道元

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道元

         

 父や母のことを考えると頭がおかしくなってしまう。しかし、二人がいて自分が存在するのだから、否定のしようがないではないか。

 世間の人たちは父のことや母のことをよくは語らない。これらの話には多少の誇張があるにせよ、古より火のない処に煙はたたぬというから、あながち全てが作り話というわけでもあるまい。

 父のことは思い出すことは多くはない。私が幼少のときに亡くなった。その面影をつらつらと回想しても、ややうなだれてた小柄の後姿の男の姿があるだけである。いや、それは多分に、父の死後、母より語られた父への憎悪が、私に与えた影響から、私が心の中で作った姿かもしれない。

 仏門に入ろう。そう思った。しかし、それでいいのだろうか、と思わないわけではない。現に、周囲のものはみんなそのことに反対するではないか。

 やはり、仏門に入るということは、自分の人生において、過てる選択なのであろうか。自分で決めたことだとはいえ、いつまでたっても結論の出ない問いに、自らを苦しめていた。

 仏の道を学んで、亡き母上を弔うことがよかろう。

 私が比叡山延暦寺に上がったのは建暦二年(一二一二)のことであった。時に、十三才である。

「利発な子よのう。多いに学ぶがよい。きっと学問をきわめれば、人にも知られるほどになろう。そして天下に道元ありと言われるように努力するがよい」

 私は誉められているのに、素直に喜べない。果たして、自分は師の言説を信じていいものだろうか、と思った。

 自分がここに来たのはどうしてだろうか、と考えざるを得ない。天台の教義を学ぶことは確かだ。しかし、それは有名になるために、あるいはそのことが名誉だから行なうのではない。

 

 比叡山を出たのが十五才のときだった。

 あまりにもその世界は自分が思い描いていた世界とは、かけはなれていた。しかし、今さらどうなるものでもなかった。仏道の世界に入った以上、いや、その世界に入らないでいかなる自己の生きる場があったことであろうか。生存のぎりぎりのところで、この道を選んだのであるから、比叡山で見たこの宗教の世界がどんなに自分を落胆させるものであっても、もはや後戻りはできなかった。ただひたすら、この道を、すなわちおのれが抱く仏道者の生きる道を自ら求め続けるほかはあるまいと思われた。

 果たして,古の書籍は読まなくていいのだろうか。古い書籍には多くの公案が記録されている。これらの先人が得たことをそのまま埋もれさせておくことは,理不尽ではないか。先達の説く,叡智を叡智として受け止め,そして座禅に励めばいいのではないか。

 

 私と師が初めて会ってからすでに五年が経過しておりました。私が三十七才で師が三十五才になっていました。

 いよいよ師が独立した修業所をお作りになるということで、私もそこにご一緒させていただいた。ここで、もしうまくいけば、師が宗で学んだほんとうの仏の在り方をというものを日本に根付かせることができるのではないかと、私は思ったものです。

 建物は粗末であったが、しかしそこには凛とした気がただよっていた。

 この人となら、自分を全て捨てもいいと私は以前から思っていた。

 座禅をすることによってのみ人間は悟りを開くことができる。とにかく座禅をすべきだと、師は語っていた。

 越前に移ろうと師が言われた。越前は都よりはるかに隔たっている。かの地ならば、都の喧騒を避けて、真の仏の道を求めることができるのではないか、と私も思いました。

 越前は厳寒の地でした。もちろん真冬の都が暖かいとは申しません。都の冬は、確かに厳しいものがありましたが、それでも比叡山に過ごしたわれわれ修業者にとっては、意にかけるほどのことはごぜいません。それに引き替え、越前の……いや、こういうことはそもそもわれわれののような立場にあるものが軽々しく口にすることではありますまい。我々は厳しい環境のもとにあれば、それだけ仏の道に近づくんだと、信じておりますが故に、自ら厳寒の地に修業場を設けたものであります。crystalrabbit