまわりで何か途方もないほどの異様なことがおこったと思った。しかし、そのときの自分には、その異様なものの正体が何であるかは、すぐにはわからなかった。

 後年、そのことに気付いたときには、すでに自分の運命は決まったようなものだった。そのときの、自分のうかつさに、後悔の念を禁じ得ない。しかし、自分はそういう考えに長くはとらえられなかった。深く考えてみるまでもなく、このことにすぐに気がついていたところで、どうにもならなかったのではないかと今では思っている。

 このような一見楽天的とも見えるような気性が自分にはあった。それとは反対の面も当然のこととして表れた。そのひとつは冠位昇進のことである。すでに傾きかけた公家の出す冠位にどれほどの値打ちがあろうかということについては、知らぬものはなかった。そんな冠位に拘泥している自分は一体何なんだろうか。

 

  実朝哀歌

青葉繁れる 八幡宮

月もおぼろの 大銀杏

語るいにしえ 段葛

浮かばぬ船も 朽ち果てて

潮風の舞う 弓が浜

ああ 実朝の 夢はるか

 

   わが越え来れば 伊豆の海

   沖の小島に 波の寄る見ゆ

 

胸に秘めたる 右大臣

ゆれる松明(たいまつ) 雪あかり

おりる石段 運命の

闇に飛び出す 黒頭巾

鮮血の舞う 雪の上

ああ 実朝の 夢はるか

 

   磯もとどろに よする波

   われてくだけて 裂けて散るかも

 

雪に写りし 松明に

見守る公卿 影あわし

ああ 鎌倉の 土に散る

 

 

 

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