遊女人形

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遊女人形

 

 ハルは舞子が好きだった。流れるような黒髪の下に静かな微笑をたたえた舞子を見ているだけで、うっとりする。ハルは何時間でも舞子を見つめていたいと思った。ふっくらとした頬。かすかに開いた愛らしい口元。そしてはるか永遠を見つめているような、やさしい瞳。舞子を見ていると、ハルはこの世に自分が生きていることを忘れた。永遠の時間の中を自分が泳いでいるような気持ちになった。

 紅色に染められた絹の袷が、舞子の可憐さをいっそう引立てた。

 ふと、ハルは、今の自分には生命がなくて、この舞子のほうに生命が宿っているように思った。

 ああ、人形というものはそれが精巧にできていればいるほど、本当の命以上の命を与えられるものではなかろうか。

 やがて、自分は死んでいくだろう。二〇年と幾年かの命……はかないものである。このはかない命を人形に託すことはできないだろうか。いや。できるに違いない。確かな腕をもった人形師の技に託せば、今の自分以上の生命力をもった人形ができるだろう。それに自分の魂がのり移ればいいのだ。だから人形が完成すれば、自分は死んでもいい。いや人形に命を吹き込むことと引き替えに自分は死ななければならない。だから、人形が完成するときが、自分が死ぬときだ。それでいいのだ。

 生あるものはかならず滅ぶ。滅ぶ前に自分の生命が自分にそっくりの人形に移り、永遠の命として生き続けるのだ。……だから、その人形は自分と等身大でなければならない。自分と寸分違わぬ大きさで、誰が見ても自分と生き写しでなければならない。

   

 ある日、遊女のひとりから等身大の人形を作ってほしいと依頼された。一目見たときから、人形師の心に響くものがあった。この女なら、人形に生命を吹き込めることができる。こう思った。

 遊女のほうは、この世にはやがてさよなるする身だが、このまま死んでしまうのは残念だからせめて生きた証を残したいと以前から思っていた、と語った。そこで等身大の人形を作ることにした。人形師の名は吉四郎といった。腕のたつ人形師がいると聞いたので頼むことにした。

 

 遊女は美しかった。この時代にしては目が大きかった。目は燃えるように輝いていた。

 中央の飛び出た唇はなまめかしく、小刻みに動いていた。吉四郎は絵筆に、朱をつけるとハルのほうに近付いた。ハルの前に近寄ると、左手でハルの頭を後から支えるように持った。右手を少しずつ、時間をかけて持ち上げながらハルのほうに近付けた。

 あでやかな唇である。薄く開いた唇のまわりを、すべるように絵筆がなぞる。燃えるような朱の色が、白い肌を背景に浮き上がってきた。ちょうどそのとき、中二階の連子窓を洩れてきた午後の日が、口元を射た。一瞬のほのめきの中で、官能的な美が、人形師を狂わせた。震える手で、絵筆を強く握ったまま後じさると、急かされるように描きかけの下絵を持ち上げ、墨を走らせた。下絵はすでに何十枚も描いている。しかし、未だ満足のできるものは描けていなかった。これまでの習性として、自分の納得するまで下絵にこだわってきた。何十枚と、いや何百枚となく下絵を描いて、まさに精根尽き果てたところまで描いて、それから木彫りにとりかかるのだった。

 薄暗い作業場だった。二階の格子窓から夕日が斜めに差し込んでいる。絵筆の先が、ハルの唇に触れた。さっきからハルは眼を暝っている。

 唇はいっそう艶かしくなった。そこへ二階から斜めに差し込んだ夕日が当たって。唇は琥珀のように輝いた。

 吉四郎は「きれいだ、実にきれいだ。」と言って、もとの人形のほうに戻って人形にも彩色した。その前に下絵を何枚も書いており、それにも彩色する。吉四郎の眼が、ハルの唇を見つめる。ハルは恍惚とした気持ちになる。

 長い時間だった。といってもそんなに長くはない。ただ、吉四郎のあまりに真剣な気迫にハルが極度に緊張していたためである。ハルには長く感じられた。

「さあ、おわったよ」吉四郎が言った。ハルは肩で大きく息をした。赤い舌がすばやく口から覗いて、上唇を二度ほど軽く舐めた。

 ハルは二日に一度通ってきた。たいていその時間は決まっていて、昼すぎから夕刻にかけてだった。

 ハルが自覚していたのか、ハルの体力は人形の完成が近づくに連れて次第に衰えていった。

 ハルの体力が衰えると、顔の輝きが失われていくのが吉四郎にもわかった。吉四郎は、よけいにハルの顔に濃く化粧をした。しなびたような唇を、引き立たせるために、以前よりも、もっと明るい朱を調合して塗った。

 その日の制作が終わると、吉四郎はハルの唇を求めた。今ではそのことは習慣になっていたから、ハルは驚くことはなかった。眼を閉じて、痺れるような官能の海に身をまかせた。そして、斜めに入る薄日の下での長い接吻ののち、ハルは自分の残された生をいとおしむかのように、ゆっくりと、上唇を舐めた。ハルにもその味覚が、日々、甘味を増しているように思われたが、そのことを口に出して言うことはなかった。crystalrabbit