ベルサイユ

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ベルサイユ

 

 やがて、見送る人たちの姿が棒にになり、点になった。

 和彦の目の前を蒼い海水がおもしろいように後へ流れる。

「和彦、リカ。さあ中へ入りましょう」

 いつまでも海とその向こうに広がる眺望に見飽きぬ和彦とリカに美紀が声をかけたのは、周囲の乗客の大部分が船室へと姿を消してからである。

 何度も旅をしたことのある人たちは、足早に自分の部屋へと下がったが、大半の人が初めてのことと見えて、遠ざかる六甲の山並みをいつまでも眺めていた。それらの人たちも今は、ほんのわずかの人が残っているだけである。

 白い甲板に照りつける陽よりも、海面で反射する太陽のほうがまぶしい。

 デッキを下りて清潔な通路を何回か曲がったり、階段を下りたりして船室に入った。そこで、美紀は帽子をとり、荷物の整理をはじめた。

 和彦とリカはおもしろそうに室内を見回していたと思うと、すぐにそれにも飽き二人ではしゃぎだした。

 自分一人なら何とか退屈を紛らわせることができるが、子供たち二人を満足させるとなると、たいへんなのではないかと思った。はじめのうちはいいだろう。船内の緒設備や娯楽施設に興味をもって見るであろう。しかし、一通りわかってしまうと子供のことであるから、飽きがくるのではないか。そのときどうやって、子供たちの相手をしてやるか。これは覚悟しておかなければ、と美紀は思った。

「ママ、外の山を見たいよ」

 和彦が言った。和彦はどちらかというと、静かな落ち着いた子供である。これは小さいときからの性格であり、成長しておとなしくなったというのではなかった。何かにつけ、無茶をしない子で、美紀としては大いに助かった。特にリカが生まれてからは、和彦ばかりに手をかけることができなくなったので、和彦の協力は随分ありがたかった。もちろん、和彦が美紀の子育てに意識して協力したのではない。ただ、そういうい性格だったというわけだけれども、美紀にとってはまさに和彦の協力にほかならなかった。それほど、和彦はおとなしい子供であった。しかし、だからといって、病弱とか、意志薄弱というのでもなかった。自分の言いたいことや、好みはいつも強く主張した。特に好きなピアノのことになると、頑固ぶりを示した。しかし、それも、ただわがままを言うというのではなかった。ある程度は主張しても、それがどうしょうもないことだとわかると、素直にしたがった。それが、和彦の性格だった。

 だから、今日のこの主張でも、美紀が気に入らなければ、その理由を説明すれば、納得するはずであった。美紀はどちらかというと、列車の旅で疲れており、このまま船室で休んでいたかった。しかし、今の景色をみなかったらこれからまもなく太平洋に出るので、日本の景色を見る機会はなくなるのではないかと思った。

「わかったわ。それでは展望客室に行きましょう。その前にママちょっと支度をしなくちゃあ。ちょっと待ってて」

「わぁーい、いいぞ、いいぞ」

 和彦の喜んだ表情を真似るようにして、リカが喜んだ。しかし、リカはこのことをどの程度理解して喜んでいるのだろうか、美紀にはわからなかった。ただ、和彦が喜ぶようすをリカが真似たような感じがして、美紀は不愉快になった。こういう感情を子供心にも、真似るということに何か言いようのない嫌悪感を感じた。

 しかし、そうかと言ってリカを疎ましく思っているのではなかった。リカにはリカの才能があるということは、美紀が一番よく知っていた。

 リカは和彦とは反対に美紀にとっては世話のやける子供だった。末っ子ということもあったのだろうか。何かにつけて、自分の好き嫌いの感情をあらわに出し、一度やりはじめたことは、とことん自分一人でやってしまわないと気がすまない子供だった。しかし、そうだからと言って、リカがわずらわしかったわけではない。美紀はこういうリカのような性格をした人間をどこかで見たような気持ちがした。だれだっただろうか、にわかに思いだせない。あるいは、今まで読んだ小説の中にあったのだろうか、と考えたことがあった。……しかし、そのような、まるで自分中心といったような性格をもった人間というのは実は幼児の自分自身の姿であったのである。そう思うと、どんなことをリカがしても美紀は許してしまう。            和彦も、リカもわがままを言い出した。しかし、まもなく太平洋に出れば、日本の景色ともお別れだから、子供たちのいうように外の景色を見せてやろうと思った。

 美紀は和彦とリカを連れて階上の客室へ上がった。

 乗員乗客あわせて三百七十八名を乗せた豪華客船「ベルサイユ」は、波穏やかな瀬戸内海を南へと航行していた。右手に淡路島が、ちょうど巨大な鯨が浮かび出たかのように、静かに佇んている。左側は大阪湾に面した工業地帯が靄の中にかすかに望める。友ヶ島水道を抜けると紀伊水道を経て外洋に出る。

 

「ベルサイユ」が太平洋に出てから、二日たったが、大きな変化はなかった。船内にさまざまな設備が整っており、退屈せずに過ごしている。

「ママ、もっといろいろなところをまわってみようよ」

 和彦は美紀に連れられて行った船内が次から次へと変わっておもしろいらしく、次に何があるのかという期待に胸膨らませるのだった。

「航海はまだずっと続くのよ。船内の探険がすべて終わったら、楽しみがなくなるでしょ。楽しみはあとに残しておくものよ。少しずついろんなところを見てまわりましょ」

 美紀は船内の緒設備をすぐに見てしまったら、あとの楽しみがなくなるのではなくなってしまうので、できるだけ、少しずつ、探険するように調べてから利用したいと思っていた。それはちょうど新しい町に引っ越してきたとき、少しずつ町のようすをさぐっていくのにも似ていた。

「でもね、ママ。少しずつ先に伸ばさなくてもみんな見てしまってから、好きなところで遊べばいいのじゃない」

 和彦としては、早くすべてが知りたかった施設がいっぱいあって、今日はこれ、あすはこれというように小出しにするのではなくて、最初にすべてを教えてほしいのだ。

「リカはどうなの」

 三歳のリカにはっきりした意見などあるわけではないが、やはりリカの機嫌もとっておかなければならない。どんなに多数の設備や娯楽が準備されていようと、海の上であることにはかわりなかった。いわばひとつの閉鎖社会である。快適そうに日々生活していても、心のそこには、だんだんと靄のような気持ちがたまっていくだろう。大人だから口には出さないが、それはしかたのないことである。そういう大人の雰囲気を子供が敏感にキャッチして、いつのまにか自分が同じような状況になるのではないか。特にリカの場合は、美紀と性格的にも似たところがあるばかりでなく、以前から女どうしの共鳴しあうものが強いだけに充分に注意しておこうと、美紀は思っていた。

「ママ、まんが見に行こう」

 リカが大きな目を横に細めて言った。

「さっきまで見てたじゃない。リカ、いろんなことをしなければ。リカのように漫画ばかりみていたら、漫画がつまらなくなったとき困ってしまうわよ」

「困らないわママ。だってマンガ好きですから、つまらなくなることなんかないわ」

 ああ、また始まったと思った。一度言い出したらきかないリカの言い分である。さっきまでアニメシアターで何本も漫画番組を見、やっとのことでさっき船室へ帰ってきたところなのである。家にいたときはテレビでいくらでも漫画が見れるがそれでも限度がある。それに子供のほうから飽きて、すぐに外へ出ていってしまう。しかし、ここは船の中なのだ。外へ出ようにも、部屋をかわるということだから、子供にとっては、どこで遊んでもたいして代わり映えがしないのかも知れない。一度おもしろいとわかるといつまでも同じことをしている。それも家にいたときの何倍という時間をかけてである。

 美紀は不安になった。できるだけ、いろいろなことをさせて、あまりひとつのことに集中させないようにしようと思っているのに、子供のほうが熱中するのである。

「今日はもうアニメシアターはやめましょうよ。さっきまでリカの言うとおり何本も漫画を見たでしょう。今度はお兄ちゃんの希望を聞いてあげましょうよ」

 美紀はさっき自分のほうからリカの意見を聞こうと思って水を向けたのに、こういう形でリカのいうことを無視するのは、いやだなと思いながらも、リカの希望を断ってしまった。美紀は自分が嫌な人間になったなと思ったが、ここは船の上なのだから、ある程度は止むを得ないのだと自分に言い聞かせた。

「ぼくは、もうひとつ新しいところを探険したいな」

 和彦がすかさず言った。さっきから美紀とリカとの会話を黙って聞いていて、ママを困らせてやろうという魂胆が笑顔からうかがえた。

「それは無茶だわ。今日はもう二つも新しいところを探険したのを忘れたの」

 美紀は、しまったと思いながらも、ここは引いてなるものかと言ったような闘志があふれ出てくるのを感じた。そして、思わず大きな笑い声が出てしない、そのおかげで、リカのときと同じような思いをしなくてもよかったのは救いだった。

「ホホホ……。お母さんの負けね。二人に負けるなんてどうかしているわ」

 もう今日は黙っていようと思った。

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